2 微睡みが明かす
取り残されたフランヴェルジュは溜息を吐く。
グリザベラ、か。
妥協したくて妥協しようとは思っていないのだ。
グリザベラ・シェン・カー伯爵令嬢はどうも本気でフランヴェルジュを愛してくれているらしい。人柄、血筋、玉座を共にする相手として何の問題もない令嬢であるグリザベラは、フランヴェルジュの母、王妃アユリカナのような圧倒的な美貌というものは持ってはいない。だが、決して醜女ではない。彼女は表情の可愛らしい令嬢だ。優しい性格を表すかのように魅力的な笑顔の。
現在、フランヴェルジュの恋人とみられているグリザベラだが、フランヴェルジュと彼女の間に肉体関係は無い。
本気で愛しております、お慕い申し上げております、そう言われてしまうとベッドでの関係には今のところなっていないというか、なれないのだ。
フランヴェルジュが愛していると本気の言葉を紡げないうちは、もしくは求婚するまでは、グリザベラと身体の関係を持つ事は、恐らく、無い。
無い、が……だ。
『俺には恋愛という者は解らん。愛していると言えない男だが妻になってくれないか?』
そうフランヴェルジュが言ったのならば、グリザベラは恐らく受け入れる。
王太子、将来の王妃にグリザベラは相応しい女性に思える。
王族の権利は恋愛のみ。
愛してくれる女性を迎える事で弟が安堵してレーシアーナに求婚し二人が夫婦になれるのならば……いい加減決意せねばとフランヴェルジュは思っていた。
求婚、すべきなのだろう。愛しているといえなくとも、一欠片の妥協もないと言い切り妻に迎えるべきなのだろう。ブランシールも、フランヴェルジュが決めたといえば飲み込んでくれる。
全てのみこんでグリザベラ・シェン・カーに跪き誓言を述べ求婚出来ないでいるのは、愛してくれる彼女に愛を返す事が出来ず、自身の心と魂を賭ける事すら出来ぬというのにメルローアの奴隷になってくれと言えないという、それだけ。
とはいえ、玉座に相応しいからと愛の無い結婚の選択がどうしても出来なかった己を、後にフランヴェルジュは初恋に溺れながら肯定し、早まらなかった事を神に感謝するのだが、今の彼は未だそれを知らない。
◆◆◆
レーシアーナは熱にうなされながら至福といってよい夢を見ていた。
最愛の男に抱き上げられ、彼女はその腕を伸ばし彼の首筋を抱く。積年の想いを打ち明けても、彼は嗤う事も笑う事も無く真剣な表情で受け止めてくれた。そして、信じられない程に甘い言葉をくれたのだ。
「僕もだ。僕もお前だけだ」
レーシアーナの銀色の王子様。愛おしい人。
彼の言葉はいつも音楽のようにレーシアーナの耳には聞こえるのだけれど、今日の言葉は熱を帯びていていて、余裕のない真剣なそれで、レーシアーナはただただ、嬉しくて仕方がない。
胸が一杯で心臓の音が五月蠅くてしがみついた。そうすると、優しいキスをくれた。
女の扱いに慣れている筈の彼の唇が重ねるだけのそれで、ひどくおずおずとしたものであったのは、きっと夢の限界なのだろう。
そう、レーシアーナは全て夢だと思いこんでいた。
彼にとって最良の侍女でありたいとレーシアーナは願う。
そして、侍女は彼に、この国の第二王子たる彼には、相応しくない。
本来、自分は侍女にすらなれぬ身の上であったと、彼女は信じているのだ。
自分と彼の出会いは王子と侍女の出会いではなかった。
王子と侯爵令嬢との出会いでも勿論なく、『木馬』もしくは『ポニー』として、彼女は愛する男に出会ったのだ。
レーシアーナはブランシールを愛している。
優しく孤独な第二王子、レーシアーナの王子様。
一生傍に居て欲しいと、そんな身に過ぎた言葉をくれる彼に、勿論貴方がお許し下さるのならば生涯の忠誠を誓いますと、レーシアーナは何度も繰り返したものだった。
だが、その言葉は十四以降、言えていない。
「初めての人になって欲しい」
そう言われて泣いてしまった己は、見限られたのかもしれない。
けれど、ブランシールの初めての人をレーシアーナは望めない。
指南役に未通女の身でなる事は不可能だから。
そう、レーシアーナは壮大な勘違いをしたのである。十四になった誕生日に、他の男との同衾を命じられたと思い込んでしまったのだ。尤も、現実と言うものを考えたならば勘違いとは言えないのだが。
死ねと言われたら死ぬ覚悟はある。
だが、他の男と寝るのだけは嫌だ。
自分の忠誠心が所詮その程度だと理解した時、自分の至らなさに狂いそうになった。
ブランシールはレーシアーナ以外に身の回りの事を許すのも触れられるのも嫌う。忠誠を誓った自分は、その言葉を賜った瞬間すぐにでも女の扱いに慣れた男との経験を積んで指南役となるべきだったのだ。
――しかし、どうしても、どうしてもそれだけは嫌だった。
ブランシールがレーシアーナを居間に残して寝室に消えて、レーシアーナもすぐに自分の部屋に戻った。一人になってどれ程泣いただろうか。
その後、指南役を受け入れたブランシールが奔放に振舞うようになったのには驚いた。
他の誰かに触れられるのを嫌悪するというのは自分の思い込み、つまらない自惚れに過ぎなかったのだとレーシアーナは思い込んだ。
わたくしは、特別ではないのだわ、いいえ、解っていた事よ、解っていなければならなかった事よ。
ならば、ブランシールを満足させる最良の侍女でなければやがて傍に居ることも疎まれるだろう。
彼の情けに縋ることなど出来る訳がない。
侍女としての仕事に入浴の介助は入っていない。メルローアでは、女性と違い男性は如何に高い地位の者であろうとも入浴の介助を必要とはしない。ブランシールも勿論その常識を守る為、レーシアーナは着替えの手助けはする事もあるが完全な裸体をさらされた事は無い。
他の女には見せた事があるのだ、そう時折心に浮かぶ妬心を隠しながら、レーシアーナはブランシールに仕え続けた。充分に務めを果たせていないのではないかという焦燥感に焼かれながら。
不要な女になりたくない。
首筋に口接けの後を見つけても、シャツに香水がしみついていても気にしないように自身に言い聞かせてはいるものの、時折一人の際に泣いた。何も望めない自分に泣いた。
足りる侍女に、わたくしはなれそうにない。
奇跡が起こり十四の誕生日に戻れたとしても、やはり他の男に抱かれその身体で愛する男に指南を行う事など、出来る筈がないのだ。
十七の誕生日に、アクアマリンの石が埋め込まれたプラチナのバングルをブランシールから贈られた。
彼の瞳の色だった。そんな贈り物に嬉しくて泣いた。だけれども、涙はすぐに悲しみのそれに変わった。
『大切な妹へ』そんな刻印があったのだ。
ブランシールの妹姫、王女エランカが嫁いで三か月。そう、妹という者はやがて離れていくものだ。
『嫁して去れ』そう言われた気がした。
嫌だ、何処にも行きたくない。傍に置いて欲しい。
ブランシールはきっと贈り物にレーシアーナが満足して宝箱に仕舞ったと思っているに違いない。レーシアーナはそう思う。宝箱に封じたとは思っていないだろう。
彼の瞳の色がレーシアーナを責めるのだ。何故まだ去らないのだと。他の男を愛さないのだと。
わたくしは、余りにも未練がましい。けれど……弁えた女にはどうしてもなれない。
夢の中で夢を見た。
目を開くと焦燥を湛えた淡い青の瞳に出会った。
愛しい人。
思わずレーシアーナが微笑むと彼の瞳に安堵が広がる。
夢とは、何と甘美なものなのだろう。
「離さないで……わたくしの愛しい貴方」
重い手を持ち上げようとした。これは夢。だから、不敬を問われる事は無い。頬に触れたい。
ところがその手はあっさりと奪われる。
レーシアーナの白い手に、愛しい男がキスを落とす。
「唇に……下さいませ」
正気では決して口に出来ぬ願い。
でもこれは夢なのだから、我儘もきっと許されるだろう。
彼は一瞬驚いた顔をした後、レーシアーナの唇を奪った。
微かに触れるだけの口接けを何度も繰り返し、それがついばむそれに変わり、恍惚としていたレーシアーナの唇はあっさりと割られ、舌が絡まった。
嗚呼、溶けてしまう。
一生、夢を見ていたい。
そう、思ってしまった。
終わらないキスで人生が完結したら、どれ程幸せだろうか。
◆◆◆
ブランシールは驚いた。
看護人を下がらせたので、この部屋にはブランシールとレーシアーナ、二人きり。
熱で浮かされたレーシアーナの額の手巾を取り換えると、愛しい女が目を開けて。
とろんと蕩けた瞳で、九百八十七回自分を振った女が自分の唇を求めている。
きっと、まだ彼女は熱のせいで正気ではない。
解ってはいるけれど、理性が飛び、気が付けば彼女の唇をひたすらに貪ってしまった。
キスの合間に何度も愛していると囁いた。
燃えるような頬をしたレーシアーナはブランシールの知らない甘い表情で彼の求愛に応える。
夢のようだ。いや、夢なのだろう。これが現実の筈がない。
彼女は泣くほどブランシールに抱かれるのが嫌な女だ。今腕の中にいるキスにぎこちなく応える自分を愛し素直に身を委ねる女ならば、とっくに手に入っていそうなものではないか。
彼女は自分を愛していない。
幼い頃の誓いに縛られた哀れな女、それがレーシアーナの筈だ。
けれど、今の彼女を否定出来ない。
熱が生む譫言を、さっきのそれも今のそれも、信じたくてたまらない。そして、信じても良いのではないか?
レーシアーナは嘘をつかない。
十四以降に彼女の中に自分への想いが芽生えたのだろうか。それとも……?
「初めて会った時から、僕はずっと……お前の虜だ」
返ってきた言葉に驚くことになる。
わたくしも、と。
ならば、何故、自分を拒み通したのだ?
熱がレーシアーナを狂わせたのだろうか?
いや、九百八十八回目に怯えるのはもうやめる。
逃げてばかりで、何が得られるというのか。
レーシアーナの十九回目の誕生日、それまでに全て清算し、その上でレーシアーナに求婚しよう。
ブランシールはそう決めた。
「愛している……僕の、レーシアーナ」
彼女は微笑みでブランシールの言葉を受け止め、また夢の中に落ちた。
◆◆◆
その後、ブランシールは奔走した。
女達の清算には一カ月もかからなかった。
それ以上に努力したことがある。
レーシアーナとの時間の確保だった。
最初は純粋に過労への対処として何としてでも休ませよう、そう考えていた筈だった。
とはいえ、レーシアーナは強情だ。
今日は休めと言っても、まず彼女は聞こうとはしない。部屋に下がらせればそれはそれでブランシールの目の届かないところで頑張ってしまうような生真面目な女をブランシールは愛してしまった。そんなレーシアーナの過労対策をああでもないこうでもないと悩んだ末、ブランシールは少々卑怯な手段を取る事になったのだが、結果、それは予想だにしない出来事を引き起こす事になるのである。
ブランシールは父王存命中である事を心の底から感謝した。
公務も勉学も日常をかなり窮屈に締め上げるものであったが、まだ「王子」であるが故に少しばかりの自由がないわけではなかった。
週に一日か二日、『復習の為だけの纏まった時間』、それを確保する為には女達との清算が児戯に思える程の努力が必要であったが努力は無駄にはならない。そして、復習の必要がないほどに勉学に勤しんだ結果、表向きは復習の為となってはいても完全な自由時間を生み出すことにブランシールは成功した。
そして、高熱で倒れてたったの二日で完調したと言い張り甲斐甲斐しく仕えるレーシアーナにブランシールはその懸命にもぎ取った時間をお茶の時間にすると宣言したのだ。
レーシアーナは驚いた表情を一瞬でいつもの笑顔に切り替えてブランシールの我儘に従った。
王子であるブランシールに長年仕えているレーシアーナはブランシールの自由な時間の貴重さを知っている。そして日頃のハードなスケジュールも。主が息抜きを求めるのはもっともだと思うし、幼い頃の毒殺未遂がトラウマになっているブランシールが一人でお茶の時間をと言っても無理なのは解っているのだ。
笑顔で付き合ってくれるレーシアーナにブランシールは罪悪感を覚えつつ、隙を見てレーシアーナのカップに睡眠薬を混入させた。
休めと言っても休まない彼女に午睡を。
そう思い、無味無臭かつ依存性の全くない睡眠薬を選んだのだ。
最初のお茶の時間はレーシアーナが完調したと言い張り仕事に戻った日からきっちり一週間。まだきっと、疲れは取れていないだろうとブランシールは思った。
薬を使うという卑怯な手段ではあるが休ませる事が出来る上に、眠りに落ちたレーシアーナのその無防備な姿を愛でる事も出来るという事でブランシールは上機嫌で紅茶を勧めていたのだ。
習慣性のない、ごく弱い睡眠薬はしかし、予想外の効果を齎す事になる。
熱に浮かされていたあの時間の再来。
浅い眠りに微睡むレーシアーナはブランシールをひたすらに求める女になったのだ。
半分夢の世界にいるレーシアーナは貪欲にブランシールだけを求めた。ブランシールの愛を欲し口接けを強請る。そうして、ブランシールの総てを求め……。
ブランシールはこの状況を想定してはいなかった。
だが、一瞬で溺れた。
気が狂いそうな程に愛おしい。
やがて、ブランシールは彼を欲しいと訴えるこのレーシアーナが、彼女の本当の姿なのだと確信した。
理由は簡単だ。
夢の中のレーシアーナは、彼と彼女の行き違いがどうして起きたのか、彼女は何を思っていたのか、聞かれるままに答え、その答えがとても理路整然としたものだったからだ。
現つに戻ると……夢現つの状態から少しの間熟睡し次に目が覚めると、レーシアーナの中には朦朧としていた時のブランシールとの会話も、繰り返された口接けも、その記憶には残らないようでだった。ブランシールの前で眠りに落ちたことを懸命に謝罪するのだが、ブランシールは先日倒れたばかりなのだからとレーシアーナを慰めた。そして、次のお茶の時間の約束をする。
幾度かお茶の時間を持った頃には、ブランシールは随分自分の思い込みでの行き違いがあったことを知る事になった。
十四の誕生日に自分を拒絶した理由を聞きだした時は比喩でも冗談でもなく眩暈で倒れそうになった。彼女に他の誰かの手垢がつく事を望んだ事など一度もない。
ブランシールはレーシアーナを誤解していた。
レーシアーナもまたブランシールを誤解していた。
夢から覚めたレーシアーナに十四の時の過ちを懺悔する事は出来なかった。
それをすると、お茶の時間にブランシールがレーシアーナのカップに何をいれているかを話さなくてはいけなくなる。
レーシアーナに贈ったバングルが彼女の手首を彩らぬ理由も聞き出せた。
成程、十八の時に贈ったドレスとの対応の差が理解出来た。
それを聞き出せたのは三回目のお茶の時間だった。
「レーシアーナ、ごめん」
夢と現の間の愛しい女に口接けながらブランシールは詫びる。
「お前の特別になりたくて、妹なんて表現を使った僕は、馬鹿だ」
レーシアーナは柔らかく笑う。
「最初から、ずっと、特別ですわ」
飽くことなくキスを繰り返していた。
沢山の行き違いの原因を知った今、ブランシールは自分達は何年も何年も想いあっていながら、ただただ不器用であったことを知る。
現つの世界のレーシアーナに愛していると伝えたい。
けれど、彼女が侍女をやめて恋人になってくれる魔法の言葉が解らない。
そんな時に、叔父、ランカスター公爵の訃報が届く。
二月十七日、雪嵐の中馬車を走らせて花嫁のベールを求めた男の死。




