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エスメラルダ  作者: 古都里
第三章 王と王妃は模索する
76/93

10 目を背ける事ならじ(21/06/26改題・改稿)

◆◆◆

 カスラは気持ち良く風に吹かれていた。


 エスメラルダのこの二週間の葛藤に自分も噛んでいる事が腹立たしく口惜しく、自分が許せないと思ったが、エスメラルダがまさかあんな風に暴走するとは思わなかったのだ。

 まぁ二週間も籠の鳥状態で軟禁に近い生活を送れば当たり前と言えるのだが。


 エスメラルダが一言自分を呼んでくれたのならばとカスラは二週間祈りに祈ったものである。

 今、呼ばれずに、そしてこちらから訴えても許可を貰えなかった場合はエスメラルダの前に現れるのにはそれ相応の対価を必要とする身体に、カスラはなってしまっている。今や命の危機等、特別な場合を除いては結構な対価を支払わねばならない。そしてその対価を支払って主たる彼女の前に現れたとしてだ、カスラに出来るのはエスメラルダをここから連れ去る事だけだ。それはエスメラルダの望む事から完璧に真逆。


 結局フランヴェルジュが動いてくれなければカスラにはどうにも出来なかった。エスメラルダの愛情の対象であり、エスメラルダの望む未来を切り開ける人間であるフランヴェルジュでないと、今回のエスメラルダの救い手にはなれなかった。


 愛情の総てを捧げ、それなのに無力である事がカスラには悲しい。


 けれど今のエスメラルダは上機嫌で、後宮ではなく城の広間でフランヴェルジュとの正餐にハルシャ・シズリアを招いて、三人で明日からの仕事について話し合っている。

 一族の者が後宮ではなく城の広間という事で傍についているが、カスラは少し離れたところで風に当たりながら流れ込んでくるエスメラルダの喜びに身を任せている。


 神殿の結界の狭間、影と影の交わる場所、守りがほんの少し手薄な場所だからカスラがそこにいる意味が無い訳では無いのだが、単純にカスラは久方ぶりのエスメラルダの明るい気持ちに酔っていたいだけだ。


 ところが、カスラの表情が俄かに曇った。

 ――また奴か。


 最近すっかり慣れた感覚だ。エリーク文字を駆使する神殿の人間が空間を割って現れるそれ。ただ、純粋な影ではなく影の交わるところとはいえ、本来ならこの場所は神殿の力より影の一族たるカスラの力の方が強い。そんな場所に現れる男は決まっている。


「鬱陶しい」


 吐き捨てるように言った言葉に反応したのは金茶色の髪に新緑の瞳の青年。


「貴女はいつもつれない。恋焦がれた男に、ほんの一欠片の優しさも下さらぬところが」


「お前がつき纏いを止めぬからだろう? 私は聖職者の慈悲深さも忍耐強さも持ち合わせていないので、お綺麗なお前とは性格が合わん、バジリル」


「……いい加減ディーシャって呼んで下さいませんか?」


「お断りだ」


 カスラはバジリルの言葉を一言で却下する。ディーシャが何者かを知っているカスラとしては絶対に真名で呼ぶことはお断りだ。


「つれない。こんなにも私は愛を語っているのに。貴女の望み通り、後宮は結界を強化しつつ覗かないとか、こちらは結構頑張っているんですが」


「気持ちが悪い。私の望みは常識の範疇であるが故に恩義は感じていない。余りに常識から外れたことをしでかそうというなら、殺す」


 バジリルのような化け物に愛を囁かれるのははっきり言って何の罰ゲームだと思う。四捨五入して八百年生きている上にこの先も主からの条件を守れば不老のまま時を超えるとてつもない化け物、それがバジリル・スナルプことディーシャ・オプシディウスの正体だ。解りやすく説明するならば、始祖王バルザの妻ディケナ・オプシディウスの兄である。不老であり病魔との縁もない男だが、自害する事も可能ではあるし、事故に巻き込まれた時や、また、人の手で死ぬ事もあるというのが彼の生命に施された絡繰りだという。聞きたくもないのに、この男はカスラを口説き始めた時に丁寧に説明してくれた。何故そんな歪な絡繰りが為され今もなお生きているのか、そしてどんな言葉で主を誑かしてそれを可能としたのかという事についてはだんまりを決め込んでいるが。


 しかも、その途方もない話はどうも嘘ではないようなのだ。


 証拠はあるのかと言ったらカスラの一族が本国を離れてメルローアに身を寄せた時の顛末やらその時の長の話をぺらぺらと喋って見せた。神殿の蔵書で知ったという可能性よりこの男が見聞きした現実の記憶である可能性がすこぶる高いのが嫌になる。本国から当時の長がメルローアに身を寄せたのは六百三十二年も昔の事。カスラだけがアクセス出来る記憶、代々の長だけが引き継ぐ記憶と照らし合わせてみると、確かに一族が身を寄せた六百三十二年前にディーシャは存在しているのが確認出来る。


 本気で嫌だ。何が悲しくてこんな男につき纏われねばならぬのか。男運は最低最悪であると自負するカスラだが、お断りだ。


「余り人に見せたくは無いのですが、今日のような姿もとても魅力的ですよ、カスラ」


 カスラは今日、その長い黒髪を後ろで一つに括っただけで風に遊ばせている。最近はエスメラルダに二度目の忠誠を誓った時の姿を好んでいるが宝石は身につけない。あの宝石は主にもう一度額づくその瞬間の為の敬意だったから。だが、バジリル――ディーシャとは呼びたくない――が言うのは服装の事だろう。胸元を晒しで潰し、腹を露出させ簡素なズボンに長靴を合わせたその姿。


「お前に魅力的と言われても嬉しくはないが」


「……いつの間に入れ墨を?」


 左の下腹から胸の下まで、蔓が絡まったような文様を描く『証』がカスラの肌に刻み込まれている。つい最近までなかったそれ。


「入れ墨ではない。私の愛と忠誠の証がやっとこの肌に表れたのだ」


「……そういう事ですか」


 この『証』に目を止められると嬉しくなってつい情報を与えてしまった。入れ墨で誤魔化しておけば良かったのに馬鹿な事を。


 声音を急に低くし、吸いつけられるようにカスラの証を見つめるバジリルをカスラは睨むように見る。

 この『証』を否定する事はカスラを否定する事だ。それだけではないが、口から勝手に言葉が飛び出さぬよう、カスラは飲み込んだ。


「その文様がエリーク文字での神聖魔法なら私は断固として抗えたのですが、シャンティリィ語での魔法陣には手も足も出ません。悔しいですが、貴女はエスメラルダ様に本当の意味で全てを捧げられたという事ですね」


 カスラは答えない。

 そんなことは今更だ。


 アシュレが死んだ時にカスラはエスメラルダに膝をつき、このシャンティリィ語で自分とエスメラルダを繋ごうとして失敗に終わった。シャンティリィ語とはエリーク文字と同じく人の領域から外れる言葉。カスラの祖先はそのシャンティリィ語を一つだけ選び、子孫に受け継がせた。『隷属』というその言葉、その呪。

 カスラも受け継ぐべき資格を持って生まれ、充分に行使する能力を持っていた筈だった。けれど、カスラがエスメラルダと自身を繋ぐことに成功したのはエスメラルダが女になってからだ。

 誤算が二つほどあったのだ。 

 アシュレはエリーク文字で表す『支配』の呪でカスラを縛った。アシュレの使ったエリーク文字だけならば、カスラを呪縛することは出来なかったのだが、……この世は複雑に出来ている。

 

 まさか、アシュレの『支配』がエスメラルダが女になるまで、此処まで何もかもカスラを縛るものになっていたとは思いもしなかったのだが、総てから解放されたカスラは最早原因がアシュレの呪だけでは無い事を知っている。アシュレの何百倍も罪深い男も知っている。ただ、すこぶるややこしくしてくれたので、やはり腹の立つのはあの男だ。


 アシュレの知っているたった一つのエリーク文字では人を一人思うままにするのが限界だったが何もその一人をカスラに選ばなくても良かったではないかと思う反面、仕方がないかと思う自分もいる。


 アシュレとカスラは、愛情の歪さという点では本当にどっちもどっちだったから。


 どうせ支配するならレイリエにした方が良かったんじゃないか? この馬鹿。


 呼びかけても死人が答える訳はないが、時折カスラはアシュレに心の中で文句を言うのを止められない。


「貴女は、エスメラルダ様が死ぬまで死ねないのですね、もう。それなら、血族の義務だけではなく私情も込みで王妃様を守るとしますか。貴女の寿命の為に」


 淡々と言いながら、バジリルはカスラの許可なく隣に座った。カスラは立ち上がるなり影の中に溶けるなり幾らでも出来るものの、何となくそこに座ったまま動かない。先客であるカスラがバジリルに遠慮する必要が何処にもないからかもしれない。


「しかし、不思議で仕方がないのです、カスラ・イエルマ・エシャンテ。宝石の国エシャンテの王族の血を引く貴女が、そこまでエスメラルダ様に固執するのは一体何故なのでしょう。彼女がエシャンテの血を引くからですか?」


 バジリルのその言葉に、カスラは隣同士に座ったのを後悔した。さっさと立ち上がるとバジリルを無視して影の中に消える。


 知っている者は案外少ないが、黒い髪と黒い瞳はエシャンテの民の特徴だ。エシャンテから出て他国へ出た者達が一定数存在するが故に黒髪も黒い瞳も、珍しいけれど特筆すべきものではなくなっているが、その色彩は確実にエシャンテの末裔を意味する。

 マーデュリシィも祖母がエシャンテの民だった。エスメラルダの父親も黒髪黒瞳の持ち主であり髪の色をエスメラルダは受け継いでいる。


「カスラは本当につれない女性ひとだ」


 置いていかれてバジリル、否、ディーシャは溜息を吐いた。


 想い人の愛情の総てを握るエスメラルダという王妃。メルローアが望んで迎えた彼女ではあるが、身分も後ろ盾もない彼女に何故、アシュレと言いフランヴェルジュといい、そして想う女性といい、心の総てを傾け費やした絶対的な愛を注ぐのだろう。


「まぁ、エスメラルダ様は確かにお美しく聡明で、王妃としてこれ以上相応しい娘はいないのが確かな所ではありますが」


 解ってはいるのだけれど、ディーシャはエスメラルダを見ていると不思議な気持ちになるのだ。


 嵐が姫。

 かつて妹に捧げられた名前が浮かんでしまう。


 ディーシャにとってもとても好ましい王妃であるからこそ、胸の中がとてもざわついてしまうのである。




◆◆◆

 月の穢れはきっちり四日で終わったのに、フランヴェルジュは手を伸ばしてこない。いや、眠る時に抱きしめられるがそれ以上がない。


 あの日自分が起こしたヒステリーが原因なのだろうとしか、エスメラルダには解らないでいる。誘うように穢れの時期が終わった事を告げたくとも、自分が上げたヒステリックな喚き声を思い出してしまい言葉が出てこない、それ位恥ずべき事をやってしまった。

 女官達は当然エスメラルダの身体の状態をフランヴェルジュに伝える事も仕事のうちに入っているから、穢れが終わった事をフランヴェルジュが知らない訳がない。


 本当に、子供欲しさに求めるのではなく自分が欲しくて求めているのなら、何故手を伸ばしてくれないのか、などと疑問に思っては駄目だとエスメラルダは思うのだ。


 子供を周囲から望まれているのはある意味フランヴェルジュだ。その手の冗談の一つや二つ、本気の言葉の一つや二つ、当然のように日常的に投げかけられているだろうに。そして、それによって押し潰されそうになっていても、エスメラルダが押しつぶしてしまったとしても……その可能性はごく当たり前にある事だ。


 メルローアではある王の一言から子供を授かるという事に関して、責任は主に男の側にあるという考え方が一般的になった。曰く「少々畑が痩せてようが種の質が良ければ収穫は得られるもの」

 以前のエスメラルダには全然意味が解らない言葉だが一応頭の中にあった。今なら、妊娠の仕組みを知った今なら、とんでもない言葉を言う男もいたものだと思う。ただ、不妊で責められていた女達が、責は男にあると言い切った王に心の底から感謝と尊敬を捧げたのは有名な話。


 今ではその考え方はメルローアの常識となっている。現在の医学では責任は半々と証明されているが、考え方として男の責任というのが未だに当たり前に受け止められているというのに、知識が完璧に無かった、そう、『不足』ではなく『なかった』エスメラルダは本当に意味が碌に理解出来ていなかったのだが、妊娠の仕組みを知った時のタイミングが悪過ぎた。得たばかりの知識とメルローアの常識が結びつかないでいた。


 無知が生んだ言葉とはいえ、夫に何という酷い言葉を喚き散らした事だろう。ただのヒステリーでも悪いのに内容があれでは、『種なし』と罵ったのと大して変わらないヒステリーをぶつけたというのに、よくフランヴェルジュは怒る事なく自分を大事にしてくれるものだと思う。正直、エスメラルダは不満など一言も口に出来る立場にはない。


 フランヴェルジュはただ優しく接してくれる。会話を交わし、腕に籠めて眠ってくれる。キスすら交わすのだが、それでも、そういう事は起きない。だが、そのキス、本当に文句を言う権利などない事は解っていても、実は不満だ。ただ唇を重ねるキスでは、自分はとうに耐えられなくなっているというのに、いつか衝動に任せてしたように自分から唇を割る事も出来ない空気をフランヴェルジュは作り出している。


 エスメラルダは全て自業自得なのだと思う。


 勝手な思い込みからあたってしまった。八つ当たりもいいところだし、彼の気持ちを欠片も慮ったとは言えない言動だった。けれど、あの時の自分はおかしかったのだ、普通ではなかったのだと自己弁護するきっかけすらフランヴェルジュはくれない。そして謝るきっかけも、だ。だからこそ、優しく大切にしてくれる夫に、抱いてはいけない不満を抱いてしまう。


 ただ、不満という物は随分難しいものだ。言語化するには、エスメラルダの心の中はぐちゃぐちゃで、手が付けられない。自分の愚かさ加減を正しく知る能力もない上に、それを挽回するだけの賢明さを持ち合わせない事も、エスメラルダには許せない。


 それなのに、それ以外は平穏な毎日、というか、刺激的と言って良い毎日だった。


 ハルシャ・シズリアを屈服までさせられたかは今一つ自信が持てない。何せレーシアーナの事を思い出して泣いてしまうという醜態を見せてしまったのだから。

 だが、大事な事は今の彼はごく当たり前としてエスメラルダに敬意を表し、接してくれているという事だ。


 右手の中指に嵌められている金色の指輪に口づけるのが癖になった。

 レーシアーナ、なかなか、泣かないで過ごすというのは難しいわ。


 そんな事を思いながら、ただ亡き人を想う。

 まだ始めたばかりで、おまけに戴冠式の後も続けられるとは限らないけれど、フランヴェルジュの傍で、彼とともに仕事をして、充実している筈なのだ。


 フランヴェルジュが全部くれた。


 王としての領域に、もしかしたらハルシャ以上に入らせたくなかったかもしれないのに、彼はそれを許してくれた。


 不満に思っては、いけないわ。


 日付を数えて、エスメラルダはフランヴェルジュにバレない様に溜息を吐いた。

 仕事を始めてまだ間がない。今日でやっと一週間経過するのだが、今日、エスメラルダは仕事をしない。


 七月九日、意図せず挙げた婚姻から一か月目が、今日。

 指折り数えて待ちわびた。心の底から、この日が来ることを待っていた。


 やっとアユリカナに会えるのだ。『真白塔』に、いける。ルジュアインも抱けるだろうし、もし少しでも余裕があればブランシールを見てきてくれとフランヴェルジュにも頼まれた。


 お義母様と呼ぶことを許してもらえると良い、そう願ってしまうが文一つ交わす事の出来ない一ヶ月、長過ぎる時間に不安も浮かぶ。


 朝食の席でメリッサはスケジュールを読み上げる。フランヴェルジュが王の権限で王妃のスケジュールを決めると言い放ってから初めてメリッサは王妃のスケジュールを口にした。


 朝食のお茶の後、すぐに、『真白塔』へ。

 エスメラルダもフランヴェルジュも、ただ受け入れる。


 食事を大急ぎでかきこむような下品な事はしなくて済んだのだが、フランヴェルジュが宰相と朝のお茶の時間をと言って席を外した瞬間、取り繕えなくてエスメラルダは味わうべきお茶を一息に飲み干し、真白塔に向かった。




◆◆◆

 真白塔に近づくにつれ、義母と呼ぶしか出来ない女性の中での自分の評価がどうなっているか、胸が不安で押し潰れるかと思ったけれど、後ほんの少し、とっくに入り口を視認して、警護の騎士の顔すら解る距離で、いきなり扉が開いたかと思うと兵士達が悲鳴を上げ、エスメラルダが思わず金縛りにあってしまう勢いでアユリカナが飛び出してきた。短い距離とはいえ、かつて玉座に王と共に在った女性とは思えないその行動、アユリカナはエスメラルダに走り寄って見せたのだ。そして、僅かな距離をしっかり詰めた彼女は義理の娘となったエスメラルダを抱きつくように腕の中に籠めたのである。


 エスメラルダにつけられた四人の近衛達も驚いて言葉も出ないどころか、この国の王太后の前で思わずぽかんとした間抜け面を晒す醜態をしてしまった。一瞬の後に我に返り慌てて膝をついて見せたが、『大地のように絶対で揺らぐ事ない女性』そう信じられている女性だからこそ、誰しも度肝を抜かれたのだ。


 アユリカナの腕の中にいるエスメラルダは何か言わなければならないと、そう思うのに言葉が出ない。王妃として国母に奏上する言葉も、娘として母に言うべき言葉も、百も二百も考えていたのに脳裏から消し飛んでしまった。おまけに、思い出す事も違う言葉を何とか考える事も出来ないのだ。


 なんという情けない王妃で、娘なのかしら!


 そう思ってしまうが、アユリカナの腕は余りに心地良過ぎた。

 歓喜しているのだと、エスメラルダは知った。

 意図せぬ婚姻を……王族としての威儀を正した婚姻を挙げる事が出来なかった不出来なエスメラルダを、アユリカナは変わらず愛してくれているようだと、そう感じて心の底から嬉しかった。


「ねぇ、エスメラルダ」


 最初に口を開いたのはアユリカナであった。


「わたくし、貴女のクッキーを食べないと死んでしまうかもしれなくてよ?」


 真白塔には小さな台所が備え付けてあり、エスメラルダは何度かそこで菓子を焼いた。アユリカナはいつもとても喜んでくれたのだけれど。


「スコーン、ではなく、クッキー……で御座いますか?」


 アユリカナはクッキーも好きだがスコーンの方が好きだ。目がないと言っても良い位に。


「わたくしの可愛いエスメラルダ、今日のわたくしはクッキーがとてもとても食べたいのよ。でも、招いた客人にお茶もふるまわずいきなり菓子を作らせるほど礼儀を忘れた訳では無いと思いたいの。さぁ、いらっしゃい。狭苦しいところだけれど、わたくしはそれなりに居心地の良い場所だと思っているから、自信をもってお招きします。ねぇ、わたくしの可愛い娘、思いっきりお喋りをしましょう」


「アユリカナ様……」

 最後に言葉を交わした時と変わらない、いや、あの時以上にアユリカナの目には愛情が宿っている。

 けれどアユリカナは顔を顰めた。


「お義母様と、そう呼んでくれると思っていたのだけれど……いえ、お義母様と呼ばねばなりません。わたくしの心臓が張り裂けても良いと? そんな事、可愛い貴女が欠片も思わないと、義母ははは信じていてよ」


「も、申し訳御座いません、お、おおお、おかあ、さま」


 呼びたくて堪らなかった『おかあさま』というその言葉が、いざとなると簡単に出て来る言葉ではないのがエスメラルダには意外だった。けれど、アユリカナは満足としか言えない表情を浮かべ、エスメラルダへの抱擁を解いたかと思うと真白塔へと促したのである。


 アユリカナが扉から飛び出してきて小走りでエスメラルダを捕まえるのにかかった時間はそう長くない。歩いても一瞬の距離だ。複雑そうな顔でアユリカナを見つめ、そしてすぐさまエスメラルダの前で跪く護衛騎士に対してエスメラルダは短いお妃教育で習った通りしっかりと頭を下げるでもなければ無視をするわけでもなく、会釈と共に微笑みを与える。

 エスメラルダについた教師に言わせると、案外自分の身の回りの世話をするものに会釈どころか微笑すら投げかける者は少ないそうだ。マナーについて教えてくれた教師はかなりの高齢だったが『まぁ仕える者への態度でお育ちが見えるという物です。貴女様のお育ちは、はっきり言って素晴らしい。良い育てられ方をなさっておいでで、老骨としては最後の仕事として気持ちよくやれたと感謝しているのですよ』そう言ってくれた。エスメラルダは自分が仕える者達に会釈やら微笑やらは意識すらせずに行っていたものだから、教師たる老爺の存在がなければ自分がどう対応しているかという事に気付きさえしなかっただろう。


 エスメラルダの対応を見て、アユリカナはにんまりと笑う。一ヶ月の間会えずに過ごした娘が、そういうごく当たり前の対応を婚姻前と変える事がなかった事を彼女は喜んでいるのだ。


 まぁ、多分エスメラルダの性格で天狗になってとてつもない馬鹿になる可能性は、低いとは思ってはいたけれど。


 アユリカナはそう思いながら心の中で安堵している。エスメラルダがどれだけ理解しているか知らないが、天狗どころでは済まない増長ぶりを示そうともおかしくない程、エスメラルダはメルローア人からの気持ちを勝ち得ている。王が凱旋し半月以上たっても、未だに市中に出回る王妃の絵姿だけが少ないのは、店頭に並んだ瞬間に人々が殺到するからだと間諜……表向きのアユリカナの間諜と、王妃もしくはそれに準ずるものに仕える神殿の間諜と、同じ報告をしてきたのだからそういう事なのだろう。


 今、アシュレが描いたエスメラルダの絵が市場に出回ったら、とんでもない事になるのが目に見える。臣籍降下したかつての王弟、ただし希代の画家と呼ばれたアシュレの絵の存在は国家秘密並みの秘密である。あれが表に出たら、暴動が起こってもおかしくない。

 彼の書いたエスメラルダを、人々はきっと奪い合うだろう、ただ無我夢中で。


 アユリカナの目配せで、護衛騎士の一人が扉を開けて王妃と王太后を室内に通した。


 懐かしい、エスメラルダはそう思い数歩、足を進める。

 たった一ヶ月間此処に来ることが出来なかっただけだ。二年も三年も間が開いたわけではないのに、ほんの一ヶ月で鼻の奥がツンとする程に懐かしい。


 扉が閉められた事にも、エスメラルダは気が付かなかった。


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