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エスメラルダ  作者: 古都里
第三章 王と王妃は模索する
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4 おしべとめしべ

◆◆◆

 フランヴェルジュにとって、人生は盛りなのではないかと思いながら蜜月から二週間が経った。

仕事は順調で、日に日に様々な事が安定していく。蜜月が終わって最初の方の休憩は無理やりとっていたものだと気が付いたのは何日前だったか、気づいた切欠が『無理やりでなくなってきたから』なのだが、最初休憩するならその間にあれが出来るこれが出来ると否定的だったフランヴェルジュが休憩を大事に思えるようになったのも進歩だ。


 休憩が『あの時』あったらどれだけ自分は楽だっただろう?


 『あの時』とは、フランヴェルジュがエスメラルダにせっせと手紙を送っていた頃の事である。真剣に睡眠時間が足りなくて辛かったのを覚えている。


 自分のまだ生まれざる息子が、思い人へのラブレターを書く時間を捻出しようとして過労死、そんな想像をしてみれば自分が完全に間違えていた事が理解出来る。寧ろ何故対策を講じるという事をせず、自分が頑張らねばと奮起したのか。完全に努力の方向が間違えていた。

 ただでさえ睡眠時間が足りなくて、『一日何にも考えずに眠りたい』と目を開けたまま夢を見つつ執務に励んでいたが、サポートというものが全くゼロだった期間は本当に辛かった。ブランシールの薬物を抜くためにぬばたまの牢に籠めた時は事実死が近かったのかもしれない。折角エスメラルダが手の届く範囲にいると感じて、しかし即座に切り離されて遠距離恋愛の形になったあの時は、少しばかり精神状態がおかしくなっていた事も、今なら分かる。


 弟のサポートは当然無しのあの状態の時、更に追い込んでくれたのはレーノックスだ。あの前宰相は働くよりフランヴェルジュを働かせるのが好きで、そのお陰で食事を摂る事も出来ない時もままあった。それでも会えないエスメラルダの気持ちを繋ぎとめたくて長文の手紙を綴る毎日だったが、今思えばよくまぁ本当に倒れたりせずにすんだなと、もっと言うなら主の御許に召されたりしなかったな、と心の中でフランヴェルジュは自分を褒める。


 ただし、二度と同じことをフランヴェルジュはする心算はない。ハルシャが人を育てることの大切さを教えてくれたのにそれを無駄にするのはフランヴェルジュという人間的に有り得ない。


 昔、道端の石ころに見えていた文官達が大型犬に進化した事がフランヴェルジュには本当に幸せな事だ。

 全力で振るしっぽがどうしても目に入る気がして、真面目な顔を作るのが大変だが、王の義務として臣下を大事にするのではなく、フランヴェルジュは今の彼らが好きだった。


 エスメラルダはまだ公務をそう抱えてはいない。フランヴェルジュは以前とは違う忙しさに塗れながらも、以前危惧していた夫婦になっても見られるのは寝顔のみなどという事は当然なく、なんと、毎日正餐を共にし、湯浴みを行い寝室で笑顔の妻と顔を合わせ、そして存分に愛し合う時間も持てているのだ。正直、嬉しくて堪らない。


 本当に、人生の春だった。

 だが、浮かれすぎて一番大切に思っているものがフランヴェルジュには見えていなかった。


 そして六月三十日。


 その日の出来事はフランヴェルジュにとっては青天の霹靂と言えるだろう。何せ幸せに浮かれて人生楽しくて仕方がない状態だったのだから。敢えて言うなら弟の不在がきつかったが、いずれ戻ってくる弟の為にも今頑張らねばと、そう思ってやるべき事をやればちゃんと手ごたえが返ってきていた日々は欠けることなく満たされた日々であり、浮かれていたのだから。


 フランヴェルジュの為に弁明しておくと、フランヴェルジュの人生は不幸ではなかったが、本人は解っていない物の優秀過ぎる癖に一部がすっかり抜けている頭脳と能力の為に『全き幸せ』というものを味わって生きてきた訳ではなかった。


 愛しい女を妻にして、仕事は何故かとてつもなく充実しだして、それで幸せに浮かれるなという方が無理な話であろう。


 ただ、エスメラルダが幸せかというのはある意味別問題なのだ。幾ら夫の幸せが嬉しくても、ある程度満たされていなければ、人間の感情は当たり前のように一つの言葉にたどり着いてしまう。



『惨め』と。




◆◆◆

 フランヴェルジュはその日も充実感に満たされすこぶるご機嫌だった。明日から七月かという事に気付いた彼は幸せな時ほど時間は早く過ぎるのだと呑気に思ったりしていたのだ。


 その日もフランヴェルジュは早々に仕事を終わらせる事が出来たのだが、これは蜜月以降余程の事がない限り当たり前になっていた。

 よく人は多忙を極めた身が急に暇になると呆然として現実を持て余すと言うが、まるで仕事をしていない訳では無い、ごく当たり前の余裕というものを持つようになっただけなので、フランヴェルジュは燃え尽きる事はなかった。


 とはいえ正餐ギリギリまでは王としての責務にちゃんと向き合っていた。ちゃんと予定を全て消化した上でフランヴェルジュは後宮の食堂に向かったのである。

 そして、正餐のテーブルにつき、魚介類がメインの食事に舌鼓を打ちつつ、フランヴェルジュはやっと異変に気が付いた。


 エスメラルダが何か……何処かおかしい。


 完璧なマナーで食事を摂る妻は微笑を浮かべてはいる、多分フランヴェルジュ以外の誰もエスメラルダがおかしい事になど気が付きはしないだろう。


 エスメラルダの綺麗な微笑みは余所行きだ。


 普段のエスメラルダならば、給仕達の手前微笑を浮かべていても、彼女の本質は隠そうとして隠せるものではない。そして、給仕達の視線が他を向いている時には愛らしいとしか言えない蕩けるようなフランヴェルジュの為だけの笑顔を浮かべたり、さもなくば可愛い企みなどを持っている時は笑みは挑戦的で艶麗なものと変わったりするのに。

 それなのにその日の正餐の席でエスメラルダはただ余所行きの微笑みを浮かべるだけだったのだ。


 余所行きの微笑みに無言。

 何かあったとしか思えない。

 何があったのだろうとフランヴェルジュは考えたが頭はまだお花畑だった。


 お花畑の脳味噌で気が付いたのはメニューだった。何にも気が付かないよりマシかもしれないが、気づかなければいけない事は別にあるのだが。


 フランヴェルジュは今日の正餐に出された貝料理の皿は、確かエスメラルダが苦手としていたものだとふと思い出して、苦手というそういう表情を表さないための微笑だったのだと、とても馬鹿な思い込みをしてしまったのだ。好き嫌いを言わず出されたものはしっかり食べるエスメラルダが嫌いなものを笑顔で咀嚼しなくて済むよう、後でこっそり料理長に耳打ちしなくてはとフランヴェルジュは考えた。王妃が好まないというより、自分が最近余り好まなくなってきた、すまないが……そんな風に料理長に告げようと思う。エスメラルダの評価は一欠片も落としたくない。


 とてつもなく、向ける気づかいが明後日の方向である事にフランヴェルジュは気付いていなかった。


 食事が終わり、別々に湯浴みをする。本当はフランヴェルジュとしては蜜月の最中のようにエスメラルダを横抱きにして湯殿へ向かい、彼女の身体を丁寧に洗ってやりたいとか下心丸出しの事を考えないでもないのだが、自分の身分を弁えてはいる。王というのはこういう時に非常に面倒だ、我慢するべき事が、多い。

 だが、きっとエスメラルダも今まで女の身体など洗ってやったことのない夫より、百戦錬磨の女官達に傅かれて湯浴みをする方が心地いいだろうと思って、下心を収めようと努力した。したが、余り効果はなかった。

 広い湯殿には浴槽が八つ。浴槽は、元々が馬鹿みたいに広い祖父の後宮に手を入れた結果、大きなものに自然となった。湯殿自体の広さも勿論だが、どの浴槽も二人で入っても余りある事を考えると、色々とふしだらな事を考えてしまうのは仕方がないではないか。


 二十二歳、初恋成就、でもまだ恋は終わっておらず、然しながら、恋だけでなく深い愛情もただ一人の妻に覚えている。


 此処まで条件が揃っていたらふしだらな事を考えてしまうのはまぁ仕方のない事だ。


 先に湯浴みを終え、ゆったりとした寝衣を纏って妻を待つ。たまには休ませてやらねばと思うのだが、つい求めてしまう。こんな風に可愛がったらどんな反応をするだろう? などと、自分が政務を終えるとそんな事ばかり考えている事にフランヴェルジュは笑った。自分は淡白だと信じていたが、どうもそうではなかったようだと最初に実感したのは本物の蜜月が始まったその日の夕方だった。


 多分、あの時に開き直ったのが悪いんだよなぁ。


 やがて、扉をノックする音が聞こえ、応えを待たずにエスメラルダが寝室に入ってくる。従っていた女官はエスメラルダの入室を見守ってから下がった。


 湯浴みを終えたエスメラルダはほんのりと上気した肌で、しかし、表情が何処か固い。

 ああ、そうだと、その固い表情を見てフランヴェルジュは思い出した。可愛がる前に、少し話をせねば。


 以前のフランヴェルジュならば、余裕の欠片もない毎日でそれでも何とか時間を捻りだしてエスメラルダと向き合っていたが、その分頭はお花畑ではなかったが故にこの時点で理解したかもしれないし、そうでなくとも、理解に今より近い場所にいただろうという事が何とも皮肉な話だ。


 今の馬鹿なフランヴェルジュはこの時点で貝類への苦手さを隠そうとエスメラルダが頑張っていたのだとかまだ思っている。本当に苦手なのだと話してくれた過去を覚えているからだと言っても、食事も終わって湯浴みも済ませまだ食事のメニュー故に固い顔をするような女ではないと、知っている筈なのにフランヴェルジュの頭からそれが抜けていた。意味は違うが、平和ボケという言葉が近いかもしれない。


 貝料理の件なら同じことが起きないようにするから心配しなくていい、料理人達の気持ちも考えた上で自分が彼らを傷つけぬ言葉を探すから。


 フランヴェルジュは間抜けにも真面目にそんな言葉をエスメラルダにかけようとしていた。

 

 常ならば、弱みを隠す癖のあるエスメラルダへの対応としてそれだけなら間違えではないのだが、フランヴェルジュの頭の中はやはりこの段階ではお花畑、しかも満開のそれであった。


 しかし、すぐさま花は枯れる事になる。


「フランヴェルジュ様」


 いつもの声とは違う。エスメラルダの発した声は苦手な貝料理が目の前にある訳でもないのに暗かった。はっきりした声で喋るのがエスメラルダだというのに、こうか細い声の時は大抵何かあるのだとフランヴェルジュはもう知悉している。


 やっとフランヴェルジュの目が覚めた。

 エスメラルダは苦手な貝料理で一月耐え忍べと言われても、こんな泣きそうな、切なく頼りない声で自分を呼ぶ女ではない。


 ベッドに腰を掛けていたフランヴェルジュは立ち尽くしたままのエスメラルダを見て、彼女も何か話があるのだと思い、立ち上がってソファに向かった。あんな風に自分の名を呼んで、言いたい事が何も無い訳がない。普段からベッドでも会話はするが、それは楽しい話がメインで、そしてどちらともなく愛し合う毎日だったからこそソファを選んだ。


 エスメラルダはほっとしたように自分もソファに向かう。

 その態度に何も知らないフランヴェルジュは少し不安になった。自分も話さなければと思ってソファに移動した事を考えれば勝手極まりない話だが、魚の小骨のように刺さる不安が確かに生まれたのだ。


 本当に今更だが、二週間と三日、抱き潰すように抱いてしまったフランヴェルジュは、エスメラルダがそういう欲に塗れた自分の事が嫌になったのかと、そう勘違いをしたのだ。貝料理など些細なものだ、夫の事が、もしくは夫との睦言が嫌になったか、どちらにしろ、考えたくもない。なのに生まれてしまった恐怖はぐるぐるとフランヴェルジュを苛む。

 フランヴェルジュだとて節度を守りたい気持ちはあるのだが、初恋の成就故かそれともエスメラルダという女がとんでもない魔性なのか、知れば知るほど深みにはまってもうどうしようもなく求めてしまうのが現状で。


 しかし、まだズレている。少し近付いたが、ズレているのは間違いなく。


 フランヴェルジュが腰かけるソファに、エスメラルダも腰かけた。

 隣に、体温を感じる位置にいるのに、何故か遠い。遠い気がする。


「一体今日のお前はどうしたんだ?」


 フランヴェルジュは出来るだけ優しい声音で問う。

 部屋の蜜蝋は一つも吹き消していない。まだ明るい部屋で、エスメラルダは余所行きの微笑みを封印し、右手に座るフランヴェルジュの胸元に頭を乗せた。


 ただ、余所行きの微笑みより更に悪かった。表情がない。


 フランヴェルジュの心臓がとんでもない速さで鳴り始めた。恐怖心で逃げ出したくなる程だ。それでも、彼女を手放したくないフランヴェルジュは逃げることは出来ないのだけれど。


 甘い香りがした。自分が贈った香油と、エスメラルダの体臭が混じったこの香りはいつもフランヴェルジュの理性を消し去るが、今だけは理性に仕事をしてもらわねばなるまい。


「フランヴェルジュ様……」


 自分を呼ぶ声が泣きそうなそれで、此処でフランヴェルジュは口を開こうとして、その口内が乾ききっている事に気が付いた。唾液すら湧かない。


 エスメラルダに何か言わなければと、そう思った。それなのに、乾いた口の中で舌が強張り、おまけに思考が停止して何も言えなくなってしまう。

 それだけ、強い恐怖がある。こんなエスメラルダは、知らない。


 がちがちに固まるフランヴェルジュにエスメラルダは消えそうな声を投げかけた。


「申し訳ありませんが、四日ほど夜伽が出来ません。五日後ならきっとお応えする事が出来ます。……お許し下さい」


 具体的な日数を挙げての睦言の拒否に、睦言の拒否は拒否でも自分を厭うての事ではないと、フランヴェルジュは心の底から安堵した。ああ、そうだ。いつでも行為が可能な男と違って女はそうはいかない。


「……それは、女なら仕方のない事だ。身体は大丈夫か?」


 必死で絞り出した言葉、それが今のフランヴェルジュの精一杯で、動かない頭で彼はエスメラルダを思い遣った心算であった。悪くもないのに許せと言う妻にそれは仕方のない事だからと言ったのはお前は悪くないという意味だったのだが。


 だが、その言葉は、壮大な地雷だった。


 エスメラルダはフランヴェルジュを見た。


 彼を映す瞳は、一瞬で濡れて、その水が零れ落ちる。身体を震わせながら、エスメラルダは泣き出したのだ。


 慌てて肩を掴むようにしてフランヴェルジュはエスメラルダを宥めようとする。月の穢れの際には感情が乱れるという知識があったが、今のエスメラルダはその状態なのだろうか? そう思うが、よく解らない。情けない事に本気で解らないのだ。今すぐ御典医を呼ぶべきだろうか、久方ぶりに見る涙にフランヴェルジュは慌てながら纏まらない思考のままに言葉を重ねるが……残念な事にほぼ全て地雷だった。


 いつの間にか声を上げて泣いていたエスメラルダが叫ぶように言葉を投げ始めたのだ。


「身体が大丈夫だから、辛いのよ! どうして、どうして月の穢れが……!? どうして、どうして、どうして!! どうしてよ! どうしてわたくしは孕んでいないの!?」


 口調から敬語が抜ける時は興奮しきっている時が殆どだ。結ばれて二週間と少し、敬語が抜ける貴重な機会は殆どがベッドの上で紡がれる甘い言葉だった。


 こんな風に追い詰められた言葉をフランヴェルジュは聞いた事がない。

 子供のようにしゃくりあげながら親友の名を呼んで泣いた時、あの時とはまた違う。


 エスメラルダは追い詰められている上に、怒りを抱いている。


 しかしその内容は……。


「何故泣く必要があるんだ!? 誰かに子供の催促でもされたのか!?」


 狼狽しきっていたフランヴェルジュは強引にエスメラルダの身体を引き寄せ、そのまま自分の膝の上に乗せた。

 エスメラルダは身を捩る。フランヴェルジュの腕に、大人しく収まってはくれない。


「違います! 誰にも催促なんてされてない! でも貴方は望んでいるのでしょう!? 睦言はおしべとめしべで、つまり、つまりわたくしは……貴方の願いに応えられない石女うまずめで……! わたくしは……!」


「待て! 落ち着いて話を聞いてくれ!」


 エスメラルダの口から飛び出してきたとんでもない言葉に、フランヴェルジュは思わず大きな声を出したが、エスメラルダはもう言葉にならない位泣きじゃくっている。


 エスメラルダはその手の知識が非常に少ないが、辛うじて睦言の果てに子供が授かる事を知識として持っている事をフランヴェルジュは知っている。蜜月の三日間は睦言を行う夫婦の元に、主が良い頃合いを見計らって子供を授けるのだという、間違えてはいないが正確さに欠ける知識だったのが、カスラの初心者用の講義で子供が出来る仕組みとして理解した事までは知り及ぶところではなかったが。


 だが、結ばれて二週間と少ししか経っていないのだ。孕む方が珍しいとエスメラルダに説明せねばならない。おしべとめしべには驚いた。間違いではないが、受粉と受精は同レベルの話ではないのだ。


 だが、もし、子供の催促などをして悪戯に自分の妻を泣かせた者がいるなら、命を奪う事はしないが決して許さない。子供の催促というデリカシーの欠片もない事柄ではなく、エスメラルダが今泣いているという事実故にその様な事を彼女に求めた者がいるなら許せないと思うのだ。


 しかしそれは違うと否定された。エスメラルダは嘘を吐かない。

 そしてエスメラルダの言葉を考えれば考える程悪いのは自分なのかとフランヴェルジュは冷水を頭からぶちまけられた気がした。


 泣かせているのは俺なのか!?

 思った瞬間胸を叩かれた。


「一刻も早く……子が、必要なのに!」


 まだ結婚して二週間と少しで、子宝に恵まれない場合は何年もかかるとか、そういう事を言おうと思っていた筈のフランヴェルジュであったが、それどころではなかった。


「子供が欲しいなどと俺はお前に言ったか!?」


 慌てる気持ちもあるが、ひどく混乱している。


 本当の本当にどうしてこうなった?


 確かにいつか子供は欲しい。だが、決して焦ってはいないのだ。

 するとエスメラルダは、フランヴェルジュの心臓を鋭利なナイフで抉るようなきつい言葉を叫んだ。


「だって貴方は、毎晩何度もわたくしを求めるじゃない! それで気付かぬ振りをしろと!? 早く王と王妃の間の子供を! そう思うから貴方はわたくしを抱くのでしょう!? それなのに身籠る事が出来なかったなんて……おしべとめしべなのに! わたくしは、貴方に妻にしてもらったのに、貴方に応えられなくて、情けなくて……どうして……ごめんなさい、ごめんなさい、貴方にわたくしは結果を差し上げられ……!」


 途中で言葉が途切れたのは、フランヴェルジュがエスメラルダの唇を奪ったからだ。

 エスメラルダが逃れようと身を捩るがフランヴェルジュはそれを許さなかった。


 左腕でエスメラルダの腰を捕まえ、右の手で彼女の後頭部を抑える。いつもなら触れ合うキスから啄むキスに変わりようやっと唇を割るのだが、今日はいきなり舌を忍ばせた。


 馬鹿げた懺悔など、もう一言もエスメラルダの口から聞きたくもない。これ以上悪い事もしていない何の罪もないエスメラルダにごめんなさいだなどと言わせたくない。


 キスにエスメラルダは応えようとしないがそれならそれで好きにさせてもらうとフランヴェルジュは思考を切り替えた。歯列を丁寧になぞり、いつもと違って差し出される事のない舌に自分の舌を摺り込むようにして口腔を犯す。


 まさか、愛しいから欲しくて堪らなくて求めてしまうその行為が、エスメラルダをこんな風に追い詰めてしまうなど想像もしていなかった。覚えたての猿より酷い事を強いた罰が当たったのか……。

 けれど、本当にそれだけか?


 頭の中で警鐘が鳴り響く。


 ただそれだけで、自分の愛する女はこんな風になるのか?


 今まで気付かなかった事が信じられないとフランヴェルジュは思うのだが、昨日今日で人間此処まで追い詰められるだろうか? 違う、多分自分は愛おしいと可愛がりながら彼女をちゃんとみていなかったのだ。


 どれ位そうしていただろうか。フランヴェルジュは何としてもキスで落ち着いてもらうしかなかった。興奮状態のエスメラルダに理詰めが通じるとは思えないが、快楽で蕩けさせる手は使えない。幾ら淡白ではないと自分を認める事になったフランヴェルジュでも、月の穢れの最中のエスメラルダを抱こうとは思わない。穢れと言われていても、エスメラルダの身体に起こる現象ならそれを穢れとは思わないが、月の穢れの最中の女の身体がひどくデリケートになる事は十四で学んだ。欲の為に自分の妻にそんな事が出来る筈がない。おまけに、快楽を呼ぶ行為をエスメラルダはただ子供を求められてのそれだと思っているのだ。仮に月の穢れの最中でなくとも、今は絶対手を出してはならない時だ。


 やっと抵抗が止んだのを感じて、フランヴェルジュはエスメラルダの唇と舌を解放した。

 艶めかしく銀の糸が引く。しかし二人ともそんなものは見てもいなかった。


 エスメラルダは泣き止んでいた。だが、泣いてなければこれにて一件落着と言えるほどフランヴェルジュは馬鹿ではない。ただ、エスメラルダはほんの少し、そう、欠片程の落ち着きを取り戻したに過ぎない。


 頭を押さえていた手を動かし、フランヴェルジュは両腕でエスメラルダを抱きしめた。


 エスメラルダは無理やり自分を泣き止ませた男をじっと見やる。


 フランヴェルジュに対してこんな気持ちが湧くことがあるなんてと心底不思議に思っていたが、そんなことがあるのだと今立証されている。悲しくて腹立たしくて暴れだしたい。でもフランヴェルジュは悪くないのだと、そう、エスメラルダは知っているのに八つ当たりしてしまう。止められない。


「わたくしは、子供を女が孕む為に何をするのかも最初は理解していなかった馬鹿だわ。でも今は知っている。貴方はブランシール様とルジュアインを守りたくて、だから一刻も早く子供が欲しいと、そう思ってわたくしを毎夜抱いていたのでしょう?」


「お前は……それは、最大級の侮辱だと解っているのか?」


 フランヴェルジュの声が低く、地を這うようなそれとしてエスメラルダの耳を打ち、エスメラルダは『男』を感じた。力に訴えたら女ではどう抗う事も無駄でしかない『男』。


 しかし、フランヴェルジュはすぐに自分を抑えた。腕の中で愛しい女が微かに震え、身を小さくする様子を見て感じて、それで冷静にならない男ではなかった。


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