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エスメラルダ  作者: 古都里
第1章 王はただ一人を追い求める
29/93

29 風が動く時

 国王の華燭の典を間近に控えた三月七日、八日前に生まれたブランシールとレーシアーナの子供の、命名の儀とお披露目が執り行われた。

 名付け親はフランヴェルジュ。それはブランシールのたっての願いであり、フランヴェルジュは快く引き受けたのである。


 赤ん坊の名前はルジュアイン。


 青い瞳が美しいその子供を抱き、フランヴェルジュは機嫌よくメルローア王家の子供を披露していた。その右隣には父親になったばかりのブランシールがいる。


 だが赤子はブランシールが抱くと盛大に泣き喚くのである。いや、赤ん坊はひどくえり好みをする性格のようだった。フランヴェルジュの左隣に居るアユリカナの腕もどうにもこうにも仕方ないなら受け入れるが、機嫌が悪いときはやはり全身で嫌だと表現する。


 フランヴェルジュとレーシアーナとエスメラルダ以外の腕を、ルジュアインはその凄まじい泣き声で徹底的に拒絶した。


 だが、レーシアーナは産褥の床にある。


『貴女の華燭の典までには治すわ』


 不安げなエスメラルダにレーシアーナが言った言葉。

 華燭の典などどうでもいい、早く熱が下がってくれたらそれでいい。

 エスメラルダは懸命に祈る。


 大切な人を喪うのではないかという不安が、ルジュアインの誕生以来、常にエスメラルダの心の中にあった。


 エスメラルダは表面は柔らかく微笑んでいた。まだ婚姻を済ませていない彼女ではあるが王家の末席が特別にあしらわれているのは、婚約発表後から変わらない。

 その席で無邪気に笑うフランヴェルジュや、子供を心配そうに見やるブランシールの顔を見ると、何となく苛々し、そしてすぐに思考はレーシアーナの事に飛び、じりじりとした焦燥感がエスメラルダの胸を焼いた。

 苛つきと焦りが、今のエスメラルダの瞳に湛えられた色である。


 各国は早馬で使節を送り込んでいた。

 彼らの事を見ても苛々するのでエスメラルダは何処に顔をやれば良いのか解らない。


 何よ、何よ。あんな明るい顔して笑って。レーシアーナはまだ起き上がれないのに。レーシアーナがどんなにか辛い思いをして、命を削るようにして子供を生んだかなんて知らないくせに!


 それなのに使節達はフランヴェルジュにメルローア王家の男児が生まれた事への祝いの言葉を奏上し、ブランシールによくぞ子供を無事にもうけられたと言祝ぐのだ。


 産んだのはレーシアーナなのに!!


 沢山の祝いの言葉に贈り物。


 ルジュアインは国王の実子ではないが国王が名付け親であり、将来、メルローアを担う重鎮となるであろう事は定められた事であった。もしかすればフランヴェルジュの後を継ぐ子供かもしれなかった。

 それ故、各国の使節達は堂々とした顔ぶれが並んでいた。


 式が終わり御披露目ももう充分済んだであろう事がルジュアイン自体によって知らされた。さっきまで機嫌よくフランヴェルジュの腕の中に納まっていたルジュアインが泣き出したのである。


 エスメラルダは思わず立ち上がって玉座に向かった。

 礼儀だの守るべきルールより、レーシアーナが命を懸けて産んだ子供の方がエスメラルダには大事で。


「恐れながら申し上げます。ルジュアイン様はお腹が空かれた様子」


 エスメラルダは澄んだ声を張り上げた。


 突然泣かれて混乱していたフランヴェルジュはそれもそうだと納得した。もう先の授乳から三時間以上経っているのである。


「そうか、もうそんな時間か。エスメラルダ、ルジュアインを頼む。母の胸が恋し……」


 その時、フランヴェルジュの声をさえぎったのは、扉が開く音と外の兵士が張り上げた声であった。


「ファトナムール王太子殿下、妃殿下、ご到着ー!!」」


 フランヴェルジュはとりあえずエスメラルダに赤子を託すと王者の顔を作った。


 何故今、先触れの使者もなくファトナムールの王太子が?

 最近レイリエが絡むようになってからファトナムールは守るべき最低限のマナーすら守らない国と化している。それにしても、『貴国にお伺いしても宜しいだろうか?』という書状を送り返答を待つという事すらせず、先触れの者を寄越しもしないこの国は何処までメルローアを馬鹿にし、下に見ているのだろう。


 苛立ちを、フランヴェルジュは一秒の半分で隠しきった。

 ファトナムールが戦を計画している事は、フランヴェルジュの諜報部員達がカスラの報告に遅れること三日、二日前に知らせをもたらしたばかりである。


 まだだ、ファトナムールがそういう態度で来るのならばこちらもそれなりの態度があるし、戦争が始まれば手を抜く心算もないが、まだだ。

 愚かで道化に見えてもいい、まだ相手の非礼を咎める時ではない。


 フランヴェルジュが切実に欲するのは時間である。

 エスメラルダとの華燭の典を挙げる時間。


 今戦争が起こって、それと同時にルジュアイン《・・・・・・》を担ぎ出すものが内乱を起こす、それがフランヴェルジュとブランシールの思う最悪のシナリオだった。

 戦が迫るならばなおの事、華燭の典を挙げておきたい、華燭の典で全ての芽が摘みとれるわけではないが、最悪の事態が起こる可能性を減らすことは出来る。


 フランヴェルジュが忙しく頭を動かしている頃、エスメラルダも必死で考えていた。


 エスメラルダには、ファトナムールの事で、アユリカナに相談する時間もフランヴェルジュに意見を言う暇もなかった。母になったばかりのレーシアーナが、片時もエスメラルダを放さなかったからである。

 エスメラルダもレーシアーナの側を離れるなどという事は出来なかった。


 出産。どれ程の苦しみの上にその母親が子供を授かるかという事を知った上で、孤独な戦いを終えたレーシアーナの許を離れるなど出来るわけがなかった。


 礼儀をすべて無視して入室したハイダーシュとその妻を見つめるエスメラルダの背中を、嫌な汗が滑り落ちる。


 しかし、外交も何もかも、泣いている赤ん坊には敵わない。命名の儀の御披露目の為の祝賀使節としてやって来たハイダーシュ夫妻であったが、主役の赤子を見たのは一瞬の事であった。

 エスメラルダは無礼を承知で、赤子を抱いたまま、その広間から退出したのである。


 二人が祝福の言葉をかける暇も無かった。エスメラルダはハイダーシュもレイリエも同じ位嫌いだった。 大事な大事なレーシアーナの赤子に、あの二人が吐く息を吸わせるのも嫌だった。

 フランヴェルジュの事を考えると自分の手は最善手ではなかった。

 それでも我慢ならなかったのだ。


 かつかつと踵の音を鳴らし、そしてそれよりはるかに賑やかな赤子の泣き声を響かせ、エスメラルダは歩く。レーシアーナの寝室に急ぐ。


 レーシアーナには一人部屋があてがわれていた。ブランシールとは別の寝室を。


 それは別に奇怪なことではなかった。


 アユリカナも子供が乳離れするまではレンドルと部屋を別にしていたのだ。


 身体が回復してからは同衾する事もあったであろう。でないとアユリカナの子供達の年の差の説明がつかない。だが、情事の後は別室に戻ったそうだ。


 レーシアーナはアユリカナと同じで乳母を雇うことに反対した。

 酷い産褥熱で苦しむレーシアーナに皆が乳母を雇うべきだと言い、事実、若くて乳の出が良く、家柄も正しければ気立ての良い何人かの貴族の夫人が候補としてあげられていたのである。

 だけれども、レーシアーナは断固として拒否した。赤子が泣く度に痛い程に乳房が張り白い乳がほとばしる。それが自然な事なのだ。女の身体は子供に乳を与えるように作られているのだ。


 アユリカナにはその気持ちが痛い程解る気がした。何故なら彼女も乳母を拒絶し、三人の子を自らの乳で育てたのだから。


 ただ、誰もがレーシアーナの体力を過信していた。産褥熱が引かないという事を想定していなかったのだ。だから、皆は最初、レーシアーナの好きなようにやらせてやろうと考えていたというのに熱が引かず周囲は慌てたが、しかし、母となったレーシアーナは強かった。


 結局皆はレーシアーナの望みどおりに動いたのである。


 こんこん、と、エスメラルダは扉を叩いた。そして返事を待たずに寝室を暴く。今のレーシアーナに扉の外まで聞こえる声で返事をする事など不可能であると解っていたからであった。


「……エスメラルダ……坊やを……」


 レーシアーナは必死で起き上がろうとする。


 エスメラルダは泣く子供をとりあえずベッドに横たわらせ、レーシアーナを抱き起こした。背中にクッションをあてがって起き上がれるようにする。

 半身を起こしたレーシアーナの身体は汗ばんでじっとりとしていた。


「イエルテは? リリアナは? サマンサは? 酷いわ。貴女がこんな状態なのに側に居ないなんて」


「癇に障るから……退出を命じたの。他人、ですもの。所詮。それより坊やを」


 エスメラルダは溜息をついた。

 そしてルジュアインをレーシアーナに抱かせてやる。


 レーシアーナは白い乳房を露わにしてルジュアインに乳首を含ませた。


「痛っ」

 

 レーシアーナは小さく声を上げる。


「どうしたの!?」


 狼狽の声を上げたエスメラルダにレーシアーナは弱々しく笑って見せた。


「噛まれたの。歯がないのに何て力かしらね。余程お腹が空いて腹が……立っていたのだと思うわ。ルジュアインは。廊下から泣き声が聞こえたもの。胸が張って痛かった」


「ご免なさい。連れて来るのが遅くなって」


 エスメラルダはすまない気持ちで一杯だった。レーシアーナから子供の事は頼むといわれていたのに。


「何か……あったの?」


「……レイリエがこの国に戻ってきたわ。夫と一緒に」


 レーシアーナの問いに一瞬考えてから本当の事を言った。下手に隠すのは良くないと考えたのだ。

 レーシアーナと出会って約一年。

 たった一年なのにレーシアーナはエスメラルダの一番の理解者になった。

 だから、時々困った事に、嘘が吐けない。


 フランヴェルジュになら強がれる。ごまかすことも出来る。

 だけれども、レーシアーナには出来ない。


「そう、レイリエが」


 答えながら、レーシアーナは乳房に顔を埋める我が子に視線を落とした。


「気を付けた方が……良いわね。もう大国の王太子妃になって使節の真似事などせずともいいでしょうに」


 そしてレーシアーナは予言する。まるで神の声を聞く巫女のように。


「……きっと風が動くわ。強い風がメルローアを駆け巡り神は嘆くでしょう」


 エスメラルダは胸の不安を言い当てられたような気がした。


 レーシアーナに、ファトナムールが戦を企んでいる事は告げていない。だけれども、その言葉は全てを知った人のもののよう。


「レーシアーナ、貴女……」


「皆、過保護すぎるわ。わたくしには何も聞かせようとしない。だけれども、昨夜、聞こえたの。陛下とブランシール様の声が隣の部屋から。ファトナムールは、戦を企んでいるのでしょう? どうしてだか知らないけれども。レイリエが唆したのかしら?」


「そんな事、貴女に聞こえるかもしれないのに隣の部屋で話し合っただなんて、陛下と殿下の迂闊さが信じられないわ。貴女は考えなくて良いの。身体を治すことが何よりも先よ」


 エスメラルダはそう言うと、最近何枚も持ち歩くようになったハンカチで、レーシアーナの額を拭った。

 だがレーシアーナは引かなかった。


「駄目よ、エスメラルダ。わたくしは、もう、侍女では……ないのだから。この国の未来は、ルジュアインの未来よ。考えなくちゃ……」


「考える事は男達に任せておけば良いのよ。確かにルジュアインの事があるから過敏になるのは解るけれども、ファトナムール如きがこの国を本当に蹂躙できると思う? 国力が違いすぎるわ」


「だったら……」


 レーシアーナは腹を膨らませて乳を吸いながら眠ってしまった我が子を自分の隣に横たえた。そして言う。


「何故こんなに嫌な予感がするのかしら? お願いよ、エスメラルダ……。貴女の知っている事全て教えて頂戴。わたくしには、……口惜しいけれどもわたくしには、殆ど知識がないのよ。侍女には……隣国の勢力なんて必要の無い知識ですもの」


 お妃教育も殆ど受けなかったレーシアーナ。


 その原因はメルローアにさえ広がるスゥ大陸の悪しき『常識』。


 『女に難しい事は理解出来ない』


 確かに教えられなくては知る由もない。

 だが、教えられなければ自ら知ろうとする強き女達もまた、存在する。

 エスメラルダもレーシアーナもそういう女であった。


 それは男の為であり子供の為でもある。

 女達は男と子供をを守る為に歴史の表面には出ないところで過酷な戦いに身を投ずるものなのだ。


「レーシアーナ、貴女、何から知りたい?」


 エスメラルダの言葉に、レーシアーナはその青い目に、理知の光と貪欲なまでの欲求を湛え親友を見詰める。


「何から何までよ。でも……そうね、本当に戦が起きようとしているのなら、何故、そんな時期にレイリエとハイダーシュがこの国を訪れたのか知りたいわ」


「それは……解らないわ」


 エスメラルダは正直に言った。

 レイリエはこの国に逃げ込む気なのだろうか? ロウバー三世が人質として己を使わんとしている事を察知して。


 だが、レイリエはこの国でも居場所が無い事を知っている筈だ。この国はレイリエを葬ろうとしたのだから。


「貴女にも……解らないの?」


「ご免なさい、レーシアーナ」

 

 エスメラルダは素直に謝った。


「貴女なら陛下やブランシール様よりよく事情に通じていると思ったのだけれども、それでは陛下達にもお解りではないのでしょうね。では、他の……何から聞けば良いのかしら?」


 ふぅっと、レーシアーナは溜息吐く。

 その額には玉の汗。


「横になりなさい。その体勢は疲れるでしょう? 無理はいけないわ」


 エスメラルダの言葉に、レーシアーナは何も言わず従う。頭の下には氷枕があった。


 エスメラルダに情報が無いのはずっとレーシアーナに付き添っていたからだ。

 カスラと連絡を取る時間がなかった。

 それに、まさかレイリエがこのタイミングで乗り込んでくるとは思いもしなかった。


 だが。


 わたくしはカスラから、あの二人が玩具を買ったという報告を受けていたのだわ……!


 エスメラルダは己の読みの甘さを呪った。


 赤ん坊とレーシアーナの事にかまけすぎていた。

 だけれども、放っておける事ではないもの。


 言い聞かせ、エスメラルダは頭を切り替える。今はレーシアーナの質問に答える時だ。


 そして二人っきりの授業が始まった。




◆◆◆

 マーデュリシィはせわしなく頭を働かせていた。レイリエを見て何故か不安になったのだ。背筋が総毛立つような不快感。


 御披露目も終ったというのに、その場から使節達も退場しようとはしない。その場に王たるフランヴェルジュが居るからだ。


 だがフランヴェルジュも好きでいるのではない。ファトナムールの王太子夫妻が入室してすぐに御開きには出来ない。それはまだ戦が確定していない隣国にとって余りに失礼に当たるであろう。向こうが失礼の限りを尽くすからと同じレベルに落ちるのはこの先の事を考えて宜しくない。

 そして届けられた玩具の造りの荒さに溜息を隠しながらもフランヴェルジュは笑いを絶やさず皆の相手をする。正直いつになったら御開きに出来るのであろうかという思いを抱えながら。


 マーデュリシィは唇を噛んだ。

 命名の儀の為に神殿から離れた途端、このような出来事に遭うとは思いもしなかった。


 レイリエは、マーデュリシィがこの世で最も憎む女であった。


 アシュレの妹。


 思い出すも呪わしい記憶が頭の中を逆流する。あの女はアシュレにとって悪鬼でしかなかった。それでもアシュレが放り出さなかったのは男の優柔不断というべきか、それとも。


 マーデュリシィは知っている。アシュレの死の原因を作ったのがレイリエである事を。

 知っていても口外できないのがどれ程辛かったのか覚えている。


 世俗から離れている事になっているマーデュリシィだが、その情報網は複雑で繊細な蜘蛛の巣のように張られていた。

 代々の大祭司が守ってきたメルローアの平和。勿論、マーデュリシィはファトナムールの陰謀を知っている。だが、マーデュリシィもエスメラルダと同様、ここ数日、己の情報網とコンタクトを取っていなかった。


 華燭の典の準備と、ファトナムールへの呪詛でマーデュリシィは手一杯だったのである。


 呪詛といっても簡単なものだ。

 昨夜完成したその呪は大きな『嵐』となってファトナムールの大地に消えない傷を刻み込んでいる事であろう。

 神に仕えるものであるマーデュリシィには人を殺す事は許されていない。だから『嵐』は土砂崩れを起こし、洪水となり道路を川に変えても誰も殺してはいない。それでも国民はパニックに陥るであろう。暫くは国を立て直す時間を必要とするはずだ。


 ただ、マーデュリシィには時間が欲しかったのだ。フランヴェルジュとエスメラルダの華燭の典が滞りなく済むように。

 その為には幾つでも呪を編むだろう。人の死なぬ、されど国家としてみたら大きなダメージと成りうる呪を。


 マーデュリシィにとってエスメラルダは可愛い娘だった。憎みたいと思っていた。だが、アシュレが愛した娘ということでマーデュリシィもエスメラルダを愛そうとした。そして知り合ったエスメラルダは愛するに相応しく。


 その時、ふと見やった国王の顔に疲れが浮かんでいるのを見て、マーデュリシィは自分が何とかすべきだと思った。大祭司として。


 だが、何が出来よう……?


 フランヴェルジュは欠伸をかみ殺した。

 昨日も遅くまでブランシールと策を練っていたのだ。今朝、命名の儀の為に現れたマーデュリシィに『嵐』の事を聞き、どれ程ほっとしたか知れない。結婚し、エスメラルダを王妃とするに少しでも時間が与えられた事を若き国王は神とマーデュリシィに深く感謝した。


 だが、その『嵐』の事を伝えて追い払ってしまうわけにも行かないこの二人。


 戦が始まっていない今、無礼ではあるが最高の貴賓である彼らを、フランヴェルジュは本来なら夜会でも開いてもてなさなくてはならない。だが、今は華燭の典の準備で皆が必死な時である。


 厄介な、と、フランヴェルジュは思った。


 私室へ呼んで杯でも傾けるか。その間にファトナムールの情勢が聞けるかもしれない。


「ファトナムール王太子殿下。お父上には健やかにてあらせられるか?」


 他愛もない話の中でフランヴェルジュは問う。ハイダーシュは瞳を眇めながら頷いた。


 ハイダーシュに敵対視されているのをフランヴェルジュは知っている。それはハイダーシュがレイリエを手に入れた時にレイリエが聞かせた言葉の所為だ。フランヴェルジュがレイリエの恋を認めず、その為に国を捨てる事になったというその言葉の為だ。


 そしてまた男として。いずれ国王となるものとして。

 メルローアという大国を治め、民草からも慕われる国王。自分より年下の若い国王とハイダーシュは、しょっちゅう比較されてきたのだ。ハイダーシュが幾ら懸命に物事にあったっても、いつもその前をフランヴェルジュは走っていた。ハイダーシュにとってフランヴェルジュは目の上のたんこぶとしか言いようが無かったのである。

 

「ご心配有難うございます。メルローア国王陛下。父は幸いな事に健康を保っております。まだ若いという事もあり、まだまだ国を支えてくれるかと」


 ハイダーシュは答えながらも忌々しくてならなかった。

 ロウバー三世が若い故にフランヴェルジュと対等の立場、即ち王となるにはまだまだ時が必要だ。最も、ハイダーシュは胸に暗い陰謀を隠してはいたが。


 レイリエ。

 全ては彼女の為に。


 そのレイリエはハイダーシュの隣で慎ましやかに顔を伏せていた。その彼女の薔薇色の頬を、柔らかな唇を、澄んだ水のような瞳を守るためならハイダーシュは何だとて出来る気がする。否、何だとてするのだ。


「それは良い事。ロウバー陛下は親戚筋にあたるのであるから私にとっても大切な方。まだ教えを請いたい事も多い。何よりです」


 ハイダーシュと、叔母であるレイリエが結ばれた事で確かにメルローアとファトナムールは縁戚関係にあるといって構わない。忌々しい事限りないが。


「親戚筋……? 国王陛下は我が妻との婚姻を……」


「母が祝福に参りましたでしょう。それがメルローアの総意です」


 フランヴェルジュは思ってもいない事をすらすらと並べたてる。いつ、この会談を終わりにするか、いつ、私室へと誘うかその事で正直頭が一杯だった。


 レイリエは伏せ目がちなその目でひたすらブランシールを見詰めていた。

 夫とフランヴェルジュがぴしぴしと張り詰めた空気を放っているが、彼女はそんなものは無視した。


 レイリエにとってフランヴェルジュは、がさつで乱暴で自信過剰な子供に過ぎなかった。そしてハイダーシュに対してもそれと同じ、否、それ以下の評価しか持っていなかった。


 フランヴェルジュを動かしている頭はブランシール。


 レイリエは、国王となった者の重圧とそれ故に遂げる事が可能であった成長についてはまるで考慮に入れなかった。そしてレイリエにとって完璧な男はアシュレ・ルーン・ランカスターしかいなかったのである。

 だからアシュレに似たブランシールに、レイリエは彼女にとっては全ての愚かな男達の中、少しだけ高い点数をつけていた。


 ブランシールは硬直している。

 レイリエの視線に気付いて。

 それがレイリエには楽しかった。


 何とかしてブランシールと二人に、二人になれさえすれば、なんとでもなる!


 結い上げた髪に刺した幾本もの簪の所為で頭が痛かった。その痛みが考える事を邪魔する。だけれどもレイリエはこの日に賭けていた。明日帰る事になっているのだ。次に来るのは忌々しい華燭の典の時か戦の後か。


 この辺りの事は幾らハイダーシュに聞いても確とした答えをくれなかった。何か企んでいるのか無能なだけか、レイリエには判断つかなかったが、戦を起こしてはならないのだ。絶対に。それだけは変わらぬことである。


 きっと私室へと誘われる筈。ブランシールも同席する筈。そこで気絶の真似事でもしよう。国王であるフランヴェルジュが介抱する事はありえない。客人たるハイダーシュが介抱する事も、夫であるという事実を差し引いても可能性は少ない。きっとブランシールが介抱する。召使に託される一瞬だけかもしれないけれども、わたくしとブランシールが二人きりになれる可能性はそこにしかないわ!!


 そこに、レイリエにとっては思いがけない報せがもたらされる。


 だん! だん!!


 殴るように扉を叩く音。


「国王陛下!! 緊急の事態につき入室をお許し下さい!!」


 突如入室を求めたのは、息を切らした兵士の声だった。

 その声の尋常でない様子から、フランヴェルジュは片手を上げ顔の前に持っていくとハイダーシュを見つめた。

 それは無礼を許し給えという仕草。


 大国メルローアの兵士が、礼儀も作法も何もかもを投げ捨てて扉を叩く様が、ハイダーシュには面白くてたまらなかった。そして自分に許しをこうフランヴェルジュの姿にかすかな満足感を得て、赤紫の瞳を細め、唇の両端が持ち上がりそうになるのを懸命に堪えながらハイダーシュは頷いた。


 それはほんの数秒のやり取りであった。


 フランヴェルジュが声を張り上げる。


「何事ぞ? 許す。扉を開けい!」


 フランヴェルジュの言葉に扉は開かれ、現れたは荒い息を吐く二人のメルローア兵と、彼らに担架で運ばれてきた灰色の制服の男であった。


 それを見たハイダーシュは息を呑んだ。

 メルローアの兵士の制服は濃紺である。灰色の制服の兵を使うのはスゥ大陸では───。


 ファトナムールだけであった。


 何があった!? 一体何が!?


「……ハイダーシュ様に、申し上げたき儀、あり。……『嵐』が、起こりまして……ござい……」


 ごふっと言う音がその場に響いた。

 いやに大きな音だった。


 そして灰色の制服のファトナムール兵はその場で果てる。口周りを大量の鮮血で濡らし。


「失礼!」


 ハイダーシュは担架に走りよった。

 群れを成して固唾を呑んでいた使節達もハイダーシュの為に道を開ける。


 ハイダーシュは担架を担いでいたメルローア兵に担架を下ろすように言い、そして大理石の床の上にそれが下ろされると、兵士のブーツの中に忍ばせてあった短剣を足とブーツの間から引き抜いた。


 短剣の柄頭を押えながら左にねじると、柄がするりと抜ける。

 中には一枚の書状があった。


『嵐が国を蹂躙す』


 ただ一言、殴り書かれた書状にはロウバー三世の印章指輪の痕があった。


「ハイダーシュ殿下?」


 フランヴェルジュの声に、書状を穴が開きそうなほど見詰めていたハイダーシュははっと顔を上げた。


 何という失態!

 他国の、それもこれから戦争をしかけようという国の王の前で密書を読むとは!!


「何事です?」


 フランヴェルジュは解っていて聞く。


 昨日の夜、十九時から二十時にかけて『嵐』を起こしたとマーデュリシィは言っていた。

 それを思うと、フランヴェルジュは命を賭してやってきた兵に尊敬の念を抱く。

 何頭の馬を乗り潰してきたであろう? 飲まず食わず、馬で走り続けたに違いない。

 尤も途中までは空間転移を使ったのであろう。でなければ今日辿り着く事は不可能だったはずだ。だがあれは術者も術をかけられた者にも身体に負担が大きすぎる。

 それにしても素晴らしい速度だ。さっき十六時の鐘が鳴ったところだというのに。『嵐』の去った後は道などは酷い有様であったであろう。メルローアに入ったなら、道路が整備されているので、国境の何処から入国したとしてもその道は彩季の道へ、王城へ続いているのだが。


 ハイダーシュは唇を噛んだ。

 この男には、この男にだけは取り乱したところを見せてはならないのに!


「……めでたき席に失礼を……あい済みませぬ。お許しを。国に、戻ります。理由は申せませんが、この者の死を見てお察し下さい。……レイリエ、こちらに」


 兵士の壮絶な死に様に、皆が顔色をなくしている時、それでも必死にハイダーシュは言葉を探した。


 頭の中が大混乱である。

 ハイダーシュには『嵐』が何か解らないのだ。自然現象の嵐なのか政争や異変を刺しての嵐なのか。


 そしてレイリエの顔から血の気が引く。

 帰れば、唯一の、チャンスが、と。


 その時、マーデュリシィが叫んだ。


「妃殿下は神殿が預かりましょう。女の足は急ぐ時には重荷にしかなりませぬ。お急ぎを」


 レイリエ。

 彼女を人質として使われるわけにはいかない。少なくとも華燭の典が終わり、国情が落ち着くまで。

 戦争の準備が済むまで。


 それまでは手許で見張っていなくてはならないとマーデュリシィは思ったのだ。


 それが悲劇への鍵だと知らず、マーデュリシィは叫んだのだった。

 マーデュリシィは最悪の悲劇を呼んでしまったのである。


 ハイダーシュは妻の顔とマーデュリシィの顔を交互に見詰めた。そして最後にフランヴェルジュの顔を。

 フランヴェルジュの表情は読み取れなかった。それが口惜しいと思う。


「レイリエ……」


 ハイダーシュが呼んだ瞬間、レイリエは涙をこぼした。悲しみの表情を『作る』。


 レイリエにとっては最後の機会だった。

 そして、もしかすれば最良の機会だった。


「ハイダーシュ様、わたくしの事は構わず、ご帰国を。何があったか存じませぬが、皆がきっと貴方様を待っておりまする。命賭した兵の霊に答える為にも、どうかお急ぎ下さい。わたくしは、王太子である貴方様の足を引っ張る愚かな女にはなりたくありませぬ」


 ハイダーシュはしぶしぶ頷いた。

 レイリエを連れてとなれば、馬を飛ばす倍はかかる。その間にもしもの事があれば?

 ハイダーシュは頷くしか出来なかったのだ。


 一時間後、ハイダーシュは馬上の人となり、レイリエは神殿の中に部屋を与えられた 。

 メルローア歴七百四十七年、風は動き出す。


申し訳ありません、上手く切れずに何時もより長文になってしまいました

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