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エスメラルダ  作者: 古都里
第三章 王と王妃は模索する
74/93

8 知恵の輪より容易な

 エスメラルダは笑顔を作り直す。

 笑って答えられる、その程度の問題である事を強くハルシャに訴えかける為に。


 感想というのは、案外難しい試験なのだが、エスメラルダは簡単にクリアする女としてハルシャの脳裏に自分を刻み込むと決めた。


「システム自体は五代前の王、ゲオルグ様の考案によく似ているわね。けれど、ゲオルグ様のシステムは一年ももたなかった。だって、提案者が当時絶対君主制に限りなく近いメルローアでの王その人の考案ですもの。王が権限の総てを握っている状態で仕事を割り振られても混乱しかしない。ただひたすら書類仕事をこなしても、ゲオルグ様は王の意見が絶対で臣下の意見を聞き入れる方ではなかった、それを思うと臣下達は自分達で王に意見することも出来ないのに仕事だけを割り振られて、それではやる気は出なかったでしょうね。決して適材適所とは言えぬ割り振られ方をして、心の底からの理不尽への怒りは考えるだに恐ろしいわ。臣下をただの労働力としてゲオルグ様はシステムを考案されたのでしょう。その意図があったかは不明だけれども、結果的にゲオルグ様は優れたアイディアをご自分で駄目にした。でも、やるだけやって国政の深いところまで押し付けられて意見の一つも採用されるどころか言えない環境は、メルローア人には我慢ならない物の筈よ。半年以上持った事が奇跡だし、正直よく王への不満で内乱が起きなかったと思うわ。押さえつけるばかりの父王を見てクーシュナ王はかなり方針を変えられたわね。勿論現在も完全な立憲君主制とは言えないけれど、ゲオルグ様が杜撰な政治をして民心が離れていくことがなければ、今でも絶対君主制だった可能性はあるわよね。ただ、今上陛下は立憲君主制を望んでらっしゃる気がするわ。今のシステムが完全に軌道に乗り完成した暁には自然とそうなるのではないかしら。文官達には文官達の権限を、武官達には武官達の権限を、王はほぼ全てではあるものの、敢えてその権力をふるうを良しとしなくなったのはリドアネ王の時代から。そして今上陛下も自分の好き勝手に国を目茶苦茶にする方ではないわ。そうね、貴方の幸運は陛下が柔軟で絶対君主制を求める方ではなく、その上で誰より勤勉な方であること、……何より貴方が王では無くて宰相という身分である事ね。そしてメルローア人の性質をよく把握しての、餌やりが上手。貴方が長生きすれば多分システムは完成すると思うわ。とてもいい形で」


 エスメラルダは笑顔のまま続ける。ハルシャは口を挟もうとしなかったが、これ位は想定の範囲内だったのだろうか。色々と言葉を突っ込んでくれたらそれを悉くねじ伏せる解りやすいやり方が使えるというのに……。

 そこまで思って、沈黙を保ち間を持たせる為に必死になって失態を演じる可能性に気付き、それが計算だとしたらやりにくい事この上ないと思った。沈黙の理由は少し気になったが、尋ねるのはハルシャの出方にびくついている女に見られそうでやめておいた。


 この場では、彼女が上だと叩き込まなくてはならない。そして、まだ破綻していないのに攻撃の手法を変えるのは多分間違いだ。


 ならば息が止まるまで囀る勢いでひたすらに歌おう。


「貴方が王ではなく宰相、その身分だから文官側の人間だと認識されたのでしょうね。貴方は権力を持ってそれを振るうことが出来る立場ではあるけれど、同じ臣下でもある。恐らくそれは大きいわ。王が仕事を投げ出して配分したとして、それで王を尊敬出来るかしら? それをフランヴェルジュ様がなさったら、文官達は認められている権限を使い倒して国を乱してでも抗議したでしょう。メルローア人の性格を考えるとゲオルグ様の時より少しマシな程度で荒れたでしょうね。権限が少し認められているという事で、忠義を尽くそうというものも若干はいるでしょうけれど。このシステムは王では絶対に作れない物よ。少なくともこのメルローアでは。何せ王は頭領、一番頑張るからついてくるのが臣下。メルローア人は責任を投げ出したものに決して優しくないわ。でも同じ臣下の一員である貴方が奮起したからこそ、皆がやる気になっていて今のところさしたる問題も起こっていないのだとわたくしは感じたわ。陛下の仕事を全て分けた訳でもなく誰も彼もが真摯に働く国は、素敵だわ。『専門家』の響きは傑作ね。王に任せられない、ここは『専門家』の自分達がやらねば。そう言いながら必死になる者達の姿が安易に想像出来てしまうもの」


 ハルシャは口をつぐんだままだ。この状態でもう少し囀ろうと否か、エスメラルダは一瞬悩む。ハルシャがじっと見つめて来るのに言葉を止めるのはどうなのか、二秒考えて、エスメラルダはこのまま囀る事を決める。


 息が止まらなくとも喉が枯れるのは起こりうる未来かもしれないわ。


 ごく一般的なスゥ大陸の男なら、もう喚きだして誤魔化そうとするだろうと思うと、エスメラルダが王妃である事を差し引いても、ハルシャの我慢強さは賞賛すべきかもしれないが、今は囀るだけ囀る。怒鳴られたい訳ではないけど、感情的になってくれると、ぼろが出るものだが、今フランヴェルジュの近くで支える立場にある事を思い起こすと良い事であると素直に思う。少々感情が顔に出ても、それも人間的で良い気がしてきた。


 いつまで囀れば良いのかとは思う。まだこの男のタイミングを知らない。だが向こうもこっちがどれだけ囀り続ける根気の持ち主かを把握していないので、それはそれ。


「おまけにタイミングがすこぶる良かった。王の出兵があり、王の不在がどういうものか文官達は色々と感じた事でしょうね。共に出陣した武官達と違って留守を預かる者達はそれなりに考える時間があったと思うわ。そして貴方が宰相になって同時に蜜月……貴方は本当に運がいい。運が良すぎて怖い位。神殿が関与したせいで初夜に続く三日だけでなく、もう三日貴方と貴方の掌の上の者達は手に入れた。周りが少しは見える状態になったのではないかしら? ……でも貴方は怖い人ね。最初三日でのシステム構築を目指したのでしょう? それは流石に余りに無謀だわ。だからこそ、貴方、最高の運勢の下に生まれてきたのではなくて? 幸運な事に更に三日の猶予が与えらえて、貴方も文官達も安堵したのではなくて? 上を下への大騒ぎから貴方も七つに分けられた文官達も皆、今手にしている仕事はどういうものか、それがこの国にどういう意味を齎すのか、一瞬かもしれないけれど、考えられた筈だわ。余裕のある日程ではなかったけれど、自分を顧みることが出来つつ、余計な疑問を挟む暇もないスケジュールで王が王として蜜月から帰ってきた。貴方の幸運にあやかりたい位よ」


「――随分とご理解頂いているような、……それとも陛下の寝物語にはそんなことが?」


 ハルシャの顔から笑顔が消えている。じっと目の前の王妃を見ながら、これは何だ? といった、不思議そうな訝るようなそんな顔をしたハルシャが、エスメラルダには面白くて堪らない。

 そして、やっと口を開いたハルシャに感謝する。


 言葉を変えるなり取り出す例を変えるなり、三日三晩囀る事も可能だが、面倒な上、それにどれだけの意味があるのか、時間の無駄なのだ。


 いや、理屈を置いておいて、だ。

 根気強くエスメラルダを囀らせてくれたが、ハルシャがとてつもない賢さを……永遠に沈黙し続ける様を示す男でなくて本当に良かった。

 沈黙が一番、今回に限ってはやりにくい。何せ答えとして正しいものはこれというものがない感想を求めて沈黙を決められると、能力的に囀り続ける事が可能なエスメラルダだが、精神的に焦りが生まれたに違いない。

 失敗の出来ないこの舞台でエスメラルダが一番恐れるのは焦りなのだ。


 が、口を挟まない事に随分意志の力を行使したのだろうか、ハルシャの顔がとても面白い。


 まるで、幽霊と会話しているような顔をしているわね。簡単な事を述べるのが、それを理解するのが女だと言うだけで。


「陛下が、国王フランヴェルジュが少し学べば解る事や、ご自分の為さっているお仕事を寝物語になさると思うならそれは陛下への侮辱です。貴方の説明が丁寧だったから、成功の要因を考えて想像出来ただけよ」


「よくゲオルグ王の名をご存じでしたね。寝物語でないのなら、貴女には特別なお妃教育がなされたのでは?」


 ハルシャは考える。メルローアの歴史の中でも突出しているといわれた王太后アユリカナ、あの女性が特殊なお妃教育を与えるように指示したのではなかろうか。


 ゲオルグという名がすぐさま出て来る事も異様、ゲオルグがハルシャの構築したシステムの失敗版を知り得ているのも異様。


 それは女でなくとも異様な事だった。


「お妃教育は殆どなかったわ。何故かしら? わたくしのそれが最短で終わったのは余り有名な話ではなかったようね。そう、護身術に関しては救いようがない程才能がなく無理やりの教授は危険だと判断されて早々に打ち切られてしまったの。情けないわね。後、芸術方面も恥ずかしくなるような成績だったわ。ただ、お妃教育で切り上げられた理由はその護身術に関してしか教えられていないのよ。芸術は、何か出来る事はと教師達が頑張ったから」


 そして、エスメラルダは笑いながら言う。

 考えて笑ったのではない。エスメラルダより賢い女なら笑うのを我慢したところだろう。だが、少しハルシャが可哀想になってしまったのだ。だから落ち着きなさいという代わりに気付いたら優しく言い聞かす口調の自分がいた。


「あのね、もっと年月を経て、予想しなかったトラブルと戦い実績を積んでのシステムについてなら、解らない事も色々と出てきて貴方に散々質問したと思うわ。沢山の可能性を考えて、簡単にこうなのではと想像出来る範囲を超えていた事でしょうね。でも、現段階の生まれたてのそれなら子供でも理解出来るの。女なら解らないと思っているかもしれないけれど、大抵の女達は解っていてもその理解を言葉と態度で示すのが難しい、それだけよ。女は馬鹿な振りをしていなければならないとか本気で男達は思っているけれど、馬鹿がどうやって一家の力の塔であれると思うの? 貴族の妻ならば館を運営して従僕や侍女を育てて彼らを使うのよ? 領地を陰ながら運営する淑女達は珍しくも何ともないのに、どうして女は馬鹿だと思えるのかしらね。女と男では感じ方も目の付け所も違うかもしれないけれど、余り馬鹿にすると痛い目を見るわよ? 脱線してしまったのは申し訳なく思うわ。話を戻すと、貴方のシステム、国の政治のやり方をひっくり返して作りかけたそれは、とてもすごいと思うわ。だけれども、生まれたてでまだ何もこんがらがってないの。だから現状を理解する事もどうして貴方が成功したのかという事も、すこぶる簡単なのよ。知恵の輪の方が難しい位だわ」


「知恵の輪の方が難しいとは、随分な仰りようで」


 ハルシャの声がワントーン低くなった。


 これだから男は。誉め言葉を曲解した挙句に不機嫌さを隠す余裕もないのか。

 とはいえ、スゥ大陸で女に自分の仕事を理解され慰められて、屈辱に思わない男の方が珍しい。フランヴェルジュが珍しい男の一人であるのが、確立だとか生まれ持った立場だとかを考えるとおかしいのだろう。

 

 けれど、シズ、流石に顔に出過ぎていてよ。

 わたくしも腹芸は苦手だし感情は顔に出る方かもしれないけれど、この男は宰相なのだと考えるともう少し、笑顔と愛想を頑張らないと駄目ね。


 人間らしくて良いを通り越して感情が駄々洩れはよろしくない。がちがちの逃げ場の一切ない理論で責めた訳でもない、小賢しく囀る相手に此処まで解りやすい表情を晒すのは駄目だ……そこまで考えて気付いた。


 男社会では賢しらな女がひたすら言葉を繋げ、言い負かしてやろうと挑む事はそもそも無い。きっと今ハルシャが覚えている屈辱をスゥ大陸の男達の大半は死ぬまで知らずに過ごす事。


 思うとエスメラルダは少し胸を撫でおろしていた。 

 八つ当たりでとりあえずこう行こうと決めたやり方で良かったのかもしれない。相手がこういう物に耐性が無いというのは主導権を握るのに大きい。


 ただ、いい年をした大人が拗ねた子供のようになっているのはどう扱えばいいか。

 

 しかし、唐突にエスメラルダの心に今まで湧いた事のない考えが浮かんだ。


 ハルシャに小賢しく囀り倒す女への経験値が無いとすれば、禄に友人もいない上に普通の淑女としての経験すら自分にはない。こうすれば勝てるかと頭で仮に千や万を超えるやり方が浮かんでも、どのやり方にも殆ど経験値がない。少ない人数だが、深く付き合っている関係の人間を思い浮かべて、全員普通だとか一般的とかいうやつからずれている事を考えると、屈服させたいとか余裕をもって考えていた自分はすごく馬鹿だ。


 でももう下りられない舞台に自分はいるし、此処に上がらないという選択は無かった。


 ただ、馬鹿な自分を自覚したら、挑発は恥ずかしい態度だったのではと思う。

 心が、忙しない。何故自分でコントロール出来ない感情に悩まされるのか。


 ひく事と寄り添おうと頑張る事は……違う事だと良いなと思ってしまった。高い場所で囀るだけが戦略か?


 いや、自分の目指していた方向は間違えていたのかもしれない。フランヴェルジュなら、夫である男なら、多分屈服させるより何倍も人間関係が良い形に繋がるように対応したのではなかろうか。当たり前に彼がやってのけた事を思い浮かべると人心掌握という言葉が浮かんだ。


 エスメラルダに目線を合わせて彼女のレベルにあった対応をしてくれるフランヴェルジュのそのやり方に慣れていたが、彼は随分大人だ、年齢だけではなく。


「貴方の発言はとても馬鹿げている事を理解した方が良くてよ。貴方はこの国の政治をシンプルにしようとして動いたのにわたくし如きが理解出来ない上に知恵の輪の方が簡単なら、貴方は失敗したという事よ。貴方は成功したの。だからとても解りやすいのよ。わたくしも助かるという物よ。ねぇ、『お前は秀才以上だけれど天才には一歩及ばない、しかし志は高く気持ちの良い人間だ』……この台詞に覚えはないかしら? シズ」


「……随分と、懐かしい言葉と呼び名ですね。寝物語は、ランカスター様でしたか」


 ハルシャは何とか笑おうとして、失敗した。


 アシュレを狂わせ、壊した人物が自分に対してアシュレが生前下した評価と彼だけが呼ぶ愛称を知っているのは……何とも不思議な気分だ。とても複雑で、然し腹が立つのとは違う。


 エスメラルダは笑って見せた。

 やり方を百八十度変える事がいい結果に向かうパターンではない。と、いうか、心を握って離さないという技術は持ち合わせていない自分なのだから、ぐるぐる考えずに行こう。

 ただ、アシュレに近かった人間が寝物語という言葉とアシュレと結びつけようとするなど……ここは笑うところだろう。


「あら? ランカスター様は寝物語なんて一切なさらない御方よ。だって、わたくしの睡眠時間が減って目の下にクマが出来たとして、あの方がその顔を描きたがると思う?」


 エスメラルダの冗談交じりの言葉は、しかしアシュレを知るものならば納得のいく言葉でもある。


「私の説明したシステムが知恵の輪より簡単で、私が成功したとして、貴方は随分不成功の事案についてお詳しい」


「絵の仕上げをなさっているランカスター様の邪魔は出来ないでしょう? でも、ペットを飼う事は……わたくしには出来なくて、時間を潰せるものはランカスター様の蔵書だけだったのよ。ゲオルグという五代前の王の事も、ちゃんと記されていてよ。何を為し、何をなくしたか」


 一度だけペットを飼った。アシュレがプレゼントしてくれた犬のダラはレイリエに腸を抜かれ殺された。

 エスメラルダはだから、怖くてペットというものを未だに飼う気にはなれない。


 緋蝶城で時間が余ると本を読むしか出来る事がなかった。自然を愛し外の空気を吸う事の喜びを知る筈のアシュレは、それなのにエスメラルダが一人で外に出る事は許さなかった。敷地内の庭園ですら許されなかった。


 思い出して胸が詰まった。

 同じようにアシュレという男を思い出すのなら自分を閉じ込めた事ではなく、違う話をしよう。


「ランカスター様は、絵を描く時間の確保の為にわたくしに領地経営を叩き込んで下さったわ。二人でやれば早く終わる上に、あの方が先に黄泉路を辿っても、わたくしがエリファスの女主人として為すべき事を為せるから、ですって」


 エリファスは治めるのが難しい土地だ。


 だからこそ、公爵位を手にしたアシュレに押し付けられたのだ。彼が有能である事を知っての事だ。尤も、アシュレは未開拓の部分と一部の栄えている部分、両方を併せ持つ領土が自分に与える恩恵を知り喜んで受け取ったのであるが。未開拓の部分が彼には素晴らしく思えた。絵を描くにあたってエスメラルダを知らなかった頃のアシュレにはエリファスの未開拓な部分は最高の素材と言えた。おまけに一部分栄えているお陰で、領地に引っ込んでいても殆ど何の不自由もないのだ。その土地はアシュレにとって天からの賜物と思えるそれ。だからこそ、彼はよく治めた。土地への愛情をむき出しにするアシュレに領民たちも信頼を寄せた為に領地経営はかつて直轄領だった頃の代々の国王の苦労が嘘のように、容易く行われた。


 だが、エリファスという土地を考えるとエスメラルダに何が出来たというのだろうとハルシャは思う。いや、はったりに決まっている、国を治める王が苦難を舐める土地だ。一体小娘に何が出来ると?


 確かに、言い負かされかけていては退路の悪さをハルシャは自覚していた。しかし、ハルシャはエスメラルダが調子に乗り過ぎたのだと思いこんだ。

 ハルシャの常識を総動員して、三秒がっつり考えたが、やはりエスメラルダが風呂敷を広げ過ぎて自爆したと彼にはそう思えた。


 余計な展開をしなければ負けていたのはこちらだが、女らしからぬ知力を披露したとして、だがやはり浅はかな女なのだ。


 このまま放置すれば、沈没する相手、ハルシャはそう考えた。いや、ハルシャは……祈ったのだ。


 そんな祈りをエスメラルダは全く知らずに、歩み寄りたいと思う。ただ、それは今日、面識を得たばかりの相手となると本当に困難で、……だからこそ、やりがいがある。


 愚かで無知なわたくしには解り兼ねる事ですわ、そう言いながら女らしく弱さを演じ切り実は何もかも掌で転がすあの才能、男を立てて従えというこの事態の賢い女の才能は一欠片も無いのだというのはエスメラルダは昔から強く理解している。


 試験を受けながらやり方を模索だなんて、なんて能天気な事。そう思うが、この試験に賭けているのは自分の正気なので最後に笑えばいい。

 しかし、何故このタイミングで夫の話ではなく、懐かしい人の思い出が溢れるのか。縁はあると理解しているが、何故、口から出てしまうのか。


「ランカスター様は全部叩き込んで下さったわ。厳しくて優しい教師であらせられた。まずは土地の税収、その安定の為に領主が出来る努力は何かを考える事。税が無事納められたらその税の使い道、整備しなければならない人や物。何に手をかけてやらねばならないか常に自分の中で思考し、感じて、そして求められる前に差し出せ、と。途中からあの方、社交以外の総てを押し付けて下さったわ。お陰様で、雨が降っても晴れの日でも、その天候の意味まで考えるようになってしまったわ。雨が降れば桶屋が儲かるとかいうけれど、笑い話ではないのよ。ただ、あの方が受け持って下さっていた社交に関してはわたくし、さっぱりなのは認めるわ。この年になってもお茶会が心の底から苦手なわたくしは、戴冠式後の王妃のお茶会が怖くてならないの。おかしいでしょう?」


「ちょっと待ってください! 社交以外の総て? 貴方は大袈裟に言っているのでしょうが……!」


 ハルシャが狼狽えたように見えるのだが、スイッチが入ってしまったというあれなのだろうか。止まらない。


 アシュレ・ルーン・ランカスターという人間について、一番自分に寄り添ってくれる夫との話題に持ち出せずに、消化しきれなかったあれやこれやがただ出口を見つけて溢れてきたのだと、エスメラルダは気付かずにいた。

 そしてただ思い出話が溢れて暴走しているとだけしかエスメラルダが思えない言葉がハルシャを焦らせている事に気が付かない。


 ハルシャは沈没の決定的なきっかけを見いだせず、懐かしさとエリファスという土地の意味でおかしくなりそうなのに。

 風呂敷を此処まで広げるなどと。そこまでする意味もないし、流石にエスメラルダと話していると、此処まで徹底的なミス(・・)を平気で犯すかと不思議になる。うっかり口が滑ったレベルの風呂敷の広げ方はとうに超えている。


 ハルシャの姿ではなく、今エスメラルダの視界に写るのはアシュレという男で、エスメラルダの口から、ただあった過去として、色々とひたすらに零れ続ける。そこにいるのがアシュレを知るシズだから、だからきっと思い出話に夢中になってしまっているのだろう。


「ランカスター様が絵を描く以外にやりたい事があると思うの? 風景画よりわたくしを描くことにしたランカスター様は、領地を運営する術を叩き込んで下さった後、書類と戦うわたくしをそれは楽しそうに画布に収められてよ? あの絵はきっとまだ緋蝶城のアトリエにあるのでしょうね。あの方がそんな方だと、貴方は知っていると思っていたのだけれど、ねぇ、シズ」


 アシュレという男がエリファスをまともに治めていたのはその土地を描きたかったからで、更なる被写体が見つかった後の領地運営など面倒で邪魔くさくて放り出したいものだったに違いないと、確かにハルシャにも解る。アシュレはそういう男だ。エリファスへの愛など新しい被写体の前では霞のようなものだったに違いない。

 だがそれでも、国境線もあり、収穫に波のあるエリファスは税収自体も安定しない、誰もが治めるのを嫌がる土地で、他の領主のように王都に頻繁に帰って、領地にはたまに顔出し程度にしたくても、道路事情がメルローアで最も悪い、そんな土地で。


 あの土地は難しいだけでなく他にも面倒事を抱えていた気がするが、アシュレが余りに平穏に治めていたせいで、大半の人間がエリファスの問題を殆ど忘れてしまっているのが現状。


 だが、女があの領地を社交以外のそれを全部受け持つのは無理だ。少なくともハルシャの知る女でそれを可能に出来る女はいない。せめて税収が安定していれば、出来る事も沢山あるだろうが、税に恵まれぬ年も多々あり、税どころか飢饉の恐れも少なくないあの土地を女の身で、しかもまだうら若い酸いも甘いも知らぬ未通女が何とか出来たとは到底思えない。はったりにしては、少し虚勢を張り過ぎだとハルシャは思う。


 今やエリファスは直轄領だが、その運営にフランヴェルジュは人を携わせようとはしない。ハルシャは、エリファスに関してはどれだけ文官達に仕事を仕分けようともフランヴェルジュが頑張るしかない仕事だと思っていた。


 最早笑顔を取り繕おうともせず思考のふちに入りながら表情をころころと変えるハルシャが少し不思議でエスメラルダは首を傾げた。


「そんなに不思議なものかしら? 読む物は歴史書と憲法全書に法律書、簡単な神学書、土木治水の古今東西に、後は福祉関係やらの本もあったわ。孤児院や施療院の大事さは身に染みているけれどそれは今から対策を練るでは遅い事だとよくランカスター様は仰っていた。福祉というものは発展させなければならない物で今から根付かせるという対応はこの国の歴史を考えると治めてきた領主と王の怠慢だと。発展という形で増やす事も充実させることも大事だけれど、確かに七百四十七年の歴史がある国でこれから取り組む事業だ、なんて言われると笑ってしまうし、いえ、怒るべき事だわよね、民が怒る権利を持っている事だわよね」


 くすくすとエスメラルダは笑う。


 ハルシャは漸く、アシュレが己を虜にした娘を思い自分に言い切った言葉を思い出した。


『あの娘以上に大切なものはない。だから総てを与える。この世界に君臨する女王にさえ相応しいだけの総てを』


 アシュレが与えたのは、女王以上の教養……いや知識と実践か?


 国一つ治めるのと領地を治めるのとでは意味が違う。違うがそれを正しく理解出来ているのは王だけだ。文官達は爵位を持つ者はハルシャも含めて領地の治め方を知っている。爵位をどこぞの貴族の一人娘にでも婿入りしない限り手に入れられぬ次男三男が文官の殆どを占めるが、彼等とて悪い言い方をすればスペアとして領地の運営はある程度学んでいる。


 その領地運営の方法を何とか政に応用しようと足搔くのが文官の限界と言っていい。それである程度は何とかなるのだ。そして、限界を超えた分、本当の意味での国を治めるという分は王の仕事であり、それだけはハルシャも取り上げる事の出来ない種類の政務。


 ただ、アシュレが領地として拝領するまでずっと国の直轄地であったエリファスを治める能力を本当にエスメラルダがもつのならば……そんな事有り得ないとハルシャの感情は叫ぶが、もしそれが事実だったなら、彼女はハルシャよりフランヴェルジュに近い。いや、誰よりも近いと言える。ブランシールよりもだ。


 気が付けば、ハルシャは音を立てて唾を飲み込んでいた。

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