一、「大きくなったら結婚しようね」
――ある伝承の記録
焼けただれた雲の隙間を縫って、
黄昏死体がもつり、もつりと滴って、
物憂いひぐらしの声を圧し潰していく。
途切れがちの声は徐々に間延びし、擦り切れて、
最後はからからの残響になり、事切れる。
輪郭を失った真っ白な土手の上に、小さな赤い鳥居が立っている。
道祖神が笑っている。
埃っぽい畦路の脇で、幾人かの道祖神が首を傾げて笑っている。
幾人かは笑っていない。
鳥居の向こうには、暗闇が広がっていた。
直視するのが躊躇われるような暗闇だった。
それが、こっちへ来い、と手招きしている。
従って鳥居をくぐり、歩みを進めるうち、いつの間にか手招きはやんでいる。
光は音もなく奪い去られ、気がつくと、見えなかったものと見えるものとがあべこべになっている。
何もいない。
上は天井から吊りさがったおびただしい枝葉の影に、下はぼうぼうに生えきった雑草の影に占領されて、
ふと見ると草間には二本の箒が重なって転がっていたが、すでに化石だった。
神殿が建っている。
敷地のまんなかに、古い神殿が建っている。
ちょうど目の位置に朽ち果てた賽銭箱、奥の障子に無数の穴。
両端の石灯籠にはびっしり苔が生し、少し顎をあげれば、大きな木版が見える。
そこに書かれていたであろう神社の名前は、掠れてもう読めない。
ふいに、からからに乾いた枯葉がどこからともなく吐きだされて目の前に落ちてきた。
風が吹くと、からから動きまわった。
いつまでも、無意味に動きまわっている。
誰もいない。
だが先ほどからずっと、何かの気配がある。
すぐそこの、賽銭箱の前。
まだ小さな頭だったが、二つあった。
仲良く寄り添うように並んだ二つの頭は、先ほどからずっと、
こちらを見ている。
は
は は
は
「はっくしょん!」
黒い影法師がふっとわいて、ぺたりと世界に貼りついた。
両手で口と鼻を覆いながら半身を屈めた少女が、その場に突然現れた。
静寂を突き破った音の余韻とともに、長い垂れ髪がいまふうわりと元の位置へ落ち着きを果たし、やや遅れて、左右に生えた烏の羽のような束髪がそれを収めた。
「はい、桔音の負け」
そしていつの間にか、少女の隣には一人の少年がいた。
賽銭箱の前の段差には、いつの間にか一対の少年少女が腰かけていた。
どちらも麻地らしい身体にぴったりした単色の着物に身を包んでいて、少女のは柿茶、少年のは濃紺だった。
「はい」
少年は心底嬉しそうな顔で、少女に向かって掌を差しだした。
「ちぇー」
少女は心底悔しそうに唇を尖らせながら、右手を懐に差し入れ、菱形の手裏剣を一枚取りだすと、そっぽを向きながら少年に手渡した。
「ああもう、このままじゃ手裏剣なくなっちゃうよ。お盆にもらったやつ合わせてあと四枚しか残ってないんだよ?」
じだんだを踏む少女に、少年は慌てて掌を振った。
「大丈夫だよ、なくならないよ。だってほかの勝負だったら桔音勝てるじゃん。気配消しの勝負にしなきゃいいじゃないか」
「だめ、そんなの。ぜんぶの勝負で勝たなきゃ」
少女は少年をじろりと睨めつけ、肩をもぞもぞ動かし、眉根を寄せて、不機嫌のような苦笑いのようなおもしろい顔をして、
「ねえ、何かこつがあるんでしょ。和土佐はそのこつを知ってるんでしょ。教えなさいよ」
少年はすぐにうなずいた。
「これは父ちゃんが言ってたのをこっそり聞いたんだけど」
言いながら少女にもらった手裏剣を大事そうに懐に仕舞った。
「気配消してるあいだはつまらないこと考えてればいいんだって」
「むう」
少女は唸った。
「おっちゃんの言うことってあんまりあてにならないけどなあ……。それで? つまらないことって、何?」
「え、いや、そりゃいっぱいあるでしょ」
少女は腕を組んだ。
しかしその腕組みはどうしてかなかなか完成しないようで、
やがてすぐに考えを放棄したようで、
「……思いつかないよ!」
と憤慨した。
「つまらないことなんていっぱいないでしょう。たとえば何があるのよ、言ってみてよ」
「……たとえば、あるものの数をかぞえたり、あるものをある場所から別の場所へ移動したり、移動したものをまた元の場所へ戻したり……」
みるみるうちに、こんがらがった腕組みと同じようにこんがらがってしまった考えが、眉毛の下に現れた。そして、
「あるものってなんだよう!」
と憤慨した。
二人で秘密の特訓をするときには、必ずこの神社を使うことに決まっていた。
古くて小さく、村の外れにあって、滅多に誰も近寄らないので、秘密の特訓にはうってつけの場所だった。
いつも一日の日課が終わるとこっそり抜けだして、この秘密の神社で落ちあった。
それで、頼んでもなぜか教えてくれない忍術とか、どういうわけか禁止されている忍術とかを、二人でこっそり修業していたのだ。
最近ではもっぱら気配消しの修業に重点が置かれていて、というのも、気配消しは最も基本的な忍術のひとつだが、同時に最も会得の難しい忍術のひとつであるらしく、
気配消しを覚えたい、と申し出たところ
「おまえらには十年早い」
と双方の両親に大笑いされ、それにとてもむっときた二人の課題は目下
『気配消しを習得して村のみんなをあっと言わせてやること』
になったのだった。
秘密の特訓は毎日のようにつづけられ、
結果、和土佐の気配消しはほぼ完成の域に達し、
また桔音のだって、完成とはいえないまでも充分形になっていた。
でもそのことは、みんなにはまだ内緒だった。
すでに二人とも気配消しができることは、二人だけのわくわくする秘密だった。
「ちくしょー。ねえ和土佐、もう一回」
「駄目だよ、もっかいやったら晩ご飯の時間に間に合わないよ。母ちゃんたちに怪しまれちゃうよ。今日はもうおしまい。お参りして帰ろう」
桔音は何かを言い返そうとしたが、和土佐が返事を待たずにうしろの拝殿と向き合い、柏手を打ちはじめてしまったので、むくれたまま隣に並んだ。ぺしぺしと柏手を打って、
「早く一流の忍者になれますように」
そして負けた腹いせとばかりに、お願い事をまくし立てはじめた。
「早くちゃんとしたくノ一の衣装が着れますように。次のお正月にはこんどこそ坂見の手裏剣がもらえますように。気配消しでも和土佐に勝てますように。村のみんなが元気でありますように。明日もいっぱいいいことがありますように。えーとそれから、」
「ちょ、桔音」
「何よ」
「そんなにお願い事ばっかりしたら、きっと神様……困ると思うよ」
桔音は唇を尖らせ、
「じゃあどうすればいいのよ、神様にお願いする以外に!」
和土佐は少し考えたのち、やがて目を瞑って言った。
「桔音と、いつも一緒にいさせてくれてありがとうございます」
少女は不思議そうに少年の横顔を眺めていた。
少年の横顔は、こころなしか微笑んでいるように見えた。
やがて少女も、ぱむっと手を合わせてぎゅっと目を瞑り、そして言った。
「……和土佐と出逢わせてくれてありがとうございます」
お礼を言うと、二人はなんだかちょっとだけ、神様のことがわかったような気がした。
桔音は嬉しくなって、こんどは逆にいっぱいお礼を言いはじめた。
「この歳まで生きさせてくれてありがとうございます。わたしたちの村を敵から守ってくれてありがとうございます。毎日ご飯が食べれてありがとうございます。みんな元気でありがとうございます。それから、……毎日楽しくて、ありがとうございますっ」
目を開けて、和土佐のほうを見た。目が合った。にかっと笑った。
「こういうことだよね、和土佐」
それから爪先を軸にして、手を合わせたままくるっと身体を回転させた。
頭の烏がふあっと羽を広げてちょっと飛びたとうとした。
「ねえ、和土佐。わたしは、気配消すときつまらないことなんて考えられない。……だって、和土佐といっしょにいたら、つまらなくないもん」
和土佐はすぐにうなずいた。
「俺も、桔音といっしょだったら、つまらなくないよ」
桔音は満足げに笑みを浮かべて、合わせていた指を絡みあわせた。
「ねえ、和土佐。大きくなったら結婚しようね。約束だよ」
「もちろん」
照れながら、和土佐が差しだしたのは小指だったが、桔音が差しだしたのはにょきっと生やした二本の人差し指だった。
「もし約束やぶったら本気のかんちょーけつにぶちこむからねっ」
そう言って、半分目にかかった黒く長い髪をさらさら揺らして笑った。
それから時は過ぎ、二人は成長した。
彼らの住む小さな忍者の里に、二人と同年代の子供はほかにおらず、従って必然的に、誰が言わなくても二人は許婚ということに決まっていた。
婚約の儀は小さくけれども厳かに、
両家のあいだで粛々と執り行われた。
その佳日に、桔音は正装をして八条家の列の端にちょこんと気恥ずかしそうに座っていて、
そして和土佐は、待てど暮らせど正石家の末席に姿を見せなかった。
和土佐は、婚約式を、すっぽかした。
そんなわけで、結果としてその集まりで起きたのは、両家の父親の見栄の張りあいから発展した些細な諍いと、古傷のつつきあいから発展した忍術の大安売りだけだった。
そしてその後数年に亘って両家の親交が途絶えただけの話だった。
事の顛末として残ったのは、
夕陽を背景に人生という道のりを真反対へ向かってまっしぐらに駆けていく和土佐のうしろ姿と、
取り残された桔音の茫然たる表情ばかり。
これは、そんな忍者の幼馴染みの、物語である。