第四話 避難所
避難所となった灘小学校には多くの地域住民でごった返していた。体育館も教室も、廊下ですら箱詰め状態。
ちひろ一家は教室の隅の一角に身を寄せた。
床に段ボールや毛布は敷いてあるものの数が足りず、ほぼ地べたに座っているようなもの。パジャマ一枚で飛び出してきたものだから、寒い上に腰や尻に負担がかかる。
「……受験どないしよ……。愛姉ちゃん……どないしよ……」
ちひろは涙ぐむ。紅美も口を聞かなかった。
気晴らしにふと、窓から外を見る。そこには衝撃的な光景が。
遠くではまだ激しい炎が燃え盛り、黒煙が上がっている。ちひろが知っている街並みは消え、すでに焼け野原となっている。
グラウンドには何人もの負傷者が運ばれてきた。だが、担架すら足りないため家のドアに怪我人を乗せて運んできている。
頭がくらっとしてちひろは思わず窓から離れた。
「……ちひろ」
「この世の……終わりや」
◆
「ちぃちゃん!探しとったで!」
廊下に立っているところに声をかけてきたのは親友、恵美めぐみのお父さんだった。
「おじさん……恵美は?」
ちひろが恐る恐る聞くと、恵美のお父さんは申し訳なさそうに口を開いた。
「倒れた箪笥の下敷きや。男手5人あっても崩れた家から引き出せへんかった」
目の前が真っ暗になる。愛姉ちゃんだけやない、恵美まで……?
「ちぃちゃん、あんたに会えて良かったわ。恵美と仲良うしてくれておおきに。僕はこれから行かんといけんから」
丁寧にお辞儀をした恵美のお父さんは足早に去って行った。
ちひろは現実感がないまま、家族の元へ帰った。
「恵美が……死んだ……」
◆
「おにぎりとパンの配給ですー」
学校に避難してきて数時間後、ようやく朝ごはんが回ってきた。小さなおにぎりは1人一つ、食パンは2人で一つ。
「ちひろ、紅美。4人分貰うてきて」
ちひろと紅美は体育館にできた長蛇の列の最後尾に並ぶ。2人の後にも続々と人が並んできた。
「あともう少しでお茶も来はるけん、頑張ってくださいや」
そう声をかけ、ダンボールに入ったおにぎりと食パンを手際よく一人一人にご飯を配る、笑顔のお姉さん。大学生くらいだろうか。自分たちより年上だ。
「……知らんお姉さんや」
この辺の地域に住む人は大抵、小さい頃からずっと顔見知っているのですぐにわかる。しかしあのお姉さんはこの辺では見たことがない。
「……あの、お姉さんどこの人ですか」
ちひろは思い切って声をかけた。
「私は堺さかいや。堺も今朝の地震でよう揺れたんやけど、うちのばあちゃんが三宮さんのみやの人でね、避難所探せるところ探したんやが、見つからへん。もしかしたらこの辺におるかもしれへん、思うてお手伝いがてら来とるんや」
そういうとボランティアのお姉さんは伝えたとおり4人分のご飯をくれた。
「見つかるとええですね、おばあちゃん」
不意に紅美の口から言葉が漏れる。
「おおきに。神戸の人たちあんたらも頑張りや!」
なんでこんなにも励ましの言葉って心に響くんだろう。ちひろは少しだけ元気が出た。
その日から神戸には全国各地からたくさんのボランティアと救援物資が届くようになった。
阪神・淡路大震災では学校の体育館や教室、公民館などの1153か所もの避難市で、約32万人もの被災者が生活しました。
避難所で流行したインフルエンザにかかったり、もともとの持病が悪化したりして亡くなる被災者もたくさんいました。また家や家族、仕事を失ったショックで、自ら命を絶った人もいました。(本編では尺の都合上割愛しています)
このような災害関連死は阪神淡路大震災がきっかけで認められるようになりました。しかし30年経った今でも災害関連死が認められていないケースがいくつもあります。
また、本編でも出てきたように全国各地からたくさんのボランティアが集まり、炊き出しや支援物資の運搬を行いました。このことから1995年は「ボランティア元年」とも呼ばれています。作者の知り合いにも当時ボランティアで炊き出しをしに現地へ行った人がいます。
神戸の人々はこれに深く感謝し、東日本大震災や熊本地震など日本各地で災害が起こった時には「阪神淡路大震災のとき助けてくれたお礼」として支援を積極的に行っています。
人と人との繋がりって本当に素敵ですね。




