7.災厄
「あれは、まるで“死そのもの”だった。どこへ行っても、大地は腐り、人々は焼かれ、国そのものが消えていった。」
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サンフランシスコが沈んでから、数ヶ月が経った。
だが霧影の進撃は止まらなかった。
むしろ、加速していた。
ロサンゼルス、シアトル、デンバー、シカゴ——名だたる都市が次々に灰燼と化し、地図の上から消えた。
霧影は目につくもの全てを破壊し、抵抗する軍を容易く粉砕し、そこに生きる人間たちを“吹き消す”かのように蹂躙した。
さらに、問題は破壊だけではなかった。
霧影の足元には広島で目撃された「白い霧」とは異なる、腐食性の「赤い霧」が常に広がっていた。
それは空気中に漂い、地表に染み込み、触れるものすべてを静かに、しかし確実に蝕んでいった。
これまで人類が開発してきたあらゆる毒ガスよりも強力で、防御手段は存在せず、防護服さえ無力だった。
赤い霧は街から街へと風に乗って広がり、あっという間に生きた世界を“死の世界”へと変えた。
森林は枯れ、川は赤黒く濁り、土壌は死に絶えた。
作物は育たず、動物たちは姿を消し、そこに住んでいた人々は、衰弱し、音もなく息絶えていった。
赤い霧に蝕まれながら生き延びた者は、語った。
「感染症や病気じゃない……まるで魂を喰われているみたいだった。」
“生き物が住めない世界”が、奴の通った後に残された。
都市も、町も、村も、すべてが静寂と荒廃の中に沈んでいく。
それは、アメリカそのものが生きたまま腐っていくようだった。
それは、私たちが想定していた“損害”などという言葉で済むものではなかった。
被害の規模も、速度も、破壊の深さも——想像を遥かに超えていた。
これは、ただの侵略ではない。
霧影は、我々の国そのものを“終わらせよう”としていた。
制度も、文明も、人の心さえも。
「これはもう、戦争じゃない……終末だ……」
誰かがそう呟いた。
その声はかき消されることなく、深く、重く、すべてを言い表していた。
――――――
総力戦を決断した政府は全国に緊急戒厳令を発令し、この国のすべてを“戦場”として認識した。
海外に展開していた全戦力を呼び戻し、第二次世界大戦を勝ち抜いた“最強の軍隊”が、たった一体の怪物に立ち向かうために再び集結した。
更に新たに徴兵された若者たちが各地の基地に詰めかけ、国を守るという名目の下に、可能な限りの兵器と人員がかき集められた。
数百万人の兵士、数千両の戦車、無数の爆撃機、そして艦隊。
アメリカは人類の叡智のすべてを結集して、この戦いに臨んだ。
霧影の進行ルート、戦場の地形、最適な兵器と配置、攻撃のタイミング。
すべてを計算し、すべてを準備した。
これは決して、無謀な戦いではなかった。
だが、現実は非情だった。
オクラホマ戦線。
我々が最後の希望を託したその戦場は、霧影の放った熱線ひとつで消滅した。
一撃。
それだけで、アメリカが積み上げてきた軍事の結晶すべてが灰と化した。
戦場だった都市は跡形もなく消え、射線上の山々はごっそりと抉り取られた。
地形すら塗り替える一撃。
決戦は、戦いにすらならなかった。
その結果を受け、政府はついに最後の手段に踏み切った。
――アメリカ本土への原爆投下。
本来であれば敵国に落とし、戦争を終わらせるための“切り札”だった。
だが今、自国の大地にそれを落とし、怪物ごと焼き払うことが正義となった。
だれも反対しなかった。
反対する余裕も、理由も、もう残っていなかった。
すでに数千万の犠牲者を出し、主要都市も軍事力も喪失し、国土は赤い霧に侵されていた。
自然は死に絶え、社会は崩壊し、人々は恐怖と絶望の中で生きていた。
もはやアメリカの損害は、“許容範囲”などという概念をとうに超えていた。
ならば、怪物を抹殺できるのなら——新たな犠牲が出ようと、もはや躊躇する理由などなかった。
むしろ、まだ東海岸――特にワシントンやニューヨークが健在な今のうちに、決着をつけるしかなかった。
この一撃で終わらせる。
国の尊厳を、国家の未来を、何もかもを核に託し、アメリカは自らの大地に火の雨を降らせる決断を下した。
霧影がイリノイ州に到達した瞬間を狙い、超高高度から複数の原爆が投下された。
ありったけの在庫を集めた、かつてない数の核弾頭。
たとえアメリカの土地を焼き払おうとも、それと引き換えに“奴”を倒せるのならば。
どれほど異常に頑丈な生物だろうと、あれだけの核を浴びれば生きていられるはずがない。
そうでなければ——あれはもはや“生物”ですらない。
私たちは、投下地点から遠く離れた指令拠点にいた。
最高司令官、将校たちと共に、全ての希望を乗せた作戦の行方を見守っていた。
そして、落ちた。
原爆が連続して炸裂し、広大な大地が太陽のような閃光と炎に呑み込まれた。
震えるような轟音、天を裂く爆風、灼熱のキノコ雲。
何もかもが焼き尽くされ、やがてその光が静かに消えた時——残っていたのは、ただひとつの巨大なキノコ雲だけだった。
「……やったぞ!」
「ようやく、ようやくだ……!」
「我々の勝利だ!」
誰もが、口々に歓喜の声を上げた。
誰もが、“終わった”と思った。
悪夢は過去となり、未来が再び始まる——そう信じた。
だが、そのわずか数秒後だった。
空に、一閃の赤い光が走った。
それは、上空を旋回していた爆撃機を直撃し、一瞬で灰に変えた。
そして——咆哮が轟いた。
爆煙が渦巻くクレーターの中心。
そこに、それはいた。
ゆっくりと、確かに——霧影が立ち上がった。
その身には、火傷ひとつ見当たらなかった。
都市を消し飛ばす爆発を受け、灼熱の炎に包まれたというのに。
霧影は、傷ひとつ負わず、まるで何事もなかったかのように、そこに立っていた。
原爆は効かなかった。
アメリカの最後の切り札は、ただ自国を焼いただけで終わった。
何も守れず、何も壊せず、希望すら燃やし尽くして、絶望だけが残った。
私も、司令拠点にいた誰もが、そして無線越しに報告を受けた者たちでさえ、誰一人として声を発することができなかった。
その静寂を破ったのは——最高司令官の笑い声だった。
「……クハ……ハハ……」
彼はアメリカ軍の頂点に立つ男だった。
第一次世界大戦では最前線を駆け抜け、数々の作戦を成功へ導き、
第二次大戦でもヨーロッパ戦線を指揮し、幾度となく戦局を覆してきた。
誰よりも冷静で、誰よりも強靭な意志を持つ指導者——そう信じられていた。
最初はかすれた笑いだった。
苦しみを紛らわせるための、自嘲にも似た音だった。
「ハハハハハハハッ!!!」
笑いは次第に膨れ上がり、腹を抱えて、涙を流して、まるで喜劇を見ているかのように彼は笑った。
狂っていた。完全に正気ではなかった。
「戦争!?これは戦争か!?こんなものが!!違う!!これは!!世界の終わりだ!!!!!ハハハハハッ!!!ハヒッ!ヒヒヒヒヒッ!!ヒヒィィィィィアアアアア!!アアアアアァァァアア!!」
その笑いは、いつしか嗚咽と混ざり合い、泣き声になった。
それは威厳ある将軍の声ではなく、絶望に耐えきれず叫ぶ子どものようだった。
「アアアア!嫌だ!もう何も見たくない!!アメリカが崩れていくのも!!全部、全部だァァァァ!!」
その瞬間だった。
彼は拳銃を抜き、自らのこめかみに押し当て――乾いた銃声が、拠点に響いた。
かつて幾多の戦場を生き抜き、勝利を掴み続けてきた英雄は、“敗北”という現実の前に、自ら幕を下ろした。
あまりにも突然すぎた。
あの瞬間、誰も、何一つできなかった。
銃声が拠点に響いたあと、空気が重く沈んだ。
誰もが、まるで言葉を奪われたかのように立ち尽くしていた。
冷静沈着だった参謀はオロオロと書類を抱えたまま立ち尽くし、後方支援を担当していた若い将校はその場に座り込んで泣き出した。
中には、震える手で拳銃を取り出して自らに銃口を向けたまま、だが引き金を引く勇気をもてず、ただ虚空を見つめている者もいた。
もう、誰が指揮を執るのかも分からなかった。
何をすればいいのかも、どこへ逃げればいいのかも分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていたことがある。
——アメリカには、もう奴を止める手段がない。
ただ、滅ぶのを待つしかないのだ。
――――――
戦線の崩壊と、原爆投下の失敗。
その事実は瞬く間にアメリカ全土を駆け巡り、本土は混乱と恐怖の渦に叩き込まれた。
霧影がまだ到達していないはずの東海岸ですら、西海岸の壊滅的な被害に打ち震え、瞬く間にパニックが広がっていった。
状況が悪化する中で、人々の不安は限界を迎えていた。
そして原爆投下の失敗が決定打となり、ついに国家の秩序は崩壊した。
各地では暴動にも等しい自主的な避難活動が始まり、人々は逃げ場を求めて他国へ殺到した。
港や空港は国外へ逃れようとする群衆で溢れかえった。
だが、霧影に怯えていたのは、アメリカだけではなかった。
地続きの隣国であるカナダとメキシコもまた、当初はサンフランシスコの壊滅を受け、アメリカと共に戦おうとしていた。
霧影が北上・南下する可能性は十分にあり、彼ら自身が標的になる危険があったからだ。
しかし、戦いを重ねるうちに両国もまた、甚大な損害を被っていた。
そして、アメリカの総力をかけた決戦が、霧影の放った熱線一発で終焉を迎えたその瞬間、両国は完全に戦意を喪失した。
「どれほどの軍事力を持ってしても、霧影には通じない」
「あれを敵に回せば、国が消滅する」
「もしアメリカが完全に壊滅すれば、次は我々なのではないか?」
軍を一方的に壊滅させ、赤い霧で自然の命すら根こそぎ奪い、国そのものを崩壊へ追い込む霧影。
その強大な力を目の当たりにし、恐怖に屈した両国の動きは迅速だった。
カナダ政府は霧影へのいかなる軍事行動も禁じ、全軍に沈黙と退避を命じた。
攻撃はおろか、監視さえ行わないよう通達を出し、何がなんでも徹底して“関わらない”ことを選んだ。
もはや、霧影に“気づかれずにやり過ごす”ことが国家存続の唯一の策だった。
メキシコもまた、国境の部隊を即座に解散させ、戦力を都市部に集約する徹底した防衛体制へと転じた。
国境付近では武器が捨てられ、軍事施設は封鎖され、通信機器すら一部撤去されるなど、霧影を刺激しかねない痕跡が徹底的に排除された。
もはや“迎え撃つ”という発想すら存在せず、ただひたすらに“怒らせない”ことを最優先する、沈黙と撤退の姿勢だけがあった。
理性や同盟の絆すらも断ち切る、圧倒的な恐怖心が、国家の意思決定を支配していた。
こうして両国は自らの生存のために、アメリカを見捨てた。
そして、大西洋を隔てた先のヨーロッパもまた、同様だった。
ヨーロッパ戦線はナチスの降伏を経て、まだ混乱の只中にあった。
避難民を受け入れる余裕などなく、それ以上に霧影への恐怖に支配されていた。
アメリカを一方的に蹂躙していく、悪魔のような存在。
戦争に代わる、“新たな災厄”。
そんなものがアメリカを滅ぼし尽くしたその後、次に狙われるのは誰なのか?
もし自分たちが標的になったとしたら、果たして止める術はあるのか?
いくら大西洋を挟んでいるとはいえ、それが安全を保証してくれるわけではない。
霧影が本当にヨーロッパを無視するという保証など、どこにもなかった。
各国は疲弊しきった兵力をかき集め、慌ただしく防衛体制を整え始めていた。
だがそれは、決して戦うためではなかった。
ただ、恐怖に突き動かされ、国家の体面を保とうとする“形”だけの準備だった。
こうして、アメリカは完全に孤立した。
誰にも救われず、誰からも手を差し伸べられない。
霧影という災厄と正面から対峙する世界で唯一の国であり、同時に最も滅びに近い国ともなったのだった。
――――――
そして、その混乱の中——新たな侵略者が姿を現した。
日本軍が、アメリカ本土に上陸した。
霧影による蹂躙によって崩壊し、まるで“空白地帯”と化していた西海岸に、日本軍は静かに、しかし確実に進軍を開始した。
太平洋戦争はアメリカ優勢に進んでいた。
だが、霧影の襲来——そしてその前兆とも言える、太平洋上での艦隊の失踪事件。
それらが、日本に戦力を再構築するには十分すぎるほどの時間と隙を与えてしまっていた。
サンフランシスコ。ロサンゼルス。シアトル。
かつて栄えた都市が、次々と占領されていった。
本来ならば、迎撃は可能だった。
だが、霧影との戦いでアメリカは既に国家の総力を失っていた状況では、抵抗はできなかった。
兵士の多くは死亡し、生き残った者も満足な武器も士気も持たず、疲弊しきった国民は戦う気力すら持たず、日本軍の進撃を許して国土を喪失していくのを見ているしかなかった。
もはや、侵攻というより入植だった。
日本軍は抵抗らしい抵抗も受けずに、着実に前進を続けた。
そしてついに、ミシシッピ川を越えた。
この時点で、アメリカは国の半分を失っていた。
さらに、驚くべき報告がもたらされた。
「……日本軍に対しては、霧が全く違う作用を示している」
霧影の周囲に日本軍の偵察機が接近した際——それは、アメリカ機に対した時のように撃墜することもなければ、敵意を見せることすらなかった。
それどころか、その機体を追って一時退却したというのだ。
霧影はそのまま、偵察機が向かった先——臨時に設置されていた日本軍の拠点付近へと移動した。
そしてその場で、あの忌まわしい赤い霧ではなく、白い霧を静かに撒き散らした。
その結果は、信じがたいものだった。
かつて干上がっていた畑は、濃緑の穂で満ちた。
濁っていた川は透き通るほどに澄み渡り、枯れ木は急速に瑞々しさを取り戻し、緑葉が枝を覆った。
荒廃した大地は、瞬く間に楽園へと姿を変えていった。
そして白い霧を浴びた日本人たちは目に見えて活力を得ていた。
同じ霧を浴びていたはずのアメリカ人には、まったく効果がなかったにもかかわらず。
それは、私がかつて日本にいた時と同じだった。
あの頃も、確かに霧は“日本人にしか作用しなかった”。
霧影は、確かに“選んでいた”。
アメリカでは死と絶望を撒き散らし、日本の支配地では命と繁栄をもたらす。
破壊の象徴であるはずの怪物が、特定の人類に対してのみ“恩寵”を与えるという現実——。
私たちは絶望した。
このままでは、アメリカは地図から消える。
あの存在と、それを引き連れた“新たな侵略者”によって——。
だが、私たちにはもはや打つ手がなかった。
交渉するのか?それとも、最後まで抗うのか?
国家としての“尊厳”が、そう簡単に割り切れるはずもない。
ただ、一つだけ確実なことがあった。
「次に消えるのは——ニューヨークだ。」
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