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エスメラルダ  作者: 古都里
第三章 王と王妃は模索する
68/93

2 猫の皮を脱いだ女


◆◆◆

 エスメラルダが執務室に籠るきっかけが出来たのは本当の夫婦になり閨を共にして約二週間が過ぎた頃の事である。その時からフランヴェルジュの心に不安が生まれたのだが、その前に色々と書き記しておきたい。


 本物の『王の蜜月』が終わって、初めての朝の話から始めよう。


 その朝、フランヴェルジュと共に朝食を取りその日一日のスケジュールを聞いたエスメラルダは随分驚いた。フランヴェルジュには朝議の前に一杯の紅茶を味わう時間をくれと宰相が懇願しているという話からスケジュールの説明が始まった。


 フランヴェルジュは何となくその宰相の申し出を呑んだのだ。前宰相レーノックスが同じことを言っても完璧に無視して放置したに違いないが、フランヴェルジュは意図せぬ婚儀の日に宰相に任じた相手の事をこの時点ではあまり詳しく理解していなかった。人柄によっては適当な期間を置いて適当な理由で解任する事も考えなくてはならない。蜜月の三日間は政治の事など頭の中から綺麗さっぱり抜けていたが、蜜月が終わり一人の男であったフランヴェルジュは『王』に戻っていた。


 同じテーブルを愛しい女が共に囲っている状態でも、彼女に溺れ切っているわけにはいかない。


 フランヴェルジュの是の返事を受けた女性文官のメリッサはスケジュールをどんどん読み上げていく。フランヴェルジュのスケジュールは随分忙しくエスメラルダには感じられた。だけれども、エスメラルダ自身のスケジュールはとてもとても……余裕があるというか、言ってみれば暇としか言いようがない。何せ衣装に関しての話し合いと採寸が午後に一件告げられただけなのである。それで本当に良いのか? という疑問をエスメラルダは必死に飲み込んだのだ。王妃がそんな暇な筈がないと思うものの、エスメラルダはまだ王妃として何の経験もなく、その地位に無知な小娘である事を彼女は理解している。


 もし、もしも、政治に携わる文官達がエスメラルダを無能と判断して、それ故に告げられたスケジュールならば? そういう恐怖がエスメラルダに無い訳では無かったが、自分がまだ何の実績もあげていないのも事実で。おまけにエスメラルダは自分がどれだけの事をこなせるのか、自分の力量も把握していなかったのだから、何も言える訳がなく。


 ただ、仕事を与えられてその実績を見た上で無能か否かの判断は下されるとそう思っていたエスメラルダは、やはり心が重くはあった。


 わたくしの仕事を判断するのは恐らく文官……平民出身の、令嬢として育てられたわけではないわたくしですものね。お妃教育を受けているとしても、彼らも不安なのでしょうね。


 エスメラルダにとっての意図せぬ婚姻に、皆が祝福をくれ、女官長のユリエはその理由を教えてくれた。

 ただ、エスメラルダという人間に好意的でも、有能無能の判断を下すにあたり、好意だけで仕事を与える真似をしなかった文官達は優秀なのかもしれないと彼女も思わないでもない。


 ちなみに文官と一口で言われる彼らは大抵爵位持ちの家の次男三男であり、領地運営という仕事からは逃れられているものの立派な貴族だ。割合的には高位貴族の血筋のものが多い。稀に爵位持ちの人間も交じってはいるのだが、とても珍しい部類である。何せ、建前上は仕事があるから何かあってもすぐに領地に飛んでいくことが出来ないのだから。


 そして、朝の紅茶の時間を乞うハルシャが説明しようとしているシステムが起動してからは建前どころではなく本当にカリナグレイで為すべき事に文官達はぎっちりと縛られるようになったのだが、その時はまだフランヴェルジュもエスメラルダもその事を知らない。


 能力で取り立てられたのに女であるという理由で後宮の食堂にてスケジュールを述べる事のみが仕事だったメルローアで唯一の女性文官は全てを読み上げて息をついた。彼女の運命はハルシャが宰相に任じられて変わった。彼によりそれ以外の……女に任せられないと決め付けられていたやりがいある仕事もしっかりと与えられたのだ。子爵令嬢でもある文官メリッサは、女だから後宮での仕事のみに従事するしかないのかと諦めていたというのに。寧ろ文官と名乗れるだけ、奇跡だと思っていたのだ。そんな彼女が能力を本当の意味で認められ、この後は朝議にこそ出席しないものの任された仕事がある。あると言うか、出来た。その事実でメリッサは少し強く、そしてしなやかな女になっていた。彼女には何処かおどおどしていた以前の面影はない。堂々とスケジュールを述べただけでなく、メリッサは求められてもいないのに王と王妃に尋ねさえした。


「何かご質問は御座いますか?」

「ある」


 フランヴェルジュは当たり前のように言う。


 普段の彼なら文官であるメリッサが事前の許可を得ずの発言に気が付いただろうが、その時の彼は判断力が少し低下していた。

 身体の気怠さだけなら判断力が低下する事はなかっただろうが、その気怠さの原因がとてつもない幸せの後の余韻であったのが原因と言えた。だが、それでも完璧に馬鹿になった訳では無かった。


「余の仕事が随分と少なく、時間的にも余裕をもってのスケジュールになっているのは何故だ? そして王妃のスケジュールも疑問としか言えぬのだが」


「陛下の御仕事に余裕が生まれました事については朝のお茶の時間に宰相から説明させて頂きたく存じます。王妃様のスケジュールがあまり入っていないのは当然の事です。失礼ながらご婚姻の誓いと床入りを済ませた瞬間に王妃としての責務のあれやこれやがこなせる筈もございませんし、まだ戴冠式も済んでいない王妃様に臣民一同、無理をして頂きたくないという意思を持っております。それに……お昼からのドレスの採寸は今、王妃様の一番大事なお仕事です。戴冠式の衣装を改めて作り直す上で、王妃様の衣装係達は五月に行われる筈だったそれより劣る事も、同じレベルの作品である事も許されない、最高傑作をと意気込んでおります。蜜月の間に大量のデザイン画を描いたは良いものの満足するに至らぬ様子で……時間的な余裕があっても、あの殺気立った衣装係、とりわけ彼女らの頂点であるフォビアナ様の情熱を考えると大変な労力を伴う公務です」


 随分よく喋るとフランヴェルジュもエスメラルダも思った。だが、フランヴェルジュはこの時ハルシャが何をやらかしたのか知らぬので思考の淵に入ってしまい、エスメラルダは新しい衣装への周囲の思いに少し引き気味になりつつ、午後からの衣装の採寸だったり話し合いだったりなんだかんだを王妃の仕事として納得しようとした。そうして、なんだか気を抜けば漏れそうな溜息を堪えるのに必死になっていた。初日だからといってフォビアナとの戦闘だけが仕事なのかと思うと、やはり、色々考えてしまうのだ。


 この二人は幸いな事にメリッサや他の者達の本音には気付いていなかった。流石に口に出せない事であるし、それを言い立てる勇気あるものもいないが、三日間愛された王妃の体調を皆心配していたのだ。下世話すぎてどうしようもない話だが、色々と、本当に色々と、女官達からメリッサや一部の高官に情報は駄々洩れであった。初夜から続く三日間は恐らく何もなかった事も、本当の蜜月の間にどれほど王と王妃が愛し合ったかという事も。


 メリッサはどうして女官達がそれをきっぱりはっきり断言できるのかと女官長のユリエに尋ねた結果、一つだけ王の寵愛を表す事実を教えてもらう事が出来た。蜜月の間に何度も王が王妃を横抱きにして共に湯殿に消えたとあらばメリッサにも十分察する事が出来る話である。

 その話を聞いて真っ赤になったメリッサは、女官達の恐ろしさを知った。敵に回すのは怖い。多分他にもそれを裏付ける事実を握っているのだろう。寝室が防音でも、これでは何の安心材料にもならない。


 そして、恐らく一番情報を所有しているであろう女官長の頂点に立つユリエも苦々しく言っていたが、メリッサも、出来る事なら朝食をエスメラルダの分だけはベッドに運んでせめて昼まで身体を休ませて、どうかごゆっくりなさって下さいと懇願したかったのだ。


 鍛え上げた身体を持つ上に殺人的スケジュールをこなしながらも大抵は『いい笑顔』を浮かべていたフランヴェルジュとか弱い女であるエスメラルダの体力は違う。おまけに生娘であったようなのだ。審判の後も我慢したフランヴェルジュを褒める者は後宮にはいなかった。寧ろ処女相手に三日間盛るだけ盛った上に碌に休ませないというのはどういう事なのだというのが彼女らの総意だった。愛されることが案外疲れる事を女達は知っているし、そういう女を見た事のある男達にも想像の付くことだ。


 フランヴェルジュがエスメラルダに溺れているのは周知の事。


 なのに、それなのに何故この男は自分の愛する女の疲労を無視するのか、ドレスへの着替え、そしてコルセットでの締め上げをも許すとは本当に何事なのか。おまけに、王妃のスケジュールに疑問を持つこの男は何なのか。


 男なら今日は妻は休ませると断言した上でベッドの住人である事を許すべきだ、そうメリッサは思うのだ。この意見には恐らく少なくない人間が同意するとメリッサは自信を持って言える。女官達は言うまでもなく、だ。何せエスメラルダは、今、ある意味王よりも人々の思慕の先なのだから。


 しかし、賢明なメリッサはその事に関して余計な事は言わない。王という権威が怖いというよりそれは他人が触れていい話題ではないと思うからだ。ただ、食事が済んだ後、お茶を味わう時間を『どうぞ宰相と共に』とフランヴェルジュを追いやり、エスメラルダに体調をそれとなく聞く事は忘れなかった。


「大丈夫よ。何故かしら。ユリエも何度も身体は大丈夫かと聞くのだけれど」


 そう言いながらエスメラルダは微笑む。その笑みにメリッサはどきりとした。同性である彼女の笑顔に魅入られる事は、これからメリッサの日常になるのだろうが、心臓に悪い。


 そんなメリッサの思いにエスメラルダは気付く余裕がなかった。大丈夫という言葉は嘘になるだろうか。嘘は吐いてはいけないと父は物心つく頃からエスメラルダに言い聞かせていた。だからエスメラルダは嘘を吐く行為が怖い。ああ、でも、いや、普通に動けるから大丈夫、これは嘘ではない。ただ、身体中の倦怠感は酷く、幸せではあるけれど身体中に纏わりつくような疲労を感じるが、これは隠し通さねばならぬ事だとエスメラルダは思ってしまう。そして全身の筋肉痛も口に出さぬ方が良さそうだ。原因が何であるか分かっているからこそ、辛さは口に出したくはなくて、飲み込む。


 どうして、わたくしが疲れているというのが周りにばれているのかしら。顔には出さないようにしている心算だけれど、アユリカナ様にお化粧方法を習った方が良いのかもしれないわ。けれど今は。


「ねぇ、メリッサと言ったわね、フォビアナとの戦いは午後からでしょう? わたくし、少し一人になりたいわ」


 エスメラルダの言葉に、メリッサは勿論ですと言いながら、給仕に目をやった。給仕は慌ててエスメラルダ一人分のお茶の準備を始める。


 紅茶の良い香りが漂う。許しを得ていない範囲で近付けるギリギリまでメリッサはエスメラルダ近寄るとごく小さな声で言った。


「女官達がシーツを取り換えて換気をするだけのお時間をお許し下さいませ。まずは、お茶を」


 白磁の陶器に注がれる紅茶を見つめるエスメラルダの頬が真っ赤に染まった。


 結婚は幸せで愛される事も幸せと思うなら、未婚であった時代には想像も出来なかった問題も生まれるのだと気付いた。

 ただ、自分がそこに座すと決めた『王妃』という座は、絶対に逃げられないものなのだけれど。




◆◆◆

 王と王妃の寝室に戻ってきたエスメラルダは溜息を吐いた。


 空気は入れ替えられ、シーツも変えられている。さぞかし、事後の雰囲気を残していたことが女官達には晒されてしまっただろう。今ほど、自分の身の回りの事が自分でこなせない自分が情けなく思えた事はない。


 エスメラルダが受けた躾は仕える者を思うように動かし心を握るそれであり、自分で自分の事をどうにかするそれではなかった。父が亡くなり爵位が自動的に国に返還され、もし修道院なり孤児院なりに行くことになっていたならそういう躾を受けたであろうが、アシュレに攫われたエスメラルダは、未来のエリファスの女領主に相応しい訓育を授けられた。ただ、婚姻を結ぶからというだけではなく、アシュレとエスメラルダの間に横たわる年齢差という問題がその主な原因だ。


『やがて私がお前を置いて逝ってもお前がこの領地の主人であれるよう』


 アシュレは公爵夫人としての訓育ではなくアシュレという男の代わりを務められるようなそれを与えたのだ。


 ただ、アシュレは様々な事をエスメラルダに教え、身につけさせた癖に女として知らねばならぬ大切な事を教えてはくれなかった。お陰様で、事後の雰囲気が残っていた事自体は解るし、とても恥ずかしいのだが、だが。


 だがしかし、今もってエスメラルダは解らない事だらけなのだ。


 花が活けられ、微かにその芳香のする寝室で、エスメラルダは一瞬胸を押さえた。残念ながら見事に飾られた花に感動した訳ではない。緊張していてその香りにも気付かぬ彼女は花が活けられている事すら気付かないでいる。


 胸を押さえたのは不安故の事。


 この部屋には自分だけ、呼べば応えてくれる筈……その筈だ。

 だが、もし、自分が呼んでも応えてくれなかったら? 応えてくれてもまた『新しい忠誠に……』そうはぐらかされたら?

 それでもエスメラルダが尋ねる事に最も正確に、余計な感傷を挟まずに答えてくれるのはその女しか考えられなかった。


「カスラ……出ておいで」


 エスメラルダの胸が鳴る。意図しなかった婚姻の日から会っていない忠実な存在。でももしかしたら過去形で言わなくてはならないのか――そう思った瞬間。


「お呼びで御座いますか? エスメラルダ様」


 少し低い声が、たった数日なのに懐かしい声がエスメラルダの耳を打った。何処から現れたのかエスメラルダには解らない、いつも解った試しがない、そんな彼女がふわりと現れ、柔らかく笑んだ。


 カスラ、影の者達の長たる女性、アシュレがエスメラルダに遺したとエスメラルダが信じる存在。


 思わずエスメラルダはカスラに飛びつくように抱き着いていた。もし応えてくれなければという恐怖はエスメラルダが自覚しているそれの何百倍も強いものだった。本当に怖かった。けれど、応えてくれた。


 匂いのしない、けれどもみずみずしい肌の感覚。こんな風にカスラに抱き着いたのは初めてだった。婚姻したという事になった日、カスラはエスメラルダの頬にキスを贈ったが、それまで二人は触れた事すらなかった。


「お前に見捨てられたかと思っていたわ、カスラ。どれ程心が痛かったか」


 真実の蜜月の間こそ、カスラを思い出す余裕を夫になった男は与えてはくれなかったけれど、その前の三日間は何度もカスラを思った。顔に出さないように苦労した。どれだけ自分にとってカスラが大切か、思い知らされた。


「エスメラルダ様……」


 カスラが腕を伸ばす。そしてしなやかな『両腕』でエスメラルダを抱きしめる


「……このように主たる御身に触れる失礼をお許しください」


 カスラの声は微かに震ていた。けれど、何処か幸せそうな声に聞こえたのは気のせいだろうか。


「カスラはお姉様みたいね」


 カスラの晒で潰された胸に埋もれながらエスメラルダは言う。温かい。


 この女がずっとエスメラルダを守ってくれていた。


 カスラの腕に一瞬力が籠った。強く抱きしめ、その後力を緩めたかと思うと丁寧にさする。なだめるように背を撫でるカスラは、本当に愛おしいものを見つめる目でエスメラルダを見つめている。


 そして、遅まきながらやっと、エスメラルダはその事に気が付いた。


 両腕? カスラの右腕は……自分を思うが故にレイリエとハイダーシュという夫婦を殺めんとし、仕損じた上に喪われた筈だった。


「カスラ……この、腕」


 エスメラルダは手を伸ばし、右腕に触れる。二の腕から肘の先、そしてその手。

 こんなにも血と肉と骨で出来た義手など有り得ない。


 カスラを押すようにして、エスメラルダはカスラの抱擁から逃れた。


「カスラ……なの?」


 それとも何者かが、カスラの名を騙っているのだろうか。

 今日のカスラはよく見れば雰囲気自体が違う。カスラは常に目立たぬよう、そして人の関心を引かぬよう、そんな姿をしていた。髪の毛や瞳の色は、しょっちゅう変わっていたけれど。


 カスラは長い黒髪を高く結い上げ、所謂ポニーテールにしている。余りに艶めくその髪は、何処か青味がかって見える程だ。

 瞳は夜空のような光を抱く黒。

 胸元に晒しを巻き、腹を晒しながら、動きやすいズボンを履いてはいるが、晒された腹……右の腹に複雑で、でもどこか懐かしい彫り物があった。


 いつもと何よりも違うのはカスラが宝石を身に着けている事だ。装飾品を嫌っていたカスラがサファイアの簪に耳飾り、何重にも重ねたネックレスで身を飾る。


 喪われた筈の右腕も、今のカスラの姿も、何故すぐにその違和感に気付かなかったのか。自分はどれだけ人を見ていないのだろう。


 しかし、カスラは主の困惑を讃えたエメラルドの瞳を見つめ、そしてその目に映る己の姿を見つめなおして、困ったように笑った。


「覚えていらっしゃいませんでしたか。これはカスラめが、初めてエスメラルダ様の足元に額づいた姿で御座います。我が君、貴女様の十六の誕生日に貴女様に忠誠を誓った時と同じ姿を、今日は敢えて取らせて頂きました。もう一度、改めて忠誠を誓うために」


 言われてエスメラルダは思い出した。

 十六の誕生日、アシュレ・ルーン・ランカスターの悲報で緋蝶城が悲しみに浸りきっていたあの時にカスラは自分に額ずいたのだ。あの時は心が痛みと苦しみで一杯で、カスラの誓いの言葉すらろくに耳に入っていなかった。あの時、カスラはこんな風に装っていたのだろうか?


「我が君、この身を縛るものは今、何も御座いません。ただひたすらの愛と、その愛ゆえに得た力があるだけ。本来貴女様に額づき誓いを述べた瞬間起こる筈だった奇跡が起きなかった事に私は絶望致しましたが、貴女様が『女』になられる事がどうやら必要な条件だったように思われます」


 一瞬、エスメラルダの頬が染まった。


 けれど、カスラはそんな風に頬を染める主人が愛おしく、そしてだからこそこれからも常に傍に侍る為に、呪縛から解放されたそのままのカスラを受け入れて欲しいと祈ってしまう。


「我が君」


 そっとカスラは跪くとエスメラルダの右手を押し頂くように両の手に取り、口づけた。


「この世に奇跡という物が数多あまた存在する事はご存じの筈です。この腹の紋様はこの身が貴女様に全てを捧げる象徴。だから、カスラは御身の命尽きるまでは死ぬ事は最早御座いません。腕や足を幾らもがれようが一晩程度で回復します。貴女様に仕える為の、奇跡です」


 エスメラルダは眩暈がしそうだ。

 カスラは何かとんでもない事を言っている。なのに、頭痛の所為かそれが理解出来ない。

 カスラが如何に人間離れしていようが、それでも人間である筈だった。

 人間は、普通に考えて腕や足をもがれたら、そのままである筈。


「解らない、解らないわ、カスラ」


 本当にカスラなのか、そう思っていた筈なのに、エスメラルダは気付けば目の前の女を『カスラ』と呼んでいた。けれど、不思議な程にそう呼べば、カスラはカスラでしか有り得ないのだと理解した。


 雰囲気が変わろうが、こんな目で、ひたむきで焦がれたような目で自分を見つめる女をエスメラルダは他に知らない。仮に喪われた筈の腕を生やして見せつけてこようと、そんな有り得ない事をエスメラルダにつきつけてくるこの女がカスラでないと、何故かエスメラルダは思えない。


 愛しく、そして胸の苦しさまで運んでくる女。

 ひたむき過ぎる、人によっては重いと忌避するだろうとんでもない忠誠を歌う女。

 彼女は恐らくカスラでしかない。


「解らなくても構いません。貴女様がカスラをゴミか害虫かのように思われる日が来ても、この身の愛と忠誠は欠片も変わらない、不変のものなのですから」

「カスラ……でも」


 エスメラルダはそれでも言い募ろうとした。

 だけれども、言葉が浮かんでこないのだ。


 カスラだとしか思えなくとも、色々と言うべき言葉があるように思えるのに。

 何故怪異と言ってもいい現象ごと自分は受け入れようとしているのだろう。


 それでも、カスラはただ笑みを浮かべて混乱するエスメラルダをあやすように言い聞かせてくる。


「貴女様の為にこの身は存在するのですよ、エスメラルダ様、愛しい我が君。貴女様を完全に守れるように、腕を失えば腕が生えてきます。足を失えば足が。総て御身の為に。だからエスメラルダ様、『もうカスラを失う恐怖』は必要御座いません」

「お前を……失う事がない?」


 エスメラルダの、混乱しきった頭が理解出来たのはそれだけ。

 だが、それだけで十分だった。


「カスラ」


 エスメラルダは、崩れるように座り込むと跪いたままのカスラを再び抱きしめた。

 エスメラルダの為ならば何でもするカスラを失うかもしれない恐怖は常にあった。エスメラルダを愛する者はすぐに儚くなってしまうではないか。


 カスラは嘘をつかない。


 ならば、カスラの言葉が碌に理解出来なかったのは申し訳ない事だが、カスラはエスメラルダを置いていくことはないのだ。


「お前がわたくしを見捨てたかと思って、怖かったのよ。お前に見捨てられる事も、お前が死んでしまう事も、わたくしは怖くて仕方がないのよ」


「カスラがエスメラルダ様を見捨てる日など来る筈はございません。カスラの命ある限り、この忠誠は貴女様のもの。そして、カスラは決して御身を置いて逝く事はありません。カスラの、そして一族の忠誠は総てエスメラルダ様、貴女様のもの」


「死なないで。わたくしはお前が良いの」


 そう言いながら、気付けば抱きしめるというよりまるでしがみつくように、エスメラルダはカスラを捕らえていた。

 カスラを呼ばう声も、しがみついていた時の言葉も、失う事への怯えが見えたのにエスメラルダはもう安心している。

 相手がカスラでなかったのならば、安堵の真似事をしていたかもしれない。だけれどもカスラに演技は必要ないし、すぐに見抜かれる。


 もっと疑問を持って疑うべきかもしれない場面で、しかしエスメラルダはカスラを信じ、安堵していた。

 疑問や違和感が、目に見えない不思議な力でそっと心から拭われていた事に、エスメラルダは気付かない。


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