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滌葬草子  作者: 相宮祐紀
〈一〉 滌宮
7/7

七   慈雨





  **  **





 さらさらせせらぐ流れのほとり、澄んだ空気が目に沁みた。蝶の舞うような木洩れ日のもと、娘は流れにその手をさらし、清めているのか遊んでいるのか傍目にわからぬようすであった。伏丸(ふせまる)はそのうしろに立って、水にゆらめく白魚(しらうお)の手をまぼろしめいたものと見ていた。

 伏丸は里まで行こうとしたが、娘が袖を引っ張って、ここでとまれとやたら命じるので従わざるをえなかったのだ。娘をおろして(いまし)めを解くと、すぐに清めか遊びがはじまり、伏丸はずっとそのうしろだった。

 そばにいるのもいたたまれないが、離れることもできないままに、ひたすら黙って突っ立っている。痛みはないのか、気分はどうか、さぞこわかったことだろう。いろいろと聞きたいことはあったが、娘があまりに泰然として、動じていないようすでいるので、問いは無粋とさえ思えてきた。

 黙っているのは、娘もおなじ。せせらぎに夢中になっているのか、口もとの布ももう取ったのに、なにも言おうとしないのだった。忘れられたのだろうかと、思わず身じろぎしてしまう。足裏の石が擦れ合い鳴る。音に誘われるようにして、ふわりと、娘は振り向いた。目が合い、娘が立ちあがるとき、細かなしぶきがきらめいて。

「来ると思っていましたよ」

 正面から向き合ったうえ、娘はくっきり口にした。衒いないその言いぶりに、伏丸はまごついてしまった。なんとこたえてよいかわからず、愛想笑いもうまく出てこず、結局、もごもごとつぶやいた。

「遅くなって、申し訳ありません……」

 己のあまりの間抜けぶりに、伏丸はいっそ辟易した。知ってか知らずか、娘はまたたき、そうでしょうかと小首をかしげる。

「ずいぶんはやいと思いましたよ」

 野辺で別れたあとすぐに、追いはじめたからそうかもしれない。伏丸はつい顔をそらした。そこへ追い打ちがかけられた。

「ついてくる気になったのですね」

「それは」

 否定しかけ、飲み込む。娘の深い(くろ)の瞳に、すべてを見透かされる気がする。それに、目などを見られなくとも、証のようなものがあるのだ。娘はもちろん気がついており、そちらへすいと視線を移した。

「そうだと、思っていたのですが。このようなものがありますし」

 荷を詰め込んで盗んだ行李(こうり)。手ぶらで旅はできないのだから、急ぎ調達しようとしたのだ。このような盗人根性は、このうえもない恥で誇りだ。もはやなにをやろうとも、変わらないというところまで来た。すでにひらきなおっているのだ。ひとに矢尻を突き刺すことも、殴り蹴ることも捨て置くことも、すっかり平気になっている。そんなこと、する必要もないのに。

「わたくしを連れ出しに来ました」

 娘は静かに事実を述べた。

「やはり餌袋えぶくろにでもなってやろうと、思い直して来たのでしょう。きっと来るだろうと、待っていました」

 伏丸ははっと顔をあげた。その言いかたでは、わざとのようだ。わざと捕まってこちらを試した。この娘なら縛られる前から、ひと買いを絞めてのたうち回らせ、逃げおおせることができたはずなのだ。連れ出すことに集中していて、それがいっとき抜け落ちていた。目の前の娘はわずか微笑み、すべて見通したようなことを言う。

「信じないのでしょうけれど、わざと捕まったのではないのです。(わざわい)をすすぐにも、ひとを苦しめるにも、力が入り用なものですから、続けて幾度もはできないのです」

 伏丸が眉をひそめると、娘はふっと間を詰めてきた。避ける暇もなく袖を掬われ、その手に少しのこったしずくが、きたない布に吸われていった。ぎょっとして袖を取り返す。

「どこで拭いて────」

「あなたの袖で」

 娘は平然としてこたえる。伏丸は思わずこめかみを押さえた。せっかく洗った白い手を、血と土にまみれ擦り切れた布で拭きはじめるなどよほどおかしい。

「美醜の区別はつきますか」

「わたくしなりにはつけていますね」

 苦し紛れの問いにこたえる、娘の声はやわらかかった。伏丸は耳のうしろを掻いた。そのあたりがなぜかひどくうるさく、どくどくと強く脈打っている。だめだ。もう絡め取られている。もう、はじめからそうだった。息を吸い込み、一気に吐き出す。

「どうしようもない獣物(けだもの)ですが。そういうのでもよろしいのですか」

 すると娘は、目をまるくした。

「獣をなんだと思っているのです」

「そういう意味ではないんです」

「わかっています。冗談ですよ」

 ほとんど必死の弁明を、娘はかろやかに受け流す。そして間近からのぞき見てくる。

「あなたは、いまあなたのことを、ひとでなしだと貶したのでしょう」

 娘の瞳はいや深く、(こま)やかなつやを帯びている。伏丸は知らず幼子のように、こくりと首を縦に振っていた。すれば娘は首をかしげる。なぜ、そのように言えるでしょうか。

「確かに、ひとでなしにも見えました。ひと買いとはいえ迷わず伸して、そののちはほかのひとをほうってわたくしのみ連れ逃げました」

 なれど、と娘はささやく。

「だれのことも、殺めてはいません。それに、わたくしよりほかに、ひとりの縛めを解きました」

 心臓が強く締めつけられる。確かに、いのちを奪ってはいない。縄を切ったのも勢いではない。知られているとは、思わなかった。

「わたくしも殺めてはおりませんから、しばらく休めばひと買いたちも、もとの暮らしにもどれましょう。それにあのひと、どうしたでしょうね」

 娘はすっと手を伸ばし、ゆるんだ衿にふれてくる。縫い目に沿って指を滑らせ、素肌を直に撫でられるよう。ぞわりと、背筋が寒くなる。

「せっかく、解き放たれたのです。よもやおのればかり逃げようなどと、薄情なことは考えぬはず。よう、解いてやりましたね」

 ひと買いを伸してひとり解放する。そうすればそのひとの判断しだいで、みんな逃げられるだろうと思った。だから、小刀を押しつけてきた。すべて、娘の言うとおり。

「獣物などとは、思えません。あなたのような青臭い端者(はもの)

 娘は、清澄に言いきった。

「あまり、うぬぼれてはなりませんよ。かなしくなります。片腹痛うて」

 澄みきった声を聞きながら、身体の芯が、冷えていく。はやい脈動がおさまっていく。思いもかけない角度から、後生抜けない棘を突き刺しねじ込み埋めたつもりだろうか。そんなことは、よくわかっているから言われたとしてももう痛まない。半端だ。獣物にもなりきれず、罰をもとめてさまよっている。もとめることさえ罪に思える。すでにどうしようもなくなっている、伏丸は娘の顔を眺めた。黙って眺めた。気がついていた。痛まぬように芯を冷やした。

「ところで、どうです。ついてきますか」

 娘はさっさと閑話を切りあげ、本題について問うてくる。伏丸はその目を見つめて言った。

「痛むのは、よくありません」

「ええ、そのとおりです。けれど、ほしくもなりませんか。ときおり」

 このひとのそばを歩くなら、すくわれながら、おとされる。慈雨に思える。絡め取られて、縛められつつ浴びる慈雨。

「伏丸と申します」

 その場に膝をついて名のった。娘は幾度かくり返し、獣のような名ですねと。そして少しだけ腰をかがめる。

滌宮(すすぎのみや)と呼ばれています。宮でも(すすぎ)でも、滌宮でも、すきなように呼びなさい」

「宮さま……」

 口にしてみると、なにか覚えがある気がした。それは、とても偉いひとたちを示すことばではなかったか。

「伏丸」

 呼ばれて背筋が伸びる。宮は、伏丸の衿を示した。

「あなたは身体を流したほうが、よいのでしょうね。においます」

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