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エスメラルダ  作者: 古都里
第三章 王と王妃は模索する
72/93

6 只人の葛藤

◆◆◆

 ハルシャ・シズリアにとってエスメラルダという女はとても不快でとても好ましく、つまりはややこしい存在だった。


 最初に彼女を不快に思ったのはアシュレ・ルーン・ランカスターという男が彼女に夢中になった時だった。


 自分の身分では親子ほど年の離れた娘に恋をして登城するどころか滅多に王都に踏み入れる事もなくなり領地に閉じこもるアシュレに何か言う事など出来なかった。

 何せ相手は王弟であり臣籍に下った後は公爵。寧ろ何故自分を可愛がって酒飲み相手に選んでくれたのか解らない、そんな身分の男だ。


 けれど、酒の席でどれだけ愚痴ろうがアシュレはとても有能だったのだ。当時の王であったレンドルに何か言えるのは妻たるアユリカナとアシュレだけ。アユリカナは王妃としての公務で携わった部分しか政務については理解していない。政務どうこうではなく為政者としての本能的な立ち居振る舞いは恐らくアユリカナはレンドルより優れているだろうことをハルシャは認めているが、いざ政務を代わりにやれと言われても知識が追い付くものではない。


 アシュレは王になる事は決してない身でありながら、自分から必要な学問を学び己の物にするような男だった。だからこそ、ハルシャはどんなに愚痴をぶちまけられようともアシュレを尊敬していたのだ。


 そのアシュレが、ハルシャの感覚では――壊れた。


 何事にも執着せずに、公平で、明るく、優しかった男は、エスメラルダという僅か十二の娘に壊され、別物になって、彼女以外の事に殆ど見向きもしない人物になり、エスメラルダという娘にだけ執着して、挙句命を落とした。エスメラルダが殺した訳ではないし、ハルシャはアシュレが何故雪嵐の中アシュレが馬車を出すなどという無謀な事をしたのかその理由を知りはしないが、アシュレを壊した元凶たるエスメラルダとの婚姻を控えての事であったのは誰もが知る事実だ。


 アシュレが死んで暫くしてから宮廷に流れた噂があった。エスメラルダがアシュレと事実婚のような関係にあったと宮廷の蜂雀達が醜聞として賑やかに囀ったのだ。そこには平民に過ぎない娘が王弟であり公爵である男とそういう関係にあったとのやっかみや嫉妬、一部の男達のとてつもない下種な感情、色々あったが、ハルシャにとってそんなものはどうでも良かった。


 ハルシャにとってアシュレが変わり、壊れたまま死んだ事が全て。


 婚前の男女関係は奔放に、正式な婚姻を結んだ後は互いに操を立てる。男が妻以外にどうしてもという女を見初めた場合は遊びで済まさず妾としてだが大事に扱い迎え入れる。


 メルローアがそういう国なのにエスメラルダという娘に限りそれが醜聞となったのは、彼女が何か人とは『違う』不気味な生き物のような気すらした。エスメラルダが異端だから、アシュレは狂い人々は他の物であればそれがどうしたと言える事が醜聞になったのだと感じたのだ。


 そして、その醜聞が出回った時、既にエスメラルダはフランヴェルジュの心にいた。


 ハルシャがエスメラルダに好ましく思ったのはフランヴェルジュの変化だ。

 フランヴェルジュはアシュレのように壊れたりはしなかった。周りから求められるまま、ただ義務を果たしていた機械のようなフランヴェルジュが少し人間臭くなった。

 その変化を無視する事はハルシャには出来なかった。彼はどんなに自分にとって不快でも、その功績を認められない人間ではない。仮に敵と呼べる相手であれ、長所と功績は素直に認め、相手によっては讃える事すら出来る人間だ。


 エスメラルダは確かにフランヴェルジュを良い方向に変えた。


 そしてハルシャが決定的な好意を抱いたのは彼の女神が心の底から愛おし気にエスメラルダを見つめる姿を見てしまった時だ。


 金色の髪に海の瞳の娘は自分の子供より更に幼い。ハルシャは恋愛だの男の情欲の対象として彼女を見ていたわけではないと思う。ただ、彼女はあまりにも、透き通った綺麗さでひたむきにブランシールを愛していた。


 ハルシャの女神であるレーシアーナは、見返り一つ求めようとはしないでひたむきに想いの総てをブランシールに向けていた。ブランシールを愛する彼女を見るたびに、胸が疼いたものだった。


 レーシアーナがハルシャの女神になったのはいつからだろう。ブランシールに絡まれる事が多かったハルシャは自然、彼に従うレーシアーナと対面する機会が他の文官達に比べて多くはあった。

 会話など一言たりとて交わした事がないし、どう考えても恋ではないとハルシャは思う。ただ、そのひたむきさに惹かれ、愛した。


 そのレーシアーナが心に孤独を囲っている事に気付いたのは何時の頃であったか。彼女の心はブランシールにあるのにそれは彼では埋められない物なのだとハルシャは何となく気が付いたが、出来る事などなかった。王族と口を利くのを恐ろしいと思った事などないハルシャだが、レーシアーナには『おはよう御座います』の一言も言えなかった。そんなハルシャに出来る事が果たしてあるのか?

 心の中の女神たる彼女の孤独は、しかしある時を境に綺麗に消える事になる。


 レーシアーナの人生にエスメラルダという存在が登場してから、レーシアーナの貌から孤独が消え、表面だけの笑みではなく、まるで人生を楽しむようなそんな笑みを浮かべるようになった。

 その前後にブランシールと婚約した事も大きいかもしれないが、ハルシャはレーシアーナの変化を会った事もない、ただブランシールから聞かされたエスメラルダ故だと直感した。


 アシュレの人生を壊そうが狂わせようが、愛する女性から孤独を消し去り、今までと違う種類の笑みを与えた女に好意を持たずにいられる訳がない。


 ただ、エスメラルダとはどんな女だろうと不思議に思いはした。


 フランヴェルジュという存在、レーシアーナという存在、その二人を変えたエスメラルダ。

 けれど、アシュレを壊したのもまたエスメラルダだ。


 結局ハルシャがエスメラルダをまともに見る事が出来たのは王になってから初めてのフランヴェルジュの生誕祭だった。ハルシャにとってくだらない醜聞であれ、あれほど騒ぎ立てられてはそれを払拭するか、フランヴェルジュから去るかしかなかったエスメラルダが審判で潔白を証明して、その証たる水晶をフランヴェルジュへ贈ってみせた。


 ハルシャはあの時のフランヴェルジュの顔を見て酷く驚いたものだった。


 エスメラルダという娘は確かに美しかったが、彼女はそれだけなのだろうか。

 美しい女など宮廷にこれでもかと咲き誇っているのに、エスメラルダはどの女とも違うように見えた。その彼女にフランヴェルジュが与えた笑顔。

 女達が黄色い声を上げて頬を染めて魅入るだけに止まらず、同性である男達の心臓までも握りつぶさんばかりの衝撃を与える優しい笑顔をフランヴェルジュはエスメラルダに与えた。蕩けそうなほど甘く、誰が見てもフランヴェルジュが最早彼女無しの人生を歩むのは不可能ではなかろうかと思わせる程、見ている者の心を乱し、握りしめる笑顔。

 そしてエスメラルダが返した笑顔もまた、同じ人なのだろうかと思える程美しいだけでなく愛情が籠るそれで。


 ハルシャはフランヴェルジュがそんな風に笑える事を知らなかった。フランヴェルジュは基本笑みを浮かべて政務に当たっていたが、何故口の端を持ち上げ笑うというそれが、エスメラルダに向けられる時はあんなにも魂を引きずられそうな衝撃を感じさせるそれに代わるのだろう。


 レーシアーナに曇りのない笑顔を与えた事でハルシャの中に築かれていた好意が、少し揺れた。

 

 エスメラルダの微笑みを見て、フランヴェルジュととても似合いの一対だと思うと同時にハルシャの心の中で『傾城』という言葉が浮かんだのだ。

 エスメラルダという女は意図したとしても意図しなかったとしても、結果としてこの国を傾ける存在なのではなかろうか。


 フランヴェルジュとは確かに鍵と鍵穴の如くにぴったりで、つがいという言葉が良くあてはまると思うのに、ハルシャは何故か不安で仕方がないと思ってしまったのだ。


 それでも、ハルシャはエスメラルダにあまり敵意を向けたくはなかった。レーシアーナの愛する娘に敵意を向けるのは彼女への裏切りのような気がしたからだ。


 そしてそれから、エスメラルダの行動範囲が広がったのだろうか、レーシアーナと一緒にいる姿を何度か見かけた。

 レーシアーナが可憐に、時に悪戯っぽく、時に拗ねたような顔をして、けれどどんな表情の時でも笑顔だったのをハルシャは忘れない。その海の色の青の瞳に、ブランシールに向ける愛とは全く違った愛と信頼が讃えられているのを見ると胸が痛むものの何百倍も幸せで。


 しかし、血が流れた。

 五月十日の、婚姻が未遂に終わってしまった日。


 白華の間に向かう二十人の文官達の中に当時、爵位はあれどそれ以上の物を持たぬハルシャが選ばれる筈もなく、後に彼はエスメラルダが文官達に言葉をかけ、その上で腰を折った事を聞かされたが、そんな事はどうでも良かった。


 エスメラルダを殺そうとしたとしか思えないシャンデリアの落下。偶然ではなく作為のそれという事までしか幾ら調査してもたどり着けなかったが、その作為の向かう先は花嫁たる女なのだと、何者が企んだにしろあれはエスメラルダへの殺意が込められていたとしか思えない物でしかないと……けれど下敷きになり命を落としたのはエスメラルダではなく。


 あの時、ハルシャは何が起きたか理解出来なかった。ブランシールが狂ったような雄叫びを上げ、王も、王に望まれた娘も取り乱していたが、やはりハルシャには信じられなかった。

 シャンデリアが持ち上げられ、彼の女神の息絶えたその躯を見た時、ハルシャはただ何故? としか思えなかったのだ。


 全ては悪い夢の筈なのに、未だに夢は醒めない。夢の中で怠惰にしているとレーシアーナの事ばかりを考えてしまう。

 終わらぬ夢の中で宰相の位を拝命し、これは夢に過ぎぬのだからと思い通りにやった。無駄が嫌いだと、王の仕事は異常だと、夢の中なのに冷静に考えられたのが不思議だ。


 忙しく、ひたすら動いて考えてレーシアーナを想う余裕をなくした。

 やっと心が落ち着いてきたと、ハルシャが思ったのはつい昨日か一昨日だ。


 夢が醒めぬのなら、いつか遠い未来に醒めた時にレーシアーナに恥ずかしくない働きをして、功績を残そうと思ったから、ハルシャはがむしゃらにやれたのだと思う。少なくとも意識せずとも彼の努力は常に妻でも三人の子供でもなくレーシアーナの為だった。ハルシャにとって妻も子供も空気の様に当たり前で揺るぎないものなのだが、揺らぎ、そしてその手に捕らえられないレーシアーナの存在は不安定だからこそ彼の視線が向かう先になってしまう。

 妻への想いはハルシャにとって余りに当たり前すぎて意識して心を満たすという存在ではないのだが、レーシアーナはそういう意味で真逆で、遠すぎて、触れる事の出来ないその面影が心に住まう女神としてハルシャの中で絶対であるのだ。


 夢は終わらない。

 夢が醒めてもきっと口を開く勇気は出ないだろうと思いながらも、レーシアーナはハルシャの救いであり、今生きている理由でもある。何せ自害して果てたものは神の中の神である主の傍に侍る事は出来ないのだから。


 エスメラルダが死ぬ筈だった婚姻でレーシアーナを失った事で、エスメラルダという女を責めるべきだろうかとハルシャは考えて否の答えを出したのは、レーシアーナが薨去してすぐだ。前宰相レーノックスがエスメラルダの不吉を熱弁し、何人かが賛同した時、ハルシャは共に挙手するのを拒んだ。レーノックスが嫌いなのではなく、愛しい女性が命を懸けて守った女性を貶める事など出来なかった。


 ただ、憎むまいと思ってもそれはとても困難で、フランヴェルジュを思い、レーシアーナの意思を思い、何とか感情を不快というその言葉で抑えたのだ。


 レーシアーナは何度も夢に出てきて、相変わらず言葉を交わす事はなくブランシールを見て、もしくはエスメラルダを見て甘く優しい笑顔を浮かべる。


 あの笑顔を齎した事実だけが、今のハルシャがエスメラルダに欠片程の好意を抱く理由である。彼女への気持ちが不快に塗り潰されないのは、理屈よりも雄弁な夢の中で見る夢の力。


 ハルシャはエスメラルダをフランヴェルジュの妻として、大切に扱わねばと思っていたのだ。欠片程の好意がそう思わせたのだろうか、それとも王に忠誠を誓うからだろうか、ハルシャにはそんな事は解らない。


 ただ、失礼にならぬ程度の敬意を払うのが精一杯だと思っていた女を、フランヴェルジュは王の執務室に入れて仕事を手伝わせると言い出したのだ。


 今のシステムは、当たり前のことが当たり前と言える日が近づくことを願いハルシャが精魂込めて作りつつあるものだが、一番は夢から醒めた時の為。レーシアーナと言葉を交わす事など出来なくとも、彼女に会った時に胸を張れるようにとそれが一番の原因。

 沢山の綺麗ごとを並べて心の中で理由と言い聞かせてはいたが、その理由も偽らざる本音であれど、一番の原因というのは、心に住まう女神に起因する。


 しかし、フランヴェルジュはそこに『最低でも王妃の戴冠式が終わるまで』エスメラルダに関わらせるとハルシャに宣言したのだ。


 今日の予定も王妃の予定はほとんど入っていなかったらしいが、はっきり言って意味があると思えない、公務と呼べるのかというそれをフランヴェルジュはエスメラルダにさせないと言い切ったそうだ。王の権限でもって、少なくとも王妃の戴冠式までの彼女のスケジュールは自分が決めると言い切ったと告げられた時は、ハルシャはとても後悔したものだ。


 将来的に部門の下に部署を作るのは勿論の事ながらもう一つ部門を立ち上げる事を考えていた。王と王妃のサポートとスケジュール管理専門のそれを立ち上げる事によって王と王妃の公務に無理のないそれを実施する予定だった。あれを既に組み立てていたならば。本当に、何故自分は急がなかったのか。


 まだ暫くフランヴェルジュには普通の人間なら少しきつい仕事量をこなしてもらわなくてはならないし、エスメラルダはフランヴェルジュにとって足手纏いでしかない。それとも、恋がフランヴェルジュまで壊し、自分の為すべき事に真摯な王を愚昧な存在へ変えてしまったのか。


 どちらにせよ、エスメラルダを女神のように扱いながらも決して女神という二つ名を与えない周囲の熱が冷めなければ八つ目の部門は立ち上げられないと考えていたのだが、そんな甘い事を言っている場合ではなかった。


 今フランヴェルジュが、計二百十一名の文官が、そして自分がやっている仕事はおままごとではないのだ。幾ら王とはいえ、この仕事に自分の女を携わらせるというのは、気が狂ったとしか思えない。


 女に理解出来るものか。

 文官として登用されたメリッサと違って平民の出の、恐らく禄な教育も受けていない王妃が遊び半分で引っ掻き回したら今までの努力が水の泡だ。ハルシャはそう思う。


 幾らなんでも寵愛が過ぎるというものですよ。


 ハルシャは心の中で、聡明な王の惑乱にどう対応すべきかと考える。王の寵愛は女官長である姪のユリエ・クラリス・レスターが丁寧に伝えてくれる。ユリエは侯爵家令嬢、自分はしがない子爵に過ぎぬからその繋がりを恐らく誰も把握していないだろうが、ハルシャとユリエはれっきとした叔父と姪。それも仲の良い、信頼できる関係だ。ユリエは誰彼構わず喋る性格ではないが、ハルシャが宰相になった為に王が後宮でどう過ごしているのか、解る範囲をこっそり教えてくれている。ユリエが嘘を吐く必要が存在しない、つまり疑う必要のない情報が示す王の溺れ方。相当の寵愛である事は理解していた心算だった。


 しかし、王の執務室に入れて自分の仕事を手伝わせるというのは、本当にフランヴェルジュはおかしくなったのではなかろうか。


 ハルシャが王の執務室に入れるようになったのは一週間前の事だ。それも四六時中の滞在を許されているわけではない。


 王妃様に一体何が出来ると仰るのですか?


 そう、喉まで出かかった言葉をハルシャは飲み込んだ。フランヴェルジュは、色ボケたかもしれないが、その目は真剣で逆らう事など許さぬ王者の目だ。


 恋に狂おうと壊れようと、貴方は生まれながらの王で……だからこそ従いますが、適当にあしらえない畏怖すべき存在とは、本当に厄介ですね。


 フランヴェルジュは絶対に決定を覆す事はないだろう。大体、フランヴェルジュは相談ではなく決定事項として伝えてきて、そして命令した。


 王妃に仕事を手伝わせる、故に今日中に王妃の為に時間を取ってハルシャ自らがシステムの説明とフランヴェルジュの仕事をエスメラルダに教えろ、と。

 命令の形で発した言葉をフランヴェルジュが飲み込む事があっただろうか?


 ――それなら、エスメラルダに遠慮してもらうしかないではないか。


「陛下、文官には一週間に一日の休みを与えておりますが私はまだ休んでおりません。休みのない陛下に申し上げて良い物かは存じませぬが、本日は休暇という扱いにして下さいませぬか?」


 ハルシャの言葉にフランヴェルジュは金色の目を眇める。太陽を溶かしたような瞳は、美しいだけでなく剣呑な光を湛えながらハルシャを見つめる。


 普通の精神の者なら、そういう目線を向けられたなら跪いて許しを乞うたに違いない、支配する者の目。


「我が命には従えぬと?」

「とんでも御座いません」


 ハルシャは即座に切り返す。


「今日が仕事ならば、王妃様の為に確保できる時間が限られたものになってしまうでしょう。王妃様が正しい理解をなさるようゆっくりとお話したいのです。その為の休みを申請した次第です。本日の王妃様の予定は取り消されたのならば、今すぐ後宮に使いをやっても宜しいでしょうか? この身は後宮へ立ち入る資格を持ちませんので、私の執務室にお呼びする事になりますが、その無礼を許可して下さるのであれば、この身に余る幸いです。王の執務室にお呼びすれば、陛下の仕事が片付きませんし、まず、一から丁寧にお伝えするにはそれが一番かと愚考します」


 ごくごく丁寧に、裏などないかのようにハルシャはフランヴェルジュの前で振舞って見せた。


 無体など一言も言っていない。

 ハルシャは許可が出れば即使いを後宮に送り、王妃に懇切丁寧に説明するつもりだ。そう、心の底から嘘偽りなく丁寧に、余すことなく総てを伝える努力をしよう。


 そして、ただ王妃たるエスメラルダに正しい理解を示してもらえればそれでいい。


 玉座を分かつ身であれ、男には男の、女には女の領分があり、理解出来ぬ仕事など手に負えないと気付いてくれると信じたい。

 気付かぬ程の愚かな女であれば、執務室で懸命に働く王にしなだれかかり甘える事が仕事だと思っているほどの馬鹿ならば、それはそれで取れる手段は幾らでもあるのだ。


 ハルシャがすることはただありのままに王の執務室で王妃が為せる仕事などない事を解らせるだけ。欠片の嘘偽りの必要がない、簡単な話である。


 恋に狂った王よりも、恋の最中でも現実を見て計算出来る『女』であるエスメラルダの方が扱いやすいに違いないとハルシャは思ったのだ。


「そういうならそなたの今日の仕事は免除するが、休みとはしない。休みは休みで取るべきだ。今すぐ休暇をくれてやるわけには行かぬが、落ち着いたらそなたに纏まった休暇を与えよう。王妃の為に心を砕いてくれる事を嬉しく思う。お前の執務室への呼び出しを許可しよう」


 目上の者に目通り願う際は赴くものだが後宮にはハルシャは立ち入る事は不可能である。異国の宦官の制度がないメルローアの後宮は政治的思惑を持ち込むのがとても難しいところだが、別に持ち込む必要はない。犯してはならないテリトリーを犯すような、今、まさに王がやっている事と同じことをして、自分を同じ土俵に立たせるような愚かな真似はしない。


 腹の底で忙しく感情を処理するハルシャをフランヴェルジュは見やる。腹芸だけは、レーノックスの方が上ではあると評価しつつ、だからこそ、ハルシャは好ましく思える存在ではあるのだが。


 宰相の執務室にも若干の書類などがある、それらを見せる事も狙いなのだろう、とフランヴェルジュは思う。百聞は一見に如かずを実行するのにハルシャが選んだ場所は、悪くない。ただ、ハルシャの思う通りに行かないだろう事は解る。宰相に就任し、ほぼ思うままに周囲を動かしてきた人間が、叩きのめされたら立ち上がれるか、そう一瞬浮かんだ疑問をフランヴェルジュは黙って飲み込む。


 フランヴェルジュはハルシャの心に義妹が住まう事までは知り及ぶところではないが、大体ハルシャの思惑を理解していた。

 しかし、それ位の困難を突破できぬ者に自分の仕事を手伝わせようとフランヴェルジュは思っていないだけだ。愛しい女であれ、今構築されつつあるシステムを壊す原因になったりしたら、どれ程の人間の恨みを買うか、それからフランヴェルジュの力だけで守るのは困難というか、無理だ。


 籠の中の小鳥にしておくわけには行かない。しかし実際自分の権限で何か役目を与えるとしたらこれしかないのだ。


 自分が貴族階級ならば、取れる選択肢はもっとあった。本当に、王は絶対と崇められるが使える力は微々たるもの。フランヴェルジュがしてやれるのはこれだけだというのに、そう思う反面、恐らくエスメラルダはハルシャを納得させられると、絶対的に信じている自分に気付き、笑みを噛み殺した。殆ど経験はないが、それでも下地は十分なのだ。頭に抱える知識とそして、彼女の器を考えると、寧ろハルシャが立ち直れないダメージを負う事の方が心配なくらいである。恐らく、加減しつつ少し遊んでしまう猫の様に振舞うのではないかと思える妻の姿を見たくはあるが、それは我慢だ。


 王のテリトリーに王妃を引き込むなど、歴史上存在しない程の暴挙。ただの公私混同レベルではない。だからこそ、『私』の部分で自分が守ろうとする女を『公』として周囲に認めさせねばエスメラルダの株が下がる。自分が幾ら愚昧と罵られようとも何の痛痒も感じはしないが、エスメラルダが罵られるのは我慢出来ない。その罵声の相手を叩きのめす為に自分は手段を択ばないだろうが、そんなことはしたくない。宰相さえ認めれば、ある程度の納得は得られる。

 勿論かなり王としてのフランヴェルジュの株は下がるだろうが、それは別に大した問題ではない。


 フランヴェルジュはエスメラルダの能力を信じるのみ。そしてエスメラルダが、決して慎み深い淑女として、「愚かなわたくしには殿方の仕事など到底理解出来ませんわ」などという現実とかけ離れた言葉を使わないというのは自信を持って言える事だ。


 とはいえ、フランヴェルジュにとっても、納得以上の物を引き出す事までは想定の範囲外であったが。


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