3 燐光草
暫しの間、ブランシールはレーシアーナとのお茶の時間を持てなくなった。
転移の力で早々に遺体と故人に縁のある者たちの身柄がカリナグレイに運ばれ、アシュレ・ルーン・ランカスターは妾妃の子でありながら国葬で弔われた。王の弟であるからではなく、希代の画家と呼ばれた彼への敬意がそうさせたのだった。
そして、アシュレの遺品がメルローアの二人の王子の運命を変える。
アシュレ・ルーン・ランカスターのアトリエの鍵が。
ある意味、この瞬間、ブランシールの運命は狂ってしまったのだ。
兄が恋をした。
その瞬間から、ブランシールだけに許されていた独占は壊れ、向けられていた想いが、全てではないものの他の人間に向かった。
弟は、兄に敬愛だけでない感情を抱いていた事を知る。
それは、本当は兄弟としての愛であり、その育ち方から半身を想う情であった。
だが、ブランシールは不幸にもその気持ちが弟が抱く事を許されていない禁忌だと錯覚してしまうのである。
兄に幸せになって欲しい、恋がどれほど甘美か知って欲しい、兄に笑って居て欲しい。
――兄の一番でありたい。
ブランシールはただ欲深いだけであった。
愛する女の一番でありたい。
愛する兄の一番でありたい。
そして彼は少しずつ、壊れていく。
叔父のアトリエで女神を見出した。
確かに美しい女だ。
そして兄が全身全霊で叔父の女神を見つめる姿を見て、その少女は兄にとっても女神であると知ってしまった。
何故か、エスメラルダという女に兄が幻滅する事は無いと確信した。
そう、ブランシールはフランヴェルジュをよく理解していたのだ。
歓喜とともにブランシールの胸に小さな痛みが走る。その痛みを、まだこの時点では重大な事だと認識出来ずにいた。全てを失い命まで消す痛みだとまだ解っていなかった。
叔父の絵を、兄弟は全て目に焼き付け、一枚ずつ手に取りアトリエの鍵を閉める。
何故だろう、ブランシールは己の掌中の珠である愛しい女に黒髪の娘はつり合うのではないだろうかと思ってしまった。本物の、生きたエスメラルダという娘をまだ自分は知らないのに馬鹿な事を思ってしまったと苦笑を飲み込んだ。
叔父は美しいものしか描く事は無い。
そして、彼の基準というか美醜の判断は内面が重視されるが、その筆は被写体に忠実だ。
「叔父上の女神と考えると二割り増しかそれくらいは……」
フランヴェルジュの言葉にブランシールは賢明にも突っ込む事は止めた。返事を求めての呟きではなかったからである。
叔父上が、被写体にゴマなどする人だったと思ってしまう程、既に心が持っていかれているなんて……。
そう心の中で苦笑するブランシールだったが、しかし彼もまさか『叔父が描き切れなかった美』までは考えつきはしなかった。
◆◆◆
エリファスから二人の王子が帰城したのはレーシアーナの誕生日の一日前であった。
ブランシールはそれはそれは急いだのだ。
無茶苦茶な帰城スケジュールに付き合ってくれた兄には感謝しかない。
「早馬というものの練習をするか?」
笑って兄はそう言ってくれたのだ。
必死で帰ってきたのだ。転移を併用しつつ、本当に早馬の速度で。
ところが、両手広げて待っていてくれていると信じていたレーシアーナがいない。
頭が真っ白になった。
そんなブランシールをレーシアーナの代わりには到底なれないつまらない女が出迎える。
レーシアーナがいないという現実に、ただ呆然とするブランシールは無言でされるがままになっていた。
侍女の顔には見覚えがある。
一応男爵位を持つ父親がいる女は何度か誘いをかけてきた事があった。特に心を動かすだけの魅力もなく、大したコネクションもないその女に手を付けた事は無い。一番うんざりするのは性格の悪さか。……本当にどうでもいい女だ。
そんな女が爆弾を落としてくれた。
ブランシールが王城を離れている間にレーシアーナを口説いていた男がついには無体を働いた、と。
夜会の控え室というのは王の寝室ほどではないがその性質上、ある程度の防音性を備えている。
そこへその男、フィルズ・レイレイアという貴族が真昼間にレーシアーナを連れ込んだ、と。
夜会の間も控え室も、昼間確かに閉ざされてはいない。清掃などもあれば夜会があるならば飾り付け等で人が入る事もままある。なので、真昼間の控え室に女を連れ込むことは不可能ではない。
「あのフィルズ・レイレイアですわ。ただ、いつまでたってもレーシアーナさんが出てこなかったそうなんです。そうしたら、確か翌日でしたかしら? あのフィルズが領地に帰ったのだそうですわ。本当にお可哀想に、散々弄ばれて、部屋から出てこれない位に疲れる事を、きっと沢山強要されたのですわ。挙句、あっさりとその男に逃げられるなんて」
可哀想と言いながら愉悦の表情の女は、とても下劣で……吐き気がしそうだ。
いや、そんな事より何より。
僕の、レーシアーナ、が?
「下がってくれないか」
ようやっとブランシールの唇から転がり落ちた言葉は、凍てつくようなそれだった。
「僕は、自分の着替え位自分で出来るからね、邪魔しないでくれ」
氷点下の声に、しかし、女は堪える様子もなく慇懃な礼を取ってから退出した。
身支度を終えたブランシールは大急ぎで両親を、レーシアーナを探した。王と王妃である両親ならば、全て知っているだろう。我が子のようにレーシアーナを愛でる両親ならば。
……恋とは盲目とはこういう事を言うのだろう。
帰城のタイミングで衣服を改めてから父と母に目通りを願っており、何処でその目通りが叶うかは『侍女から告げられる』となっていたのだ。これは、いつも通りの事でもあった。
頭の中で、そう言ったことが全て抜け落ちる程ブランシールは追い詰められていた。
彼の中にはただ、レーシアーナしかなかったのである。
◆◆◆
「罰を」
そう願い祈るが故にレーシアーナは隔離されている。
王妃アユリカナの離宮で。
身支度を終えてフランヴェルジュは両親との私的な目通りでそれを知った。
三日前、フィルズという男が壊されたと言う事をだ。
事もあろうにレーシアーナを自分の好きにしようとした男は恐ろしい対価を払い、何も得る事は無く、総てを失った。
『どんな罰を課せられようとも、わたくしの罪は償い切れるものではありません。ですが、首も魂も賭けます。どうか、どうかブランシール様にだけは、わたくしの罪を……』
ブランシールだけには、知られたくない、と。
レーシアーナは罪を犯したとは言えなかった。
彼女はただ、身を守っただけだ。
しかし、その守り方をレーシアーナは自分の罪だという。
まともに考え処理する能力を奪われ、凌辱されそうになった。
レーシアーナの能力なら容易く殺せた男だ。
それでも、命を取らなかったのはレーシアーナの理性が欠片程でも残っていたからだろう。
燐光草の毒はメルローアで取り締まられている麻薬劇薬物の一位に指定されている。
リドアネ王……フランヴェルジュとブランシールの祖父の御代で徹底的な取り締まりの対象となり、今では国内での入手は不可能とまで言われている毒だ。
それを、何処からかフィルズ・レイレイアは手に入れ、それを用いてレーシアーナを手籠めにしようとしたらしい。
メルローアでの入手が不可能でも、他国ではメルローア程の規制は無い。留学の過去のあるフィルズは恐らく、入国時の厳しいチェックをすりぬけたのだろう。今、メルローアで燐光草が問題になるのは他国からの個人的な持ち込み位だ。この十年で、フィルズを入れて二件目の犯行。
しかし、フィルズは燐光草の持ち込みに成功したところで自分の運を使い果たしたのだろう。
レーシアーナを選んだ時点で。
燐光草で意識が混濁したレーシアーナはその愚かな男の生殖器を破壊した。
ただそれだけ。
己の身を守っただけだ。
リドアネ王は無茶苦茶な法を布告した。曰く、燐光草を用いた犯罪者に対しては死を与えても罪に問わない。
法を定めるにあたってどういう理念だったのかとフランヴェルジュは思うが、その燐光草がメルローアでは幻となってしまっているために改正する必要も無くその法は放置されていた。
レーシアーナが罪に問われる事はリドアネ王の法に照らしても有り得ないのだ。
レーシアーナの運は良かったのだろう。控え室の見回りの兵がたまたま国王レンドルの股肱の臣たるジューンとフロッドだった。この二人はリドアネ王の苛烈な燐光草の取り締まりに従事していた過去を持つ。
控え室は防音だが、微かに漏れる独特の香りに気が付き、部屋を暴いたのだ。
血まみれの現場は凄惨という言葉では到底足りぬそれであったとジューンとフロッドは証言した。
「股間を押さえる余裕は我ら二人共に有りませんでした」
燐光草の香が焚かれた部屋はその香に含まれた毒の力でフィルズは意識を失う事も出来ず、しかし正気を保つこともまた出来なかった。
痛みと燐光草の力で、完全な廃人となっていた。
しかし、ジューンとフロッドは満身創痍のフィルズを無視してレーシアーナを保護した。被害者として、だ。
レーシアーナの衣服に乱れはなかった、返り血を浴びていただけだ。
「失礼」
そう言ってジューンはレーシアーナを抱き上げる。
フロッドにはまだ一仕事残っていた。
まずフィルズを軽く揺さぶってから顎に一撃叩き込む。されるがままに攻撃を受けたフィルズは口をあけ、唾液とともに燐光草で作られた丸薬を吐き出した。
香で意識を捕え、口移しで丸薬をレーシアーナに与える心算だったのだろう。
燐光草を用いた凌辱の中でも、古典的とも言えるある意味由緒正しい手口である。
「ブランシール様……」
ジューンの腕の中で小さくレーシアーナは愛する男の名を呼び、意識を手放した。
◆◆◆
「レーシアーナはわたくしの離宮へ。香を吸い込んだだけで済んで良かった。経口摂取をしていないのと、救出が割と早かったお陰であの子はとっくに正気です。ただ、メルローアの法で問われることなど無いというのに、裁きを望んでそれしか考えられなくなっている」
溜息を吐く王妃を王が支え、王太子は考え込む。ただ、子爵家の五男坊が侍女に身をやつした侯爵令嬢を手籠めにしようとして返り討ちにあったというだけでは済まない。燐光草が絡んでいる以上は。
処刑人でも何でもない人間でも燐光草が関われば罪人の命をとっても罪に問われる事が無いという法を無理やり押し通すほどリドアネ王は燐光草を憎みぬいた。その理由をフランヴェルジュは知らない。だが、国王レンドルも王妃アユリカナも『当事者』として知っている。
リドアネの憎悪の原因は息子の嫁が、いや、己の義理の娘がかつての婚約者に燐光草で作られた薬物で生き地獄を味合わされたからであった。
リドアネの晩年は燐光草の駆逐に総ての情熱を注いだといって良い。燐光草を滅ぼす為にリドアネは手段を選ぶことすらしなかった。
そしてまた、レンドルもアユリカナも、燐光草を深く憎んでいる。
レーシアーナが保護された事、燐光草の被害に遭ったことを聞き、アユリカナはすぐさま人払いをして夫と共に意識の無いレーシアーナを連れたジューンとフロッドを迎えた。
レーシアーナの衣服に染み付いた燐光草の香りを嗅いだ瞬間、アユリカナは思わず嘔吐してしまった。大地と謳わるる王妃アユリカナは鋼がマシュマロに思える程の強い精神力と理性でメルローアの玉座を分かつ女性であれど、燐光草だけは彼女の心をへし折る。
けれど、ある程度嘔吐した後、その状態でアユリカナは指示を出した。レーシアーナを王妃の離宮へ。御典医を三人つけて一晩治療し、明日の朝、自分の元へ連れてくるようにと命じジューンとフロッドを労い、アユリカナ自身はレンドルの命により後宮へと下がった。
あれから三日、アユリカナはもう、大地のような自分を取り戻しているが、やはり彼女も人間で必死に己を叱咤しながらこの場に在る。
レンドルは溜息を吐いた。
「レーシアーナは、王室に迎える娘だ」
重々しく、だけれどもきっぱりと言い切る。
「父上、まだ弟は婚約にもこぎつけておりませんが」
「それは順序を考えて、であろう」
フランヴェルジュはそう言われると何も言えない。
「ヘタレな次男が口説き落とすのに失敗したならばその時は余が頭を下げてもいい。あの娘程ブランシールを愛おしむ娘がいるとは思えぬ。ただ、……非常に自己肯定感が低く、自分に価値は無いと信じ込んでいるのが厄介なところ。此度も、何ら罪と言えるものを犯してはおらんというのに……」
「ブランシールは……」
「ああ、後三十分は此処にたどり着けないんじゃないかしら。目隠しに最適な娘をあの子を出迎える侍女として派遣しましたから」
相性がとことん悪い侍女をアユリカナはあえて選んで当てがった。ブランシールが絶対に途中で下げるに違いない娘をだ。
「……確かに、レーシアーナの望みは自身の凶行をブランシールだけには知られたくない、ならばあれはここに呼べませんね」
「……正当防衛ではあるがな」
レンドルはそう言う。現場を彼はアユリカナを後宮に下げてから確認した。血の匂いの方がまだ燐光草の香りよりマシだ。
公にするには少し不都合、そんな特別な罪人を籠める地下の牢でフィルズの状態もレンドルは確認している。
玉座の背後にある隠し階段がそういった訳アリの牢へつながっているなどと誰も思うまい。王城の地下の霊廟やぬばたまの牢には繋がらない独立した地下である。
哀れだとは一欠片も思えなかった。
「痴情のもつれ、が成立するようにフィルズが領地へ帰ったという話を作り上げなされたのですか?」
フランヴェルジュの問いにレンドルは何を馬鹿なと首を振る。
「噂に過ぎぬ。フィルズはそういう遊び人で有名なのだそうだ」
「では、さっさと燐光草を用いた犯罪人としてそれなりの処置をなされば良い。正気を失っているのは過酷な取り調べでそうなったで押し通せば良い、ただそれだけでしょう。別に裸にひん剥いて民衆に晒す必要もない、身体の欠損はばれますまい。おまけに……燐光草をこの国に持ち込みあまつさえ凌辱の道具に使おうとしたとなれば、フィルズ・レイレイアは死刑確定、レイレイア家一門にも重い処罰が下る」
「勿論、余はそうする心算だ」
重々しくレンドルは言う。
「ただ、お前に問いたかった。お前は王冠を戴いた時に、生を許す事が出来ぬほどの罪を犯したものを、法の下処刑出来るのか?」
フランヴェルジュは何かを言わなければと思った。今、自分に質問したのは父ではなく国王だ。そして国王は息子ではなく王太子へと質問をした。
けれど、フランヴェルジュには答えられない。
死を持って償わなければならない程の罪など、本当にあるのだろうか。
何度も何度もフランヴェルジュは考え、そして結局、公を優先すべき王族である王太子としては、法に従う事しか出来ない。しかし、法は王が変える事を許されている。
答えを何とか口にと足掻く息子の顔の前で、父は手を振る。
「お前にそろそろ聞かねばならんと思ってはいたが、……もう少し経験を積む必要があるのだろうな。まだ、死ねぬな、余も」
そう言って、レンドルは笑った。
二ヶ月後、レンドルは自ら毒を呷る。
償い切れぬ罪を犯し、死をもってしても足りぬと認識しながらもそんな方法での終わり方しか選べなかった故だが、この時、誰もその未来を知る者はいない。




