その後
その数日後、マリウスと私は予定より早めの同棲を開始した。私の大学卒業を待って、近しい親族と友人のみを招いたささやかな式を挙げることが決まっている。その分、披露宴は出産後に盛大に行うということで、両家の親たちの張り切りぶりが今から少し不安になる。
マリウスのペントハウスは大学からは少し遠いけれど、どうせ卒業式までの短期間だからと、彼が車で送迎してくれることになった。逆に以前からのアルバイト先で、産後の就職先となる某NGO本部にはほど近く、今後の環境としてはむしろ楽になるので、そちら方面でも嬉しいことではあった。
他に私自身の目立った変化と言えば、妊娠したせいか、例の蜂蜜入り化粧品が肌に合わなくなったことである。妹の死の記憶に直結してしまう品なので、その存在を受け入れることを難しく思う心の影響も大きいのかもしれない。あの日に大泣きしてすっきりしたと思っていたけれど、やはりまだ全部は拭いきれていないのだろう。
その後の父は、仕事こそ今まで通りに──やや機械的ながらこなしているとは言え、休憩時間やプライベートでは半分廃人のようになっているらしい。
チャールズによれば、「この前見かけた時は、『違う……あれは私のせいじゃない、私は何も悪くないんだ……ただ、それまで父親らしいことをしてやれなかった償いをしたくて、アニカの欲しがるものは全て与えてやろうと思っただけなんだ……!』とか何とか小声でほざいてたな」だそうなので、気力が抜けきっていても悪い意味で相変わらずのようだ。
それならそれで、ただ新品を買い与えてやれば済んだだけの話なのに、何故あえて私の使い古しを取り上げる必要があったのか、訊かれたらどう答えるつもりなのだろうか。きっと筋道の通った答えは得られないだろうし、そもそも訊く機会もなければその予定もないのだけれど。
義母は義母で、あれほど好んでいた社交界にもふっつりと顔を出さなくなったという。良くも悪くも噂になっていないあたり、逆に生きてはいるのだろう。娘の死の直後に母親にまで何かがあったとなれば、どんなものであれ噂雀の口に上らないはずがないから。
「それでディアナ、体調はどう? 経過は順調だとは聞いてるけど、そろそろつわりが始まる頃よね。もしかして寝不足だったりするの?」
そう訊いてきたのは、長年の親友であるシーラだった。弁護士を目指して奮闘中の彼女は、九月からロースクールへの進学が決定しており、その準備に多忙な合間を縫って訪ねてきてくれたのだ。
一応、式の打ち合わせも兼ねているのだが、それを終えるや否やそんな問いかけをされてしまったあたり、自覚はないものの顔色があまり良くないのかもしれない。
「体調は問題ないわ。……ただ、少し悩み事と言うか……」
「悩み事、ねえ……『もしもお腹の子が女の子だったとしたら、母親としてきちんと接することができるかしら』みたいな?」
「……うん。実はそうなの」
流石は親友と言うべきか、思考を読んだかのような言葉だった。
マタニティブルーと言えばそうなのかもしれないが、腹違いとは言え妹に対してまともな対応ができなかったのに、娘にしっかりと躾ができるのか。場合によっては厳しくしすぎて手を上げたりしてしまわないか、或いは逆に、父や義母のように、娘を叱るという選択肢そのものを消し去ってしまうことも有り得るかもしれない──そんな不安が次々に湧き出てきてしまう。
マリウスはそんな心配は杞憂だと、力強く請け負ってはくれるのだけれど……
「そうねえ。貴女はともかく旦那様の方は、妻そっくりの娘が生まれたりしたら、とんでもなく過保護で激甘になりそうだけど」
「シーラ……」
「あら、割と本気で言ってるのよ? それはともかく、貴女でなくとも、あの両親付きのあの妹を真っ当に更生させるなんて、誰であっても不可能だったわよ。親としての教育の責任を完全放棄しただけじゃなく、別方向の英才教育を施されてもいたんだから、たった三歳しか違わない姉にどうにかできたはずがないわ。そういうわけだから、ただ姉だからっておかしな責任を背負い込もうとするのは金輪際やめなさい。お腹の子にも良くないでしょ?」
「……ええと。責任は責任でも、姉としてじゃなくて親としてと言うか、どうしても気にかかってしかたなくて」
「まあそこは当然ね。でもその心配の根源がアニカなんだし、結局は同じことよ。ローランドにせよブライトにせよ、いくら子供が可愛いからって無制限に甘やかすのを許す面々じゃないんだから、そういう不安は存分に親戚たちに吐き出せばいいわ。ありえないでしょうけど、もし仮にディアナが親としてやらかしたとしたなら、私が責任をもって容赦なく叱りつけてあげるから楽しみにしてなさい」
「……シーラ……」
頼もしすぎる笑顔と態度に、じんわりと目に涙がにじんでしまう。
「ありがとう、シーラ。愛してるわ」
「ディアナったら。私も貴女を心から愛してるけど、そういうことは未来の旦那様にもちゃんと言ってあげるのよ? そうでないと私が嫉妬されて大変な目に遭いそうだし」
「人聞きが悪いな。未来の妻の親友にそんなことをするわけがないのに。チャールズもそう思うだろう?」
「いやー、マリウスだから否定できないな。何せ俺に対してだけでも、前科があれこれとあるわけだから」
聞き馴れた二つの声がして、私は笑顔でそちらを振り返った。
目の端では、シーラがモデル並みの美貌を露骨に引きつらせていたけれど。
「お帰りなさい、マリウス。チャールズも一緒だったのね。いらっしゃい」
「面倒な人が来たわね……ディアナ、打ち合わせも終わったことだし私はもう帰るわ。マリウスさんも、お帰り早々に申し訳ないけれど失礼します」
「それなら俺が送っていくよ。従妹の親友を一人で帰すわけにはいかないからね。ディアナの元気そうな顔はもう見られたし」
「結・構・です! ブライト・グループ次期総帥閣下のお手を煩わせるなんて冗談じゃありませんもの」
「確かに、俺の申し出は冗談でも何でもなく本気だよ。さ、行こうかシーラ。車までエスコートしよう」
「ですから結構ですってば! はっきり言わせていただくと、しつこい男性は嫌いなんです!」
「ふうん? なら君は、嫌いな男にあんな風にベッドで甘え──」
「ストップ! セクハラかつプライバシーの侵害ですよ!?」
言い寄るチャールズと撥ね付けようとするシーラという、いつもの光景を久しぶりに目の当たりにして、ついつい笑ってしまう私たちだった。
二人を送り出してからマリウスが言う。
「見ている限り、シーラもチャールズを憎からず思っている風だね」
「ええ。少し構いたがりのきらいはあっても、シーラが一人前の弁護士になるまで待つだけの余裕や意思を、チャールズは持っているでしょうから。お似合いだと思うのだけど……」
「まあ、こればかりは第三者が不必要にどうこう言う問題でもないし、放っておこう。下手に何かをすると、馬に蹴られるよりもきつい仕返しをされかねない二人でもあるし」
「ふふ、そうね」
肩をすくめる恋人兼未来の夫と、私はとても穏やかな気分で微笑を交わし合うのだった。
そして、それから二十五年後。
ローランド家の長女が嫁ぐ日の前夜、母親に対して、育ててくれたお礼を一つベッドの中で告げ、母娘揃って心からの涙を流すことを、この時知る者は誰もいなかった。
お読みいただきありがとうございました。
アニカが死に至る発端はいつどの時点からだったのか、そこから今に至るまで、避ける道があったとすればどこなのか等、色々と考えていただければと思います。
ちなみに、マリウスからの「大変な目」=対シーラ:チャールズを軽くけしかける、対チャールズ:彼をディアナとブライト家の面々のお茶会から締め出す、という感じなので、さほど極端なことはしません。相手次第のところはありますが。