三、忍びがてら
時を待たずして、世は裏の半分へ入った。
もはや向かいの人は誰そ彼かもわからない。
知り合いかもしれないし、魑魅魍魎かもしれない。
ぽっかり虚ろな闇夜へ向けて、歪に傾いだ二本の巨大な煙突が、もかもか煙を吐きだしていく。
簡素で直線的な建物の輪郭は、仄明かりの届かない先にまでずいぶん達していて、よほど大きな建物のようだ。
入り口に掲げられたぼんやり薄桃色の提灯には、人間どもの影がすうっと伸びて映っている。
映っては移ろいゆく。
その往来のさなか、どう見ても瓜二つの小さな双子が並んで出迎えをしている。
「おかえりなさい、あ・な・た」
「おしょくじにする? おふろにする? それとも、あ・た・ち?」
「って、めいちゃんこれ、ふつうに『めし』なんていわれたら、あたちどうかえせばいいのかちら!?」
「だいじょうぶよまいちゃん、くうきのよめないにんじゃはめしぬきのうえ、ぬけにんにしちゃうの!」
「ついでにほねぬきにしちゃうのねっ」
「まあまいちゃん、ぬけめないのねっ」
保護欲を掻きたてる小さな体躯、愛嬌ある垂れ目、愛くるしいおちょぼ口、愛らしく曲がった腰。
まるで小躍りするように元気よく来客を出迎えるこの双子は、当巨大施設、忍者食堂兼忍者銭湯『忍びがてら』を切り盛りする、看板幼婆だ。
早とちりする忍者がよくいるみたいなので断っておくが、婆さん言葉を話す幼女ではなく、幼女言葉を話す婆さんである。
この腰の曲がった二人の愛らしい年寄りこそが、忍者食堂兼忍者銭湯『忍びがてら』を切り盛りする、看板幼婆なのだ。
影分身の術だとの噂もまことしやかに囁かれているが、本人たちは否定している。
あくまで双子の、看板幼婆である。
「はっ、……くしょえ! あ、あらやだ、いればが」
屈みこんだ拍子ににゅるり、とおちょぼ口から入れ歯がはずれぬちゃあっ、と糸を引きながらもとり……と地面に滴り落ちた。
「いやん、まいちゃん、いればぽろりなんてだいたんすぎるごほうしなの!」
「もえひゃうきゃひら、あはあん?」
「いやん、まいちゃんったら、なんてかわいらしいしたったらずなのかしら!」
「きょえれむぃんまっうぇろうぇろのむぉえむぇにぇ」
そこへ、一人の忍者がひょっこり声をかけた。
「ただいま、芽衣ちゃん、麻衣ちゃん」
二人は振り向くと、その愛らしい笑みを惜しまず満開にして出迎えた。
「あらまあ、とんびちゃん、おかえりなさいなの!」
「おひゃえひあひゃい、あはあん? おひょうひいふう? おふぉいふう? ほえとお、あ・ひ・ひ?」
「飯で」
瞬間、真冬の深夜の地下牢よりも厳しい凍てつく冷気が鳶の首筋を貫いた。
本能が恐怖を察知して、鳶は反射的に謝った。
「すみませんでした」
二人はまるで今日一日楽しみにしていたお菓子に黴が生えていたのを見つめるような目で、じっと鳶を見つめながら、
「おまえ、……おまえ、抜くぞ?」
「本当にすみませんでした」
だが鳶は、すぐ我に返って、
「いやあの……それよりも、ちょっとした緊急事態なんだよ、芽衣ちゃん、麻衣ちゃん。こいつを見てくれ。こいつをどう思う?」
鳶は顎をしゃくってみせた。
芽衣は鳶の傍らで、真っ白に朽ちた流木のようになっている男に気がついて、目を丸くした。
「あらまあ! これまたみごとに、せいきのぬけたかおをしているの! せいきが、かんっぜんにぬけきっているの! さてはもえすぎて、いっしゅんにしてこうなったのね!?」
「そういうことらしい」
和土佐はふるふる首を振った。
しかしひょっとすると、何かのはずみで震えただけなのかもしれない。それはわからないが、とにかくその唇は入れ歯をなくした老人のようにしわしわで、そのうえ十二度くらい傾いていた。
なぜか十二度くらい傾いて安定していた。
「とりあえず、この廃人が一発で復活するような料理を一品、注文したいんだが」
「そうね、そうね、わかったわ。はやくせいのつくものたべさせてげんきにするの!」
「あひぃひはひぃもえあひゃっはやふぁじぇんっいんのろわれろ」
忍びがてらは忍者でごった返していた。
とくに食堂のほうは夕食時ということもあって定員数を超えており、少しでも平らな場所があればそこへ補助椅子を持ちだして即席の食卓にするという有様で、異様な熱気と人いきれとが渦を巻き、会話は大輪を咲かせているようだった。
新人忍者は皆、この一週間ばかりでできた友と、明日からようやく本格的に始まる新学期に思いを馳せたり、短かったけれどもいろんなことがあったこれまでを振り返ったりしていた。
その隅っこに、教師と並んで座る生徒の姿があった。
生徒の前には精力団子『倉田丸』が山と盛られている。
そして、それ以外に皿は一つも見あたらなかった。
生徒は団子をひとつつまんで、また元の場所へ戻した。
そして隣の教師の料理を見た。
「和土佐……はむっ……おまえ、……はふ、はふっ、素人の忍者じゃあないだろ」
本日の忍びがてら定食は、絶品岩魚の粗塩焼き、とうがんの味噌煮込み、隠元豆の天麩羅、葱田楽と、たっぷり湯気の立つ白米、それにとろろ芋の味噌汁であった。
「でなければ、一時的とはいえ、俺が撒かれるなんて絶対にあり得ん。何よりその証拠が遠藤丸だ。あれは数ある薬丸のなかでもかなりきわものの部類だぞ。俺たちでも手に入れようと思ったら相当骨が折れるのに、素人が手に入れられるはずがない」
「いやうちの村、遠藤丸の原産地なんで……」
和土佐はうっぷ、と喉を詰まらせた。遠藤丸の味を思いだしたのかもしれなかった。
「遠藤さんは実家の斜向かいに住んでた、変なおじさんです。近所の人たちからは『あこうろうし』という仇名をつけられ恐れられていました。……もう故人ですけど」
「……なんだって?」
「もちろん、その遠藤丸が俺の切り札でした……。ただ二年前のやつだったんで、腐ってないかどうかが気がかりだったんですが……まあ、腐ってようが腐ってまいが、どのみち腹下すんで、あんまり関係ないんですけどね……」
鳶はずず、と味噌汁を啜り、
「……まあ、じゃあ余計になんだっていま、辞めるなんて言いだしたんだ。やっぱり試験で零点取ったからなのか? ていうか、なんでおまえ試験零点だったんだ?」
「正確に言えば、試験は受けてないです」
「どういうことだ、さぼったのか?」
「さぼったというか、あれは事件でした……」
和土佐は倉田丸をひとつつまみ、ちょっと眺めてからやっぱり元の場所へ戻した。
「俺、朝は起床の合図がないと起きられない性質なんですが……。試験の日、目を覚ましたときにはすでに手遅れで、耳に、いなり寿司ができてました」
「なんだって?」
「つまり……誰の仕業かわかりませんが、寝てるあいだに酢飯を耳の穴に詰めこまれ、その上からお揚げで蓋がされていました。おかげで起床の合図が聞こえず、ぐっすり半日寝坊しました。……ああ、いなり寿司はあとで美味しくいただきました」
「いや知らんけども」
「でも、そのことと忍者辞めることは、別に関係ないです。試験で零点だったことは、別にどうでもいいんです……」
鳶は湯飲みに手を伸ばして言葉の続きを待ったが、和土佐はそれきり黙ってしまった。
鳶は掌の上に顎を載せて、溜め息をついた。
「まあ、いまの時代、忍者辞めて転職するってのも、ある意味正しい選択かもしれん。もちろん、現職の忍者である俺は悲しいけどな」
和土佐はもの言わぬ目を鳶のほうへ動かした。
長く伸びた前髪に隠れてはっきりと窺い知ることはできないが、その奥になんら光の宿らない目である。
「戦国の世は終わったんだ。平和な時代だよ。
現にいまじゃ忍者の仕事は浮気の調査やら敵の内情調査ばかり、せいぜい要人の警備役がいいとこで、忍者の本領である隠密行動や草、御庭番なんてのはほぼ壊滅的だ。
これはつまり、忍者の知恵や技術が、本質的には世の中に必要でなくなってしまった証拠だよな。
忍者の時代なんてものは、とっくの昔に終わったのかもしれないな」
「……そんな寂しいこと言わないでください……」
ようやくぽつりと言葉をこぼした和土佐に、鳶はにやり、と笑った。
「なんだよ和土佐、忍者という職能を見限ったから、辞めるわけじゃないのか?」
和土佐は最小限の動作で首を横に振った。
しばらくして、またぽつりとその口が開いた。
「……小向先生は、結婚という制度について、どうお考えですか」
ずいぶん意外なところから飛んできた単語に、鳶は意表を突かれて固まった。
「はあ、……はあ結婚? そりゃまたなんだ、藪から棒に」
「……つまり、俺が忍者を辞める理由っていうのは……、実は、最も会ってはいけない人物がここにいたからです」
ひとしきり、訝しい表情を固めていた鳶だったが、突如、ぶふっと吹きだした。
「なんだなんだ、じゃあ早い話が、過去にちょっとやばいことになっちまった女から逃げてるってことかよ。そういう話かよ」
ようやく得心がいったようで、その声にいつもの調子が戻っていた。
「そうか女かあ」
腕を組んで目を瞑り、ふーっと鼻から息を吐きだして、鳶は深くうなずいた。
「たしかに、女なら仕方ないな」
そして、意外にも同意を得られた和土佐は拍子抜けして、来たる反論に身構えていた心の姿勢を持て余してしまった。
「とくにくノ一は魔性だ。あれには手を出さんほうがいい。下手に手を出すと火傷どころでは済まないからな」
和土佐は思い巡らせ、うなずいた。
「たしかにそのとおりです」
「八条桔音か?」
和土佐は思わず鳶の顔を凝視した。
「知ってたんですか?」
「いや当てずっぽうだ。ふふん、だが正解か? 八条桔音もおまえと同じで、ついこのあいだ忍者になりましたって柄じゃあなかったからな。なのになぜかは知らんがそいつもおまえと同じ、零点だった」
「え?」
今度は和土佐が固まる番だった。
桔音が零点?
初耳だ。
試験とは、そんなに難しい内容だったのだろうか?
いや待て、ありえないだろう。
忍者としての素質を量る試験であの桔音が零点なら、ほかの忍者だって軒並み零点になるずだ。
とすると、どういうことだ?
桔音まで寝込みを襲われた?
いや、そっちのほうがよっぽどありえないような……。
「まあ零点なんか取っちまったら間違いなく俺が担任になるからな、二人のことはようく憶えてたんだ。
まさか要注意の生徒二人が男女の仲だったなんてのは思いもよらなかったけどな。うん、
まあでも、年頃の男女の仲なんてえてしてうまくはいかねえもんだよ。うん、
そっか、まあ別にその相手がここにいたからったって、鬼灯忍郷は広いんだし、うっかり鉢合ったりしないよう用心すればそんなに心配する、ことは……ない。……うん、あれ?」
あからさまな違和感が自らの言葉のなかにあった。
おかしいな。うん、明らかにおかしい。
鳶は俯き掌底で眉間を押さえ、頭痛でも我慢するようにぎゅっと目を閉じた。
ええと、情報を整理しよう。
和土佐は桔音から逃げている。
和土佐と桔音を会わせてはいけない。
しかしだ、二人とも俺の生徒になる。
……ということは、ああ、
残念ながら明日から否が応でも顔を合わせることになるのだ。
なぜなら、
……なぜなら……、
『なぜか二人とも零点だったから』。
そして顔をあげ呟いた。
「なんてこった……」
「? なんですか」
「ん? ああ、いや、なんでもないよ」
首を振り、慈愛に満ちた眼差しで和土佐の肩に手を置いた。
まったく、どいつもこいつも忍者試験をなんだと思っていやがる。
うっかり鉢合ったりしなければ大丈夫?
そんな次元とっくに通り越しているではないか。
すでに勝負が始まっていたどころかもはや、自陣に斬りこまれているではないか。
「……とにかくだ、正式に退学したいのなら、こんなもん俺に出したってしょうがない」
鳶は懐に手を入れると、封筒を取りだしてぺっと和土佐に突き返した。
封筒の表面には『退学願』という見憶えのある筆文字が躍っている。
「ちゃんと正式に辞めたければ、頭領にこれを渡せよ」
和土佐は眉を顰めた。
「頭領だよ。鬼灯忍者の頭領。おまえは鬼灯忍者に所属した。鬼灯忍者への所属を辞退したいのなら、その旨を総大将に云うのが道理だろう」
ただし、と鳶はひとつ咳払いをしてから、つけ加えた。
「頭領なんて、俺だって実際かぞえるくらいしか会ったことないけどな。ひとつはっきりしていることは、実は学校のどこかにいるってことだけだ」
それからふう、と溜め息ついて、
「武運を祈る、和土佐。次の一手は……王手だろうからよ」