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エスメラルダ  作者: 古都里
第三章 王と王妃は模索する
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9 降参という悦び

 もし本当にエリファスを治めるだけの能力があるのなら、フランヴェルジュにとってどれほどの戦力になるだろう。


 七つに部門を分けたのも、一人の文官が把握している知識と所持する能力を考えた結果だ。一人の人間のごく当たり前の限界を考えて自然とそうなったのだ。


 アシュレ一人がエリファスを治められたのもある意味とんでもない事で。


 駄目だ、エスメラルダのいう突拍子もない話を何故だか何処か信じかけている自分と有り得ないと当たり前の事を叫ぶ自分とで気が狂いそうだ。


 だから、試す。もう一度試験する。

 システムが説明を聞けば簡単に理解出来るものだと言い切られたので、もう説明はしない。ただ、質問をぶつけるだけ。


「王妃様……お話を大きくなさるのも良いですが貴女が本当に把握しているのか私には判断付きません。私の目には貴女が自分の夫がこのメルローアの何代目の国王かご存じであらせられるかすら怪しいと思います。しかし、この質問に答えられないのは恥でもなんでもなくお妃教育に含まれる事ではありませんのでごく当然の事ではありますが」


 ハルシャが頭痛と戦い懸命に問うたそれに対してエスメラルダは器用に片眉を上げつつ、複雑な顔をした。


「そのひっかけは余りに陳腐というか、つまらな過ぎてよ、ハルシャ・シズリア。貴方がもし解っていないなら宰相として勉強なさいと言いたいところだけれど……よどみなく疑問文として出してきたという事は、今まで散々色んな者達をその質問で虐めてきたの?」


 思い出に浸った後だからか、思いっきり素の自分で答えてしまったが、流石にこの問題はエスメラルダには看過できない。

 システムがどうこうで自分の取るべき戦術やら言い方考え方を途中からひたすら案中模索したのは、目新しいそれに関して、理解しようと努めつつ感想を述べるというそれが問題だった。

 だが次の問題として選んだそれは本当に低レベルだとエスメラルダは思う。

 感想ではなく当たり前のごくごく普通の知識として聞くには本当の本当に低レベルな問題を引っ張ってこられた。そこまで無知だと思い込まれ、答えられないのが当たり前の態度は流石に何を考えているのだと言いたい。流石に常識としてエスメラルダは知っている。感情籠めない知識なら、ある意味考える余地すらないので答えとしては楽だが、随分と全力で馬鹿にしてくれるものだ。掌握を学びたいと思っていたが、やはり、この男は叩きのめす。


「虐めるという言葉は心外です。そして私には何が陳腐でつまらないのかさっぱり」


「それもわたくしに説明しろと? ちゃんと解っているだろう貴方に教師の真似事をしろと?」


「私めは無学浅学でございまして」


「解っているから知ったかぶりをするような人間を容赦なく理詰めで虐めそうな貴方が無学浅学と言っても、正直笑い話にしかならないわ。でも、貴方に先生の真似事をしなければ、知らない事を認めずに適当に誤魔化している事にされそうね」


「そんな、王妃様にそんな無礼を働くなど……」


「名前で呼びなさい。慣れ合う心算で言っているのではなくてよ。貴方は王妃としてわたくしを尊敬しているようにどうしても思えないから貴方に王妃様と言われるたびに背筋がぞっとするの。崇められるよりマシだけれど、陛下の選んだ妻への敬意のないままに王妃様と呼ばれたくないわ。名前で読んだら授業をしてあげましょう。貴方が降参するまで貴方の質問に答え続けてもいいわ。社交の知識と護身術、芸術、それ以外なら、わたくしは多分貴方を満足させられてよ」


 エスメラルダは笑う。感想ではなく知識なら、相手の心情を慮る必要すらない。この男ならもしかしたらエスメラルダの知る事柄を一つ一つ頭のメモに書き記しながらどうやって王の仕事の補佐を辞退させるべきか、まだ考えていそうだ。しつこい。勿論、辞退などする気はないのだが。


 だが、質問をするならもう少し難しいそれにしてくれないだろうか。この難易度で始めたら明日になってもハルシャが足搔いていそうで怖い。


 このレベルをクリアできないという思い込みについては答えを述べるという男も女も変わらない対応で良い。

 本当に、随分と馬鹿にしてくれたものだ。


 認めさせねばと思わなければ楽なのだが、縋りつきお願いしたいくらいの今の心境で余裕など欠片もない。常ならば総て笑顔で精神のブレすらなく対応できたはずだが、そんなことに一つ一つ動揺している事が急に愚かしく思えた。どういう態度が正しいだろうかとかこの考え方であっているのだろうとか、正解を模索している心算で、情けなくもご機嫌取りに必死、その方法を知りたくて必死だったのかと思うと、何かがキレた。


 わたくしは経験もない人との付き合い方もろくに知らぬ女だけれど、ご機嫌伺いのおべっか使いに成り果てるのは嫌よ。


 エスメラルダは、仮に王の仕事についていけなくとも、ごくまれにスゥ大陸の共通語以外の親書やらが届いて文官達が辞書片手に冷や汗を流していると笑い話のようにブランシールが言っていたのをしっかりと覚えていた。フランヴェルジュとブランシール、レーシアーナと自分の四人で語り合った朝の時間が懐かしく愛おしい。あの時にブランシールは『貴女なら簡単に訳してしまうんでしょうね』と言った。多分それなら確実に出来ると思うのだ。フランヴェルジュも読めるが彼の手が回らない範囲でその仕事があるなら。エスメラルダは恐らく神殿で使うエリーク文字、そして宝石の国エシャンテの、本当に存在するのか解らない古の魔法の言葉以外なら読めるし話せるから最悪でもこの能力でしがみつく気だった。


 自由になれると思って、また鳥籠へ戻るのだけは耐えられない。だから何としても、出来る事を探す。それにしがみついてやるのだ。


 試験の二題目は正確な答えが存在しない感想と言うものに比べて遥かに答えを突き付けるのが容易。

 だが、あまりにレベルの低すぎる、こんな問題を出すという事、つまり常識の範囲内の知識すら女には解らないと信じている男が目の前にいる事に驚きすら覚える。アシュレのお気に入りですらこうならば、他の文官達はもっと反発するのだろう。自由を得たいのならハルシャを満足させるしかエスメラルダに道はない。


 多分、ランカスター様がシズと呼んで可愛がっていたこの男は味方になれば他の者達の不満をうまくいなしてしまう事位容易い筈だわ。だってランカスター様が時折愚痴をこぼす相手に選んだ男がそれ位の能力がない筈がないですもの。ゲオルグという王が失敗したシステムも自分の身分と行使出来る権力をちゃんと理解した上で選び、構築して見せたのでしょうし。


 ハルシャ・シズリアの作ろうとしているシステムは単純明快、だけれどもまだスゥ大陸ではそれは受け入れられていないものだ。スゥ大陸の九割九分は絶対君主制。エスメラルダとしてもハルシャには是非頑張って欲しいところであるが、自分に出来る事はこの枠組みの中のどれなのかまださっぱり解らない。そもそも、ハルシャが延々と試験を続けて時間だけが過ぎていき結局エスメラルダには何もさせてもらえない可能性もある。


 お願いシズ、どうかわたくしの味方になって頂戴。もうただ時間が経つのを待つだけの毎日は嫌なの。


「エスメラルダ様、ご教授頂けますか?」


 エスメラルダは小さく息をついた。仕方がない。ただやるならば重箱の隅を楊枝でほじくる事を指せる心算はない。


「……十二代国王シャラカーンは十六で二人の男子に恵まれた。つまり双子。ユグルドとリグルドというその王子が十四の時にシャラカーン王が崩御。立太子を行っていなかったのが悲劇ね。二人は東家と西家に分かれて互いに自分の王位の正当性を主張した。二人は早々に娶り、早々に崩御し、その子供の代も、更にその子供の代も争いは続いたのだけれど、その次の子供達は争うのではなく恋に落ちた。御伽噺のようなありがちな話だけれど、恋に落ちた二人は結ばれて王家は再び一つになった。ただ、その二人、レンガナシュ王子とミーファ王女は、共同統治者という形で正確に王家の血が一つの奔流に戻ったのは彼らの子供の時代。ミーファ王女はメルローアで唯一の女王だけれど、死の間際に『自分を愛する夫の王妃として弔ってくれ』と言い残したが故に霊廟に王としてまつられていないから女王と言っていいのか悪いのかは難しいところ。ただ、二人の子供であるセファーレン王には父方の王達も母方の王達もどちらも王でどちらも否定出来ない、だからシャラカーン王以降の王に第何代の王と数える事は許さないと言い切った。それ以降メルローア王家は王が何人変わろうとも頑なに自分が何代目の王かとは数えない。メルローア王家でユグルド王を否定するのもリグルド王を否定するのも禁忌。だから、陛下が何代目の王かなんて神殿ですらそういう記述はしないわ。案外知らない者達は多い話らしいわね。けれど、ある程度歴史を学んだものなら知っている筈の事よ。ハルシャ、出来れば難易度を上げてテストして頂戴。私は早く合格したいの。早く私の為すべき仕事について学びたいの。やるからには明日から陛下のお役に立てるようにしたいの。解らない事なら兎も角何故解っているくせに教授されたがるの? 下らないし、質問が簡単過ぎてはっきり言ってわたくしはとてもつまらないの」


 ちなみに、『血杯の儀』は、シャラカーンの妻カナエがセファーレンの妻アニエスに行った。理を少し歪めて、カナエは血統が一つに戻るまで無理やり生かされたのだが、これは歴史の教科書を幾ら紐解いても出てこない事実、『血杯の儀』を受けた女達のみが知っていればいい事なのでエスメラルダは口にしない。


 溜息を吐いた王妃を、ハルシャは不思議なものを見る目で見つめる。


「……つまらないと仰いますがさっきの質問は文官の九割九分が『え?』と言います。そして自分達の仕える王が何代目か知らぬ無知に震えるものです。私は今、正直、驚いています」


 ハルシャの様子がおかしい。随分と神妙だ。

 何だか空気があまりに急に変わってエスメラルダは困惑しながらも思ったままを言う。


「それは単純に勉強不足を叱らなければならないのではなくて? 文官達に医師になるのに試験が必要なように試験を課したらどう? 国の政に携わるものが貴方の言葉を額面通りに受け取ると余り勉学熱心でないように聞こえるわ。王位何代目を数えない理由なんてそんな難しい話ではないと思うのだけれども。ごく普通に一般人が閲覧できる資料よ。随分と話を盛ってくるのね」


「その資料は……メルローアの古代文字でしたよね。まさか……読めるんですか!? それは普通ではありません、よ。世間一般の常識に古代語の読み書きは含まれていません。公用語が一般的な言語になってどれくらい経つと思いますか? 約五百年ですよ?あれをスラスラ読めるのは諜報部員など古代語を暗号に使う人間とか、よほど学ぶ意欲がある人間か、です」


「読めるわ。陛下も古代語を自由に操られるし……でも、そういえばランカスター様は翻訳された本を持っていらっしゃったわね。わたくしは興味があったから原文も読んだけれど」


 アシュレが彼岸に去って時間を持て余している時何となく博物館に赴いて、古代語で書かれたそれを読んで、またアシュレを思い出して、あの時はひたすら何につけてもアシュレ、アシュレ。総て彼だった。


 過去の亡霊を振り払いエスメラルダはハルシャを見る。まだうんざりするやりとりが繰り返されるのかと。


 ところがハルシャは苦々しくだが、作り笑顔では無い笑みをエスメラルダに向けたのだ。


「それを翻訳した教科書で学べるのは王族とそれに関わるごく一部の人間です。私が知り得たのはランカスター様に教えて頂いたからでしたがシャラカーン王の双子の御子の名前までは知りませんでした」


 メルローア人の中で、王家の血は一度も絶えた事のない神聖なものだという認識はとても強く、それはプライドの塊のようなメルローア人の呆れるほどのそれの一つでもある。血が途絶えた訳でもなく、東家と西家に分かれていた時も男系での血統が保たれておりそれがまた一つになったにしろ、この話が常識問題になったら少しばかりメルローア人はきついものがあるかもしれない。何せ内乱というものに縁がないのもまた彼らが誇るところであったから。


 ファトナムールとの戦を前にフランヴェルジュとブランシールが危惧した内乱、それはファトナムールがレイリエという駒を操って国外から仕掛けるそれだった。

 メルローアの中から自然に内乱が起きる事など、欠片も想定していなかった。

 それ位の常識なのだ。


 本当にハルシャがエスメラルダにとって簡単過ぎるそれを完璧に把握していないなら……彼女は気が付けばフォローするよう言葉を連ねていた。


 東家と西家で争いが起こった訳では無く、それは実際のところ子供の喧嘩状態だった。王城は本物の王が座す場所だという事で、自分が王であるという事が広く認められて初めてそこに座すると東家の王も西家の王も主張し、言論合戦を行っていたにすぎないという、歴史を紐解いて事実を知ったらその一種間抜けな争いに笑ってしまうものもいるだろうとエスメラルダは思う。彼女も笑った人間の一人だった。なんてくだらないと思う反面、双子とはそういう物なのかもしれない。ユグルドとリグルドは互いに慕いあっていたという。東家と西家を作ったそもそもの理由が二人とも王では駄目なのか? という事で、騒げば王が二人というのを納得させられないだろうかというとんでもない浅知恵が発端だった。恐らく、二人は凄まじく甘やかされ、あまり深く考えることが出来ない子供だったのだろう。父王の崩御がもう少し後ならば、せめてどちらかを立太子しておけば、歴史は全く変わったものになっただろうに。そしてその迷惑な双子の王はどんな神慮かは人間の理解出来ぬところだが、同じ日に同じように死んだ。老衰のような死に方を何故か若すぎると言ってよい歳に迎えてしまった。

 そんな話をエスメラルダはハルシャに伝える。勉強不足だと罵ったが、学べる教材が王族専門の書物か古代語しか存在しないならば勉強しようがないのが実際のところであり、この話は知らないのがごく一般的な事を知らなかったのはエスメラルダの落ち度だ。とんでもないレベルの、だ。


 だから彼女は精一杯真摯に伝える。特に、東家と西家が王位を主張しても舌戦以上の事はしていないと言わないといけないと言うのは強く思った事である。メルローア人の誇りを守る為に。誇りとは面倒なものだと思いながらも、メルローア人はそれに命を懸ける事をためらわない人種なのだから、内乱と呼べるものでなかったことをちゃんと説明しておかないといけないと思ったのだ。


 そしてそれから暫く。

 エスメラルダが求めた高難易度の試験はハルシャからは出されなかった。


 相変わらず笑顔とは言えないのだが、苦笑いというとても正直な顔を浮かべてハルシャは後半、半ば八つ当たりじみた口調で言い切ったのだ。


「凡人がどうやってそんな難易度の高い事を聞けるというのですか? それが思いついたら苦労しません。そういう頭が欲しかったけれど、私は頭が良い方ではないのです」


 頭が良い方ではないと言いながら随分思い切った事をやりきったではないかと突っ込みかけて止めたエスメラルダは賢明だと言えよう。


 ハルシャは恐らく自分のやった事に関して、そう、システムの構築であれエスメラルダへの簡単過ぎるテストであれ余り失敗した時の事をじっくり考えていないのではないだろうかと思えるのだ。


 いや、システムは問題が起きたらある程度の対処は出来るだろう。説明しながらこういう不祥事が起きればこう対処すると具体例を挙げていたからだ。ただ、まるで想定外の事が起きたら彼は動けるのだろうか。馬鹿ではないが、そこまでの柔軟性をハルシャは持っているだろうか。


 アシュレの言葉が頭に蘇った。

 天才に一歩及ばない。


 翻弄する目的もあったのだろうがハルシャはかなり沢山の不具合やトラブルを想定してそれを挙げては即座に対処法を述べていた。決して馬鹿ではないが。


「シズ、貴方の事をわたくしはシズと呼ばせてもらうけど、兎に角二年は踏ん張って頂戴」


 二年したら、恐らくブランシールが戻ってくるのだ。まだアスノに旅立っていない彼に無性に会いたい。ブランシールという男は精神的に非常にアンバランスだが、それなりの柔軟性はある。ブランシールとハルシャの二人で対処すれば、夢物語を形にしたようなシステムは上手く良い形で完成させられるのではないだろうか。トラブルも、三人寄れば文殊の知恵。ハルシャにブランシールが対応に苦慮していてそれを放置するようなフランヴェルジュではないと思う。彼はこの国に関してはとても真面目だ。たまに逃げ出したくもなる様だが、今までの重圧はハルシャの説明から滲み出すそれを信じるならばやはりとんでもない事だし、毎朝聞かされる王のスケジュールはハードなのに「こんなに楽で良いのか?」と言っていた位だから、エスメラルダが知らないところでフランヴェルジュはひたすら無茶をしていたのだろうと推測出来る。


「二年あれば、システムは随分拡張されるでしょうね。軍事経験のない私ですが陛下のご意見を承りシステムを文武両方に展開したいと思います」


 そう言いながらハルシャの目は少し遠くを見ている。未だ来ぬ未来を見ているのだろうか。


「そういえば試験のネタが……後の手持ちが随分簡単なものしかないのでもう止めておきます。貴女に本格的に嫌われると多分陛下がキレますから。何をやらかしたと本気での御怒りを賜るなどとご免です。前宰相のように丁寧に幽閉され自害とか想像したくもないですが、あの方は貴女が絡むと少し人格変わりますからね」


「……そう、貴方の簡単な手持ちって、もしかしてバルザ王の御年ではなくって? それを去年の初夏にレーノックスに教えを乞うように尋ねた事はあって?」


 ふと、エスメラルダは思い出してしまった。思い出というやつは、不意打ちで来ることが多い。


「去年の初夏……? 一年前ですよね、大体。前宰相にはすごく簡単な質問を投げつけるのが楽しくてしょっちゅう色々とやっていて、さて、……さて、どうでしたか。いつだったか思い出せないのですがその質問はしている事自体は確かですね。家に帰るまで我慢するのが結構大変でしたが、まさかまさか、無言で真っ赤になられて……ゆでだこみたいで、家で大笑いしたのを覚えています」


「その大笑いの発作にわたくしとレーシアーナが……王弟妃が巻き込まれて大変だったのよ」


 エスメラルダはぽつりと言った。ハルシャが思うに嫌味すぎる程綺麗に整った顔が、くしゃりと歪んだ。けれどハルシャはまずレーシアーナの名に反応してしまう。


 今、レーシアーナと仰ったか? あの方が? 一体どういう……。


「レーシアーナ様が?」


 言ってみてハルシャは驚いた。彼女が人の妻になる前はレイデン嬢と呼んでいた。本人に呼び掛けた事はなかったが心の中で。


 結婚してから王族の一員となった彼女の事が人との会話で自然と出るようになったが、ハルシャはずっと王弟妃様、そう呼んでいたのだ。


 ハルシャは初めて、その唇で『レーシアーナ』という言葉を紡いだ。

 ずっと、名を口にするのも勿体ないと、そう思っていたのに。


 けれど、口に出して呼んでみると、その名は花蜜のように甘く……懐かしかった。


 しかし、懐かしい、と思った瞬間ハルシャは気付いた。

 それは過去を想う言葉だ。

 まだレーシアーナという存在がこの世から去ってそう経たないのに、過去?


「あのレーノックスが、真っ赤な絵の具をぶちまけたように赤くなって、でも怒れなくて、レーシアーナったらそのままレーノックスが元に戻らず赤いままだったらどうしようとか言って笑うんですもの。笑いたかったのね、わたくしがお借りしていた部屋にノックもなしに飛び込んできて『まさかこの国の宰相が始祖王の御年を答えられずに真っ赤になって固まっちゃったのよ!』って言って笑い転げて、わたくしはレーノックスの馬鹿さ加減に呆れるだけだったのに、あの子、どんなふうに赤かったかっていうのを色んな例を挙げて喩えだしてそれでわたくしも気がついたら笑い転げてしまって。シズ、貴方の所為でわたくし達の可哀想な腹筋は大変な事になったのよ。真っ赤な絵の具の次は何だったかしら。母親の口紅とかも言っていたわね。後は、嗚呼、お腹が痛くなり過ぎた事しか思い出せないだなんて!」


 エスメラルダは声を上げて笑う。

 何処か歪んだ貌で、それでも余りに楽しそうに笑う王妃を、ハルシャは何となく見つめていたのだ。


 今自分の心と対話するのは恐ろしかったからエスメラルダを見て現実逃避したかったのかもしれない。


 けれど、笑っている筈のエスメラルダの顔のその歪み方はどんどんひどくなっていった。やがて彼女は泣き出す。歪んだ笑顔を必死に作りながらも嗚咽を漏らし緑の瞳から大粒の涙を零し始めて、ハルシャはやっと我に返ってエスメラルダに声をかけた。


 不快で好ましく、自分にとって難しい事を簡単だと言い切り、彼が知らなかったことを常識だと思い込んでいた、今は自分自身どう思っていいのかハルシャ自身にも解らない女は、幾粒も幾粒も涙を量産し、……そして一生懸命笑おうとしているのだ。貌が歪むほど、泣いている筈なのに笑おうとしているのだ。最初は本当に笑っていたのだろうが、今は笑うという事を必死になってやろうと、やりきろうとしている。


「どうなさったんですか!? そんな無理して笑わないでとりあえず落ち着いてください!」


 ハルシャにはさっぱり解らなかったがツボにはまると笑いが止まらなくなったり反対に涙が止まらなくなったりするのだと姪のユリエが言っていた事がある。男にはこの繊細な機微は解らないでしょうけれど、とそう珍しく嫌味を言った事があった。


 それを唐突に思い出してハルシャは混乱した。

 指圧のツボ? それとも水をためたりする壺? あれは甕か?


「笑わないと、いけないの……」


 エスメラルダはそう言うと言葉と裏腹に声を立てて笑うのを止めた。ただ涙を流す。


「楽しい事を、思い出した筈……だったの。レーノックスは……わたくしにはあの件しか、楽しい思い出なんてないけど……でも泣かないとレーシアーナと約束したの。あの子は……思い出すたびに涙を誘う女になりたくないって、……そう言ったのに。……あの子の思い出でもう、泣かないって、決めていたのに、わたくしは……レーシアーナを悲しませてしまうばかり」


 ハルシャはレーシアーナの名を口にした時、その面影も、自分に向けられたわけではないがとても綺麗な笑顔も思い出していた筈だった。

 そして、その上で懐かしいと思ったのだ。


 喋る事を止めたエスメラルダは、必死で嗚咽を飲み込もうとしている。

 その顔は、レーシアーナとは全く違う美しさを持っていたが、エスメラルダはハルシャの心に住む事はない。


 エスメラルダは、違う。


「……涙は我慢し過ぎると、身体に毒をためます。貴女は王弟妃様の親友であり義姉だ。貴女が身体に毒をためる事を、望まれる方かどうかは貴女が一番ご存じの筈です」


 触れて背中をさするのは限りなく無礼であり、宰相という立場であっても王妃たる彼女にそれは絶対に許されない。


 ハンカチを取り出して差し出そうとすると、エスメラルダは首を左右に振って、自分でハンカチを取り出した。


 帯にこっそり仕込んであったハンカチを勢いよく引き抜いたせいか、一枚だけを引き抜く事が出来なかった。結果、エスメラルダが取り出したハンカチの枚数は三枚。そのうちの二枚を片手で適当にドレスの帯に突っ込みながら涙をふく。


「……馬鹿みたいでしょ? レーシアーナが、出産後熱が……下がらなくて……あの時からわたくしは、最低でも三枚ハンカチを、持ち、歩く癖が……ついてしまったの。……もうレーシアーナは、いないのに……あの子の汗をぬぐうのに持ち歩いていた、その癖が、どうしてもね、……抜けないの」


 ハルシャは懐かしいと思い、その言葉の意味にたどり着くのを恐れた。ハルシャにとってのレーシアーナは確かに心の女神であり、大切な存在であったことも事実だが、一言も口を利いた事のない、遠い存在なのもまた間違いのない事実で。

 指一本触れた事もなく、孤独を心に囲っていた時も、それから抜け出した後も、ハルシャが見た事があるのはブランシールかエスメラルダに向けられた微笑みだけで、ハルシャはレーシアーナの事を他人と言い切っていい位にろくに知らないのだ。


 彼女の喜怒哀楽、そんな物すら知らず、自分は何をしていたのだろう。


 醒めぬ夢だとがむしゃらに動いた結果は今のところ上手く進んではいる。

 しかし、心の中にレーシアーナが住んでいると勝手に信じていた自分だが、いつの間にか彼女は過去の存在で。


 それなのにエスメラルダという女にとって、レーシアーナは未だ、過去ではないのだ。

 エスメラルダの涙が止まるのを待って、ハルシャは問うた。これだけは、個人的に、宰相としてではなくハルシャ・シズリアとして聞いておきたかった。


「……王弟妃様は、エスメラルダ様にとってどんな存在でいらしたのですか?」


「日溜まりよ」


 エスメラルダの答えた言葉を今も鵜呑みにするのならば、レーシアーナは日溜まりであったのではなく、今もエスメラルダの心を温め、解しているのだろう。ハルシャはそう理解した。


「……陛下がどの仕事を回されるお心算なのか、解りかねますが、実際の書類等を御覧下さいませ。明日からの仕事に備えて頂かなければなりませんから」


 言ってハルシャは立ち上がった。


 能力がある可能性が高い王妃、ハルシャはそう認めた。いや、下手をすれば能力があり過ぎる王妃、かもしれない。勿論頭でっかちの可能性もあるが、文官達より使えそうな人材であるのも確かだ。


 そして彼女がシステムに関わるのならば、誰よりも強くハルシャの女神を心に宿した女性をハルシャも守れるかもしれない、ふと、そう思ってしまったのだった。




 エリファスの運営は、時間を見つけてゆっくり語ってもらおう。ハルシャはそう考えを纏め、とてもいい笑顔をエスメラルダに向けた。

 降参するのは、恐ろしい程に心地よい。


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