47 革命と花冠 後編
ファトナムール陥落から約三週間。
エスメラルダは手紙を穴が開くほど読み返した。
『お前の許に帰る』
ただそれだけを書いた手紙にエスメラルダは何度も口づけた。
わたくしの許に、帰っていらっしゃる。
涙が溢れ出た。
カスラをこっそりつけてあった。
万が一の事がないように。
それでもカスラの一族が、
「王はかすり傷一つおっておられません」
という言葉がどれほど嬉しかったか。
しかし、今、スゥ大陸中を覆うファトナムールの『革命』は凄まじいものがあるらしい。金鉱の秘密を知ってしまったが故に帰される事なく閉じ込められていた者達も、無事に救出されたという。
レイリエが何かを謀らなくとも、フランヴェルジュが軍隊をもって制圧しようとしなくとも、ファトナムールの瓦解はそう遠くない出来事であったのであろう。
今、エスメラルダはアユリカナと共に忙しく働いていた。今日も、彼女は為すべき事を為して動き回った。夜になって『真白塔』に与えられた自室に戻ってきてようやく手紙を見ることが出来たのである。
人々の前から姿を消すために『真白塔』にこもった王太后や仮の王妃であるエスメラルダまでが忙しく働いていたのは、食料や医薬品をファトナムールに送るためであった。
質実剛健といわれてきたファトナムール。
その実が単に贅沢を食む余裕がなかっただけだとはおかしなことにスゥ大陸の誰も知らなかった。民も矜持が高かったのだ。己らの貧しさを彼らは必死で隠し、泰然としていた。
しかし、早馬でフランヴェルジュから届けられた書簡───エスメラルダ個人にあてた手紙ではなく公式の書類と言ってもいいそれ───には赤子が生き延びる事は難しく、五つや六つの少女が買われて行く実情が書かれてあった。
ファトナムールはいまや占領国であり、フランヴェルジュは自治権を残さずその領土を併呑した。
自治が出来るような状態ではなかったのである。それほどまでに、ファトナムールは貧しかった。
そして、ファトナムールの民自身が、メルローアに飲み込まれることを望んだ。
下手な矜持を後生大事に掲げ、そして圧政で飢えた、疲れ切ったファトナムールの民は安寧を望んだ。敗戦国として奴隷の身分に成り下がろうとも、今より酷い目に遭うとは思えないと漏らした者もいる。
フランヴェルジュに謁見を申し込んだ男が言った。
『人間になりたい。罪人も奴隷も人間だが、今の自分達は人間と言えない』
草を食み、虫を食らい、豊かだった時代の皮の靴まで焙って食べても、赤子が育つ事なく死んでいくような生活。
フランヴェルジュには想像出来ないが、すぐさま思い直した。
想像出来ないで良い、為すべき事は自分の想像の及ぶ範囲での生活を、つまり人並みの生活を、彼らに与える事だ。
ファトナムールがメルローアの一部である以上、ファトナムールの民人はフランヴェルジュの民でもあった。
それ故に彼はもうファトナムールの民を飢えさせるつもりはなかったし、医療も充実させるつもりだった。実際従軍医師の大半をフランヴェルジュはファトナムールにおいてきた。
やがて経済を立て直し、食糧事情を改善して人心に余裕が出来てからフランヴェルジュはファトナムールに自治権を返すのだがそれはこの物語より五十年も先の、遠い未来の話である。
ハイダーシュの遺体はファトナムールの土に還したとの事だった。書簡に記された内容をアユリカナが教えてくれた。
「もうすぐ、きっともうすぐ」
何度も何度も読み返したその手紙。
封筒に、カリナグレイの隣の領地、ネヴァイアンの名前が書いてあった。
明日には、戻っていらっしゃるわ。
扉にもたれていた彼女はしかし、はっと身を離した。
足音が扉の前で止まったのだ。
こんこんと扉が叩かれる。
「はい?」
「わたくしです。入っても宜しくて?」
アユリカナの声に、エスメラルダは手紙を袂に突っ込むと慌てて扉を開けた。
「どうなさいましたか? アユリカナ様」
にっこりと、アユリカナは笑った。
それは久々の、作り笑顔でない本物の笑顔だった。
ああ、きっとアユリカナ様もフランヴェルジュ様のご無事のご帰還が迫っていて、嬉しくていらっしゃるのだわ。
エスメラルダは単純に解釈した。
アユリカナの笑みは、実は企みごとを隠す、そんな笑みだったのだけれども。
「明日は午後十二時までに、我がメルローアの兵は還ってくるそうよ。ええ、あの腕白坊やもね。今早馬が着ました。ええ、第一陣。一度に兵を全て切り上げるにはファトナムールの内情は混乱しきっているみたい」
こくんと頷くエスメラルダにアユリカナは言った。
「明日はルジュアインのことはわたくしが見ていますから、貴女は大門でフランヴェルジュをお待ちなさいな。それから、白のドレスで行くのですよ。色がついていなければレーシアーナも怒りはしないわ。戦勝の祝賀に、黒い烏みたいなドレスは見苦しくってよ。良くって? 黒は駄目ですからね」
◆◆◆
大門で、エスメラルダは今か今かとフランヴェルジュを待ちわびていた。
白いドレスが風を孕んでふわりと揺れる。
飾り気のないドレス。喪中である事をエスメラルダは忘れてはいなかった。
だからただの一つも装飾品を身に纏う事無く、護衛の騎士に周囲を固められ、ただ待つ少女は、しかし、飾らぬがゆえの美しさがあった。
転移が使えたのなら良かったのだが、マーデュリシィは軍を送り込むだけで魔力を使い果たしてしまったらしい。今、神殿の意思である大祭司たる彼女はこんこんと眠り続けている。
それに、勝利を知らしめるには馬に揺られ、ゆっくりとファトナムールやメルローアへ蹄の痕を刻むが正しい。
何処でも熱狂的に迎えられたというフランヴェルジュとメルローアの兵達。
わたくしのフランヴェルジュ様……!!
その時、エスメラルダの耳が遠くから聞こえる悲鳴のような歓声を、確かに捕らえた。
ああああああ!!
帰っていらっしゃる。
脚が萎えてその場に座り込みそうだった。
嬉しくて涙が止まらなかった。
そして、蹄の音が近づいてくる。
歓声がどんどん大きくなる。耳を聾さんばかりに。
何かが電流のようにエスメラルダの背中を走った。
馬の鼻頭が見えた。
そしてたなびく旗も。その後ろに続く……。
「きゃああっ!!」
エスメラルダは悲鳴を上げた。後ろに続く黄金の髪と瞳をした、彼女の愛しい男が、彼女を攫うように馬の背に抱き上げたからだ。
「陛下!!」
護衛の騎士が上げる声に、フランヴェルジュは指を振って見せた。
五月蝿い、と、言いたかったらしい。
「フランヴェルジュ様ぁ……」
しっかりと、エスメラルダはフランヴェルジュにしがみついた。
生まれてこの方馬になど乗った事がなかった。尻に当たる規則的な律動が、なにやらエスメラルダに恐怖をもたらした。しかも視界は恐ろしく高く、エスメラルダは下を見るのはやめようと決意し、フランヴェルジュの胸元に顔を寄せた。
石鹸の匂いがした。ネヴァイアンで湯浴みをしたのだろう。出立の時はフランヴェルジュは白銀の鎧を身に付けていたが、今は鎧は脱いでいる。白いリンネルのシャツが肌に心地良かった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
右手で手綱を御しながら、フランヴェルジュはエスメラルダを抱く左腕に力を込める。
十二時の鐘が鳴った。
馬が、カリナグレイの広場に向かっている事にエスメラルダは気付いた。
一寸したパレードかしら? 王城に真っ直ぐ戻られると思っていたのに。アユリカナ様がお待ちなのに。
今のエスメラルダにもし観察眼があったら、フランヴェルジュが困ったような照れたような誇らしいような、そんな何もかもをもごっちゃ混ぜにした表情を見ることが出来たであろう。後ろに続く兵たちが、あるいは顔を染め、あるいはにやにやしながら、しかし限りなく幸せそうな事にも気付いた事であろう。
だが、今のエスメラルダはただフランヴェルジュの胸元に顔を押し付け、その温もりを感じ、その鼓動を聞き、その匂いを味わうのに必死だった。
やがて、広場に着いたとき、その舞台が花で飾られている事にエスメラルダは気付いた。
しかもルジュアインを抱いたアユリカナがにっこりと手を振っている。
何が起きているのか、エスメラルダにはさっぱり解らないというのに、人々の歓声は最高潮に達した。
フランヴェルジュは馬から下りるとエスメラルダを下ろし、舞台に引っ張っていく。
一体、どういう事かしら?
何となく恥ずかしかった。
だが、兵士達はフランヴェルジュとエスメラルダが舞台に上がると惜しみのない拍手を送った。他の者達も釣られて手を叩く。
ごくり、と、フランヴェルジュは唾を飲み込んだ。
隣に立たされたエスメラルダは、ただただ混乱している。
そんなエスメラルダに、フランヴェルジュは何も説明しようとはしない。
兵士達と民衆が一緒になって二人を凝視する。
そして、フランヴェルジュは口を開いた。
「此度の事、余は……俺は如何に皆に支えられ玉座にあったかという事を思い知らされた。我がメルローアの民全てに礼を言う」
そういうなりフランヴェルジュはエスメラルダから手を離し、限りなく優雅に礼をとった。
一国の国王がその国民に頭を下げたのだ。
さっきまでの喧騒とは打って変わって、水を打ったようにその場はしん、となった。
「余は、議会の決議でもなければ他国の風評でもなく、皆の意見を聞き、皆の思いに応え、これからの政を行っていきたいと思う。その第一番が我が妻の事だ」
エスメラルダは瞠目した。こぼれ落ちそうなほどその大きな緑の瞳を見開いた。
「エスメラルダ・アイリーン・ローグとの婚姻を、他の誰でもない、この国の礎たる皆に願う。許して欲しい」
一瞬の沈黙の後、人々は手を叩いた。喉よ裂けよとばかりに歓声を送った。
「お幸せに!! 国王様! 王妃様!!」
「エスメラルダ王妃に百年の幸あれ!!」
「万歳!!」
兵士達が馬に積んであった荷の一つを大急ぎで解いた。その中から溢れてきたのは野の花だった。
天に花が舞う。エスメラルダの目の前を花弁が踊る。
「わ、わたくし……」
兵士の一人が恭しく花冠を差し出した。
フランヴェルジュはそれを取り上げ、エスメラルダにかぶせる。
「否やはきかん。王の言葉と婚姻の許可、民の前での誓い以上に重みのあるものがあろうか? ホトトルの水なんかくそくらえだ。さぁ、俺を一生愛すると誓え。俺も誓う」
フランヴェルジュの真剣な眼差しがエスメラルダの胸を射抜く。
エスメラルダの赤い唇が震えた。
「一生が終っても、来世でも、そのまた次の生でも……貴方だけを愛します、フランヴェルジュ・クウガ・メルローア」
「俺のエスメラルダ!! 時の果てまで俺にはお前だけだ!!」
フランヴェルジュはエスメラルダを抱き寄せると口づけた。
人々の声がこれ以上はないと言うほどまでに高まる。
木々に止まっていた小鳥が、不意に歌いだした。それは全くの偶然でありながら賛歌のようでもあった。
野の花が舞い、小鳥の囀り響き、民人の歓声に包まれる、その中で、二人はいつまでも口づけを交わしていた。
──幸せになってね──
遠く、懐かしい声が聞こえたような気が、エスメラルダには、した。
大丈夫よ、レーシアーナ。
エスメラルダは胸の中で囁く。幸せで早鐘打ち、破裂しそうな胸の中囁く。
いつまでも、いつまでも、一緒。




