5.前兆
「あれは人間に関心を持たなかった。私たちが戦争をしていても、ただ静かにそこにいた。だが――私たちは、境界を越えてしまった。」
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広島に原子爆弾が投下された1945年8月6日、午前8時15分。
当時の私は、司令本部で状況を見守っていた。
広島の空に現れた爆撃機は、高度三万フィートからゆっくりと爆弾を切り離した。
「リトルボーイ」と名付けられたその兵器は、わずか数十秒で街の中心に落下し、やがて閃光と共に世界を変えた。
巨大な火球が広島を包み込み、衝撃波が街をなぎ倒し、数万人の命が一瞬で消し飛んだ。原爆の熱と圧力が、すべてを焼き尽くしていく。
『目標地点、直撃を確認』
——だが、その時だった。
爆発を確認するために旋回していたパイロットは、いつも通りの報告を続けていたが、次の瞬間、彼の声が明らかに震え始めた。
『……何かがいる』
「どうした?」
『爆煙の中に……見える……動いている……人じゃない、あれは……!』
その言葉を最後に、通信が乱れた。
次に聞こえたのは、かつて沖縄で私が乗っていた巡洋艦が突然爆発した時と同じ、耳を引き裂くような轟音だった。
司令室の中が静まり返る。
何かが、また現れた。誰も言葉にしないが、全員がそれを感じ取っていた。
——そして、その通信を最後に、B-29「エノラ・ゲイ」は消息を絶った。
爆心地から離脱するはずの彼らの機影は、突如としてレーダーからも視界からも消えた。
そして、それと同時期。
広島上空を監視していた別部隊——高高度から作戦を観測していた偵察機群もまた、爆音と共に消えた。
爆発の規模を記録し、街の壊滅を見届けるはずだった。
だが誰も戻らず、報告書は一旦空白のまま保留された。
地上は地獄と化した。
数万人が瞬時に蒸発し、街そのものが光と熱に飲み込まれた。
だが、誰よりも早く消えたのは、空の兵士たちだった。
その後、急遽新たな偵察機が広島上空へと飛ばされ、かろうじて状況の一端が明らかになった。
地獄と化した広島に、白い霧が立ち込めていた——。
その霧は、海から静かに流れ込み、やがて広島全域を覆い尽くしていった。
爆風と炎に包まれた焼け野原に降り注ぎ、燃え盛る炎を一つ、また一つと鎮めていく。
黒焦げの大地に霧が触れた途端、そこには若草が芽吹き、炭と化した木々に再び緑が宿った。
あれほど猛々しかった炎は消え、血と鉄の匂いが薄れていく。
瓦礫の下で虫の息だった人々が、信じられないことに立ち上がり始めたのだ。
被爆したはずの人々の皮膚が再生し、焼けただれた肉体が癒え、吐血していた者が言葉を発し、目を見開いた。
死を待つしかなかった者たちが、奇跡のように生還していった。
人間に害を与えるのではなく——霧は“生かして”いた。
この報告を受けた軍の上層部は、即座に隠蔽を決定した。
原爆とは、戦争を終わらせるための“最後の一撃”でなければならなかった。
そのはずだった。
だが、その地に“神の奇跡”としか言いようのない出来事が起きたなど、公にできるはずがなかった。
だが、それは、すべての始まりに過ぎなかった。
――――――
1945年8月9日。次なる原爆投下作戦が開始された。
標的は——長崎。
「今度こそ終わらせる」
そう言い切った上層部は、広島での“異常”を踏まえ、より慎重かつ迅速な作戦を準備していた。
B-29「ボックスカー」を中心とした編隊は、午前中にテニアン島を離陸。目標地点・長崎上空へと進行を開始した。
だが——その時、事件は再び起こった。
長崎上空、投下直前。
突如として、部隊の通信が完全に途絶えたのだ。
「ボックスカー、応答せよ!」
「こちら司令部、どうした!?状況を報告せよ!」
応答はない。
代わりに、ノイズ混じりの通信回線に、わずかに割り込んできた“声”があった。
『……奴が……見ている……』
——沈黙。
そのまま、ボックスカーを含む全編隊が行方不明となり――長崎への原爆投下は失敗に終わった。
――――――
その後、不可解な事件が相次いだ。
長崎での原爆作戦失敗から、わずか数日——太平洋に展開していたアメリカ艦隊が、次々と“失踪”し始めた。
当初は、誰もがそれを事故だと考えた。
荒れた海、進路を外れた台風、あるいは敵の潜水艦の攻撃。
だが、すぐに、それが単なる自然災害や敵の戦術ではないと気づかされた。
南太平洋で活動していた第58任務部隊——艦艇十数隻、乗員数千名。
彼らは突如として、無線も救難信号も発せず、海図上から“消えた”。
応答のない部隊を捜索すべく出航した巡洋艦も、ほどなくして連絡を絶つ。
後に確認されたのは、海面を漂う数片の鉄片と、焼け焦げたライフベストのみ。
続いて、ミッドウェー付近を巡回していた空母が失踪。
さらには、ハワイとグアムを結ぶ航路で駆逐艦が、硫黄島近海で潜水艦が——。
そして、艦船が失踪する直前、無線に残された恐怖に満ちた断片的な音声だけが、彼らの“最後”を物語っていた。
『……見えない……霧が……』
『何かが……いる……!』
『駄目だ、逃げろ……!』
『海が……割れて……』
『でかい……でかすぎる……!』
『神よ、助けてくれ!!!』
報告を受けた軍上層部は、言葉を失った。
日本海軍はすでに壊滅状態。
制海権はアメリカの手中にあるはずだった。
それなのに、敵の姿すら確認できぬまま、艦隊だけが音もなく消えていく。
やがて、各地の失踪地点、記録された日付、通信の痕跡を洗い直した分析班が、ひとつの“答え”にたどり着いた。
——海の中で、何かが動いている。
それは、確実に太平洋を“横断”していた。
軍の間に、静かな恐慌が広がっていた。
日本が戦争を始めた時、あれは動かなかった。
だが、沖縄が戦場になった時、あれは動いた。
そして今、艦隊を次々と沈めながら、ゆっくりと確実に、こちらに向かっている。
それまで、あれは我々を“見ているだけ”だったが、広島を焼いたその瞬間、何かが変わったのだ。
……霧影は、何かを“感じ取り”、何かを“理解した”。
もはや、あれは“徘徊するだけの奇妙な存在”ではない。
意思を持ち、選び、裁こうとしているかのようだった。
急進派も、確保派も、ついに気づいた。
霧影は、我々の掌には収まらない。
軍はようやく“駆除作戦”の開始を求めたが、その時点ではすでに手遅れだった。
戦場は、静かに、そして不可逆に“こちら側”へ移り始めていた。
私は、背筋を冷たいものが這い上がっていくのを感じていた。
これはまだ——惨劇の“序章”に過ぎないのではないか?
奴が、迫っていた。
確実に。ゆっくりと。
だが——止めようのない力で。
アメリカへ向かって。
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