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二、「忍者、辞めます」

「そういうわけなんで、俺、忍者辞めます」


 突然、そう切りだされた忍者学校教師の小向鳶こむかいとんびは、

 しばらくのあいだ目の前の忍者を見つめ、

 眉間を押さえ、

 別に言葉が聞き取れなかったわけでも、

 意味を理解できなかったわけでもないのだけども、

 結局聞き返すことにした。


「なんだって?」

「話すと長くなるので、詳しい事情は説明できません。一刻も早く忍者辞めないとやばいんで。……失礼します」

「待てよ」


 鳶は忍者の肩をわっしと掴んで制止した。

 放課後の校庭にはまだかなりの忍者が残っていて、砂に埋まったり、鉄棒にぶらさがったり、崖にへばりついたり、数人で組体操のようなことをやっていたりと、各々自主練に取り組んでいた。


「……なんでだ。学校の先生の独特のにおいが嫌になったからか」


 よく見ると、校庭の隅っこには気配を消そうと頑張っている忍者もいる。

 だが、なかなか難しいようだ。


「職員室から醸しだされるあの独特のにおいが、嫌になったからか」


 長い仲秋の一日は、ようやく終わりに差しかかっていた。


「俺は、職員室、くさいか」

「ぜんぜん、関係、ないです」

「じゃあなんでだよ。ちゃんと理由を話せよ」


 忍者は声を低くし、ついでに姿勢も低くして、


「……俺、このままだと殺されるんです」


 教師になって三年目。

 たかが三年目と上からはまだまだひよっこ扱いを受ける、忍者学校教師の小向鳶は、

 されど三年目、言ってもこういう変わった生徒は初めてではない。

 ……言われてみればたしかに、目の前の新人忍者は、別に忍務の最中でもないのにぴっちり頭巾をかぶり、目以外の部分をすっぽり覆い隠し、頭のてっぺんから足の先まで完璧な忍装束を着こんでいて、変わった生徒だが、

 しかしそんなのも別段初めてというわけではないのだ。

 でもやっぱり、聞き返すことにした。

「なんだって?」

 

 新人忍者は物言わぬ視線を鳶に差し向けていた。

 鳶は思わず溜め息をついた。


「……つまりおまえは、つい先日忍者学校に入学したばかりのぺーぺー下忍の身分であるにもかかわらず、早々に刺客から命を狙われていると。そう言いたいわけだな?」

「まあ、刺客というか。ある意味それより質の悪いものです」


 鳶はうなずくと、短く静かに息を吸いこんだ。



「この、呆けがああああああああああーーーーーーーーっ!!」



 まわりで修業していた生徒たちが一斉に、響きわたった馬鹿でかい一喝に、なんだなんだと振り返った。

 ついでに校庭の裏の森でも、何羽かの鳥たちのあいだで騒ぎが生じた。


「この、惚けが……っ! 俺だって未だに刺客に命を狙われたことなんか、ねえよ! おまえが刺客に命を狙われることなんか、万に一つもねえよ……! 勘違いだから、それ、完全に勘違いだからそれ……!」


 忍者は一瞬怯んだ動きを見せたが、すぐさま元の無言の目つきに戻って、


「真実です」

「まあ待て、落ち着け和土佐。まず落ち着いて情報を整理しよう。

 たしかにおまえは、このあいだの忍者試験で零点だった。

 ものの見事に零点だった。

 だが腐ることはない。起死回生の機会はこの先、いくらでも転がってる。

 と同時に、それが何を意味するかわかるか? 

 落ち着いて聞けよ、おまえが試験で零点だったということはだ、

 俺がおまえの担任になるってことだ。

 なぜなら俺はいちばん点数の低かった奴らの担任になることがすでに決まっているからだ。

 で、俺がおまえの担任になるってことはだ、

 おまえに辞められると少なからず俺に責任が発生するということだ。

 俺が何を言いたいか、わかるよな、和土佐?」


「申し訳なく思っています」


 和土佐は懐から二つの団子を取りだした。鳶の頬がぴくっと引き攣る。

「ほう……? この俺に勝負を挑もうってのか、和土佐」


 人差し指、中指、薬指。

 それら三本の指に挟まった二つの団子へ、鳶がちらりと目を注ぐ、と、

 和土佐はおもむろに覆いをずらし、片方の団子を口のなかへ放りこんだ。


 突如思いきり歯を入れられた団子『遠藤丸』は、まるで粘土のような食感を口いっぱいに広げながら、まるで粘土の漬け物のような悪臭を鼻腔いっぱいに撒き散らした。


「ぐああああっ……不味いっ……!」


 思わず膝をつきそうになるほどの不味さに悶えながら、ごくりとひと思いに呑みくだす。

 その瞬間、各消化器官が大慌てで受け入れ拒否をしはじめる。

 しかし遠藤丸は素早く胃に溶け早く効く。

 遠藤丸――とある天才忍者、故遠藤氏の開発した素敵で奇跡なお団子は、食すとあまりに精力ついて、一時的にだが超人になることができるという。

 各能力値が速やかに二倍になる。

 体力が二倍になり、元気が二倍になり、

 素早さが二倍になる。

 回避率が二倍になり、防御が二倍になり、

 視力も二倍になる。

 身長は二倍にならない。

 体重は秘密。


「っしゃあああああああ!」


 和土佐の身体を薄黒い『チ』が包みこむ。

 ゆらゆらしたわかめみたいなものが、忍装束の上からまとわりついている。


「ていうかそれ遠藤丸!? なんでそんなもん持ってんの? つうかそっちは煙幕弾か! って、おまえ本気で辞める気満々かい!」

「俺はいつでも本気です!」


 和土佐は煙幕弾を校庭の土に叩きつけた。

 二人の身体が一瞬にして灰褐色の膜に覆われる。

 もうもうと舞いあがる粉塵。

 その歪な筍のなかから、和土佐の身体が横様にかっ飛び出てくる。

 土煙の綺麗な門が開く。

 そのまま凄い速さで校庭を突っ切っていく。

「待てやごるぁあああああああ!」





 逃げる。


 それは切なく甘美な響きである。


 これまで実にいろいろなものから逃げてきた。

 隙あらば逃げてきた。

 嫌なことがあるたび逃げだしてきた。

 ひとたび物事から逃げだした人間は、どこにも居場所がなくなる。

 逃げつづけた人間は、どこにも所属できなくなる。

 逃げた人間のことを想ってくれる誰かなどいない。

 逃げる人間のことを想ってくれる誰かもまた、いないのだ。


 そうしていつの間にか、

 誰からも気取られることのない孤独な場所が、

 誰からも遠く離れた荒涼たる場所が、

 居心地の良い暖かな温度になり気分が落ち着く淡い色相に彩られていく。

 

 これまで実にいろいろなものから逃げてきた。

 隙あらば逃げてきた。

 許嫁からも逃げた。

 

 婚約を正式に言い交わすことになっていた二年前のあの日、できるだけ遠くを目指して力のかぎり走った。

 明くる日も、その次の日も、来る日も来る日も走りつづけた。

 そしてこれ以上遠くというと、もう海しかない、

 事実上の世界の涯まで辿り着き、

 うしろを振り返ったとき、

 ようやく安堵して、深い眠りに就いた。

 

 それから二年間各地を転々とし、たまたま目にした忍者学校生徒募集のちらしに応募した。


 だから、そこで桔音の姿を目撃したとき、和土佐は愕然とした。

 間違いなく、里から遠く離れた土地の、里とは縁もゆかりもない忍者学校に入学したはずだった。

 しかし間違いなく、遠目だがはっきりと目撃した、この忍者学校にいるはずのないその人物は、桔音だった。

 

 ――なぜ桔音がここにいるのだろう。


 否、なぜもおこぜもないのだ。

 俺にとどめを刺しに来たのである。

 どうして桔音に俺の居場所がわかったのかはわからない。

 ただわかっていることは、現に桔音がここにいて、俺はここから一刻も早く逃げださなければ命がないということだ。

 


 凄いのは、中忍相手に距離を詰められることなく逃げることのできている下忍の和土佐なのかもしれないし、

 はたまた遠藤丸を使って超人化している相手に対し互角に渡りあっている鳶なのかもしれない。

 今日という日を安らかに終えようとしている鬼灯山に、不思議な地鳴りを巻き起こして、どう考えてもおかしな速さで二人の忍者が駆けていく。

 

 忍者学校を出ると、山路は何本もの分かれ路になっている。

 そして路でないところには、ありとあらゆる罠が張り巡らされている。

 和土佐は右へ左へ進路を切り替え鳶を翻弄する。

 しかし鳶はある一定の距離を保ったまま、近づきもせず離れもせず和土佐を追いかけてくる。

 鳶が狙っているのは、遠藤丸の時間切れにちがいなかった。

 遠藤丸の効力は通常三十分程度持続し、効力が切れるとその反動がやってくる。

 たとえば和土佐のように、遠藤丸の効力に頼って走りつづけると、その後しばらくまったく身体を動かせなくなるだろう。

 

 なんとしても時間内に鳶を撒かなければ。

 和土佐は腹を決めた。

 

 その先、路は急激に変化を起こし、鋭い曲線を描いていた。

 和土佐は身体を内側に倒す。

 そのまま、重心の復元が不可能なほど大きく傾いていく。

 そしてついに遠心力が重力に負け、転倒――


「ははは、甘いな和土佐、おまえにはまだ遠藤丸というものを制御しきれな――」


 しかし実は和土佐は転倒の拍子に、ぺぺっとひと袋分の撒菱まきびしの実を放っていた。

 あっという間もなく地面を覆っていた決死の撒菱は、見事、鳶の足裏を刺し貫いた!


「今日子!」


 それでもそんな状況でも残りの撒き菱は避けようと判断したのだろう、

 まるで棒高跳びのように空中で身体をしならせ、撒き菱の範疇外へ、背中から着地した。さすがは忍者である。

 

 ぬかるんで落ち葉にまみれた赤土の路を、二人はごろごろ転がっていった。

 全力疾走ですっころんだときの衝撃は並ではない。

 ようやく回転が止まったとき、鳶は撒菱の実を喰らった左足をかばうように抱きかかえていた。


「ちょ……刺さった……っ! 付け根……中指の付け根に……っ!」

「っし!」

 悶え苦しむ教師の脇で小さく拳を握る和土佐。

「ちょおおおいいい、そこまでするううう? 和土佐てめえええ」


 和土佐は立ちあがると、懐から封筒をとりだした。

 表には仰々しい筆文字で『退学願』と書かれている。

 それを鳶の前にすっと置くと、再び夕陽の沈むほうへ向かって走りだした。

 やがて見えなくなった。





 熊さえも寄りつかないような山の奥深くに一基の鳥居が立っている。

 ひしめきあう無数の梢の影にまるで大事に隠されるようにして、それはひっそり立っている。

 

 鳥居の向こうを見あげると、つるつるの苔にびっしり覆われた石段が、靄のなかに見えなくなるまで斜面をのぼっている。

 傾斜は急で、石は水を帯び、油断していると思いがけず足を取られて危ない。


 やっとの思いで頂上へ辿り着くと、再び鳥居があり、こぢんまりした神社が構えている。


 鳥居の脇にはずんぐりむっくりした狛犬たちが居座って、余裕綽々の風体で魔を除けている。

 手水舎とおぼしき水桶からは、裂け目に沿って水がてろてろ漏れだして、

 納札所の小屋とがらんどうの絵馬掛が無駄に広々とした境内の隅っこにぽつりぽつりと並んでいて、

 正面に鎮座する社殿も、なかなか年季が入っている。


 閑散としたもの寂しい神社であった。

 そして神社のまわりは、見渡すかぎり一面の芒畑すすきばたけだった。


 風が歩を進めると、丘の起伏に合わせて、芒の穂が交代ばんこにきらきら輝いたり影になったりを繰り返し、大きな足跡をいくつもつくっていった。

 遠くに連なる山の端で、一日分の雲や風や噂話によってぴかぴかに磨かれた陽が落ちていくのを、蜻蛉が大量に群がって堰き止めていた。


 拝殿前にちょこんと置かれたぼろぼろの縁台の上に、和土佐は仰向けにひっくり返っていた。

 胸をゆっくり上下させながら、暮れなずむ空を見ていた。


「風がざわめいておるな」


 ふいに長い影がぬっと顔の上にかかった。

 咄嗟に身を起こそうと思ったが、遠藤丸の効力が切れた反動で身体が動かない。

 目だけ動かして影の正体を確認する。

 斜陽を返す真っ白な狩衣に差袴、ころころと景気の良い音を立てる高下駄に長い顎髭、ひょろっとした身体つきの宮司は、和土佐よりもいくぶん影が短い。

 和土佐は晴れやかな顔で応えた。


「俺にはとても穏やかに感じますけど」

「ふむ」

 老人は和土佐の頭の先へゆっくりと腰をおろした。

「しかし、何か不吉なことが起きる前触れかもしれん」


 つづいてぽん、ぽん、ぽんと剽軽な音があたりに響いて、いったい何かと訝しんでみれば宮司が瓢箪を呷る音だった。


「君も一杯どうかね」

「いえ俺酒とか駄目なんで」


 和土佐は丁重に断りを入れ、目線を茜へ戻し、

 もう一度宮司の手元を見やった。


「いつもこんな時間から飲んでるんですか?」

「一日中御神酒かっくらってるとな、そのうち神様に会えるのよう」


 宮司の無邪気な笑顔につられて、和土佐も微笑んだ。

 そして穏やかにうなずいた。

「それがお迎えに来る神様でないことを祈っています」

「それにしても、学校が終わったその脚で神社に参ってくれるなぞ、感心なことじゃな」


 宮司は袖口で口のまわりの酒を拭って言った。

 和土佐はようやく少し動くようになってきた首を小さく左右に振った。


「その学校も、もう辞めたんです。いまさっき、辞めてきました」

「そうかい。それは残念だのう。なにしろこの一週間で神社に参ってくれた新入生は、実は君くらいのものだったからな」

「逃げ場所として使ってただけです。……神社はなんだか落ち着くから」

「ふむ。しかしそれが、神社というものが存在する最も純粋な意味での動機じゃないかと思うがね」

 宮司は目尻にたくさん皺をつくって、瓢箪を呷った。

「君はこの土地が好きかい?」


 和土佐は宮司のうしろに茫洋と広がる淡い褐色に焦点を合わせてみた。

「俺は、この土地のことはぜんぜん知らないけど、でもいいところだと思います」

「君はなぜ忍者を辞めるのだ?」


 それは、咄嗟に来た不意打ちの言葉だった。

 和土佐はすぐに言葉を返すことができなかった。

 場と思考の内部に、沈黙が降りた。


「……わかりません」

 そして正直に答えた。

「ただ、俺にはそもそも忍者の資質なんてないんです。イヅチだってないらしいし。あ、神主さん、イヅチっていうのは……」

「わしのイヅチは超感覚『千里眼』じゃ」


 稜線でちりちりまたたく太陽の名残が老人の輪郭を綺麗に染めている。

 しゃりしゃりと空から鈴のような音が降ってくる。

 ぴーひょろろろ、ととんびが鳴く。

 とんびはまるでそれが自身にとって最も楽な格好であるかのごとく、両翼をひろげて、大気のなかに止まっている。


「古くから現世に伝わる、まさに元祖イヅチぞな」

「……まさか、神主さんも、実は忍者だったんですか」

 それを聞いた宮司は、かっかっか、と横隔膜を揺らして笑った。

「それは根本的な勘違いだのう。君、イヅチというのは何も忍者の特権ではない。

 解禁さえすれば誰にでも発現するものだ。

 ……もっとも、ごく普通の人生をまっとうに生きていきたいのなら、そんなもの当然ないほうが幸せだがね。

 イヅチは一度解禁してしまえばもう元には戻せないからのう。

 君がすでに事実、イヅチを解禁したのなら、もうその宿命から逃れることはできんよ。

 イヅチのない人間など存在しない――得意分野のない人間なんていないのだ」


 和土佐は黙って聞いていた。

 何気なく自分の掌を眺めていた。

 宮司は瓢箪を傾けた。

 傾きは徐々に角度を上げ垂直に達した。

 何度か前後に振ってみる。


「便が生じ、必ずそれと同じくらいの不便が生じる。人の大きさは変化せん」


 そのとき、

「和土佐あああああ」

 という聞き慣れた雄叫びが聞こえてきた。

 声はこちらを目指してまっすぐ近づいてくる。


 ――居場所がばれている。


 しまった、とそこで気づいた。

 さっき見たとんび、あれは小向先生の『偵察隊』だった――完全に油断していた。


 ところで遠藤丸には、効力が切れるとその反動を食うほかもうひとつ副作用がある。

 なにしろ、己が消化器官全員の反対を押し切って断行したのだから、当然それがまっとうな形で排泄される道理はない。

 和土佐の腹が不可思議な重低音を発した。

 なるほど貯水槽なんかの栓を抜いたとき、最後のほうでこんな音がする。

 

 詰みだ。

 なにしろ向こうはわざわざ自分の正体を知らせるような大声を出しながら近づいてきている。

 もちろん、遠藤丸の副作用を見越してのことだろう。

 つまりこの大声は、無駄な抵抗はやめて大人しくしろという降伏勧告にほかならない。


 その降伏勧告を無視して逃げようとする忍者の足に、芒畑のさなかからひらり飛びだした影が縄を放り、倒れこんだその上に華麗な動作で馬乗りになった。


「ぐぇぁ! ……」

「よくも撒菱なんぞ放ってくれたな……」

「先生……あの、降参するんで、ちょっとのあいだ失礼させてもらってもいいですか」

「まあそれはいい。撒菱なんていう初歩的なものに足元を掬われた俺の落ち度だ。だがな、和土佐、中忍を甘く見るなよ?」

「わかりました。すいません、本当にもうやばいです」

「ただ、おまえの逃げ足の速さだけは大したもんだ。そこは素直に評価してやる。伸ばせばきっといい武器になる」


 和土佐はぎりぎりと首を曲げて、宮司のほうに助けを求める視線を送ってみた。

 縁台の上には、ひっくり返っていびきをかいている酔っ払いの姿があった。


 ほどなくして、和土佐の腹から鬨の声があがった。

 腹を括り腹を決めた群衆たちの咆哮は、秋の天高くへ谺して吸いこまれていった。


「まずい……これはまずい」

「まあ、とりあえず今日のところはうまい飯でも食いにいこう。おごってやるよ」

「ありがとうございました」


 和土佐は穏やかな顔で言った。

 それが最後の言葉だった。


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