第六十九話 幕間:数字が、合わない
飲まれた土地の冬は、借り物の匂いがした。
駐屯地はもとは誰かの村だった。
広場も井戸も石の塀も、ランバルトが作ったものは一つもない。
ただ、旗だけが新しかった。
守備隊長のドランは、朝いちばんに二枚の紙を並べた。
一枚は、上に出す紙。
一枚は、本当の紙。
上に出す紙には、順調、と書く。滞りなし、と書く。冬営、恙なし、と書く。
本当の紙には、脱走の数が書いてある。
去年の倍だった。東の隣の駐屯地は三倍だという。
ドランはその差を長いこと見ていた。
◇
悪い数字をそのまま上に出した男がどうなるか。ドランは知っていた。
名前を三つ言える。三人とも、もういない。
だから、この差は埋めなければならなかった。
隠すのではない。埋める。
数字そのものを減らす。
脱走は、面会の日に生まれる。
柵の向こうに家族が来る。銅貨のない手で、握り飯を一つ持って来る。
そして柵越しに話が伝わる。
誰それの家は扶持を切られた。誰それの息子は戦死の紙が来た。生きているはずの息子の、戦死の紙が。
その話が柵を越える。 越えて、兵の耳に入る。入った兵が、夜に消える。
ドランは柵を高くした。見張りを倍にした。面会の日を月に一度に減らした。 数字は減らなかった。
◇
一人、捕まえた。
柵を越えようとした若い兵だった。故郷は二つ谷を越えた村。母親と妹がいる、と紙にあった。
決まりでは、戦死処理にして支給を切る。それで終いだ。殺しはしない。
末端の兵を一人ずつ殺す手間を、この国はかけない。
ドランは、決まりの通りにしなかった。
村へ人を出した。母親と妹を柵の前に立たせた。
それから若い兵を、みなの見ている前で処理した。面会の日に。
声は張らなかった。演説もしなかった。ただ静かに済ませた。署名を一つするのと、同じ速さで。
これで止まる。
恐怖を知った人間は逃げない。この国はそれで十五年回ってきた。ドランはそう教わってきた。
翌朝、本当の紙の脱走の欄が一つ閉じた。 数字が、合った。
◇
ドランは、見ていなかった。
柵の前に、あの日、何人が立っていたかを。
処理された兵の妹の隣に立っていた女が、誰の母だったかを。
その女のもう一人の息子が、今どこの柵の内側にいるかを。
柵は、話を運ぶ。
扶持を切られた話を運んだ柵は、見せしめにされた話も運ぶ。同じ速さで。谷を越えて、山を越えて、まだ触れられていない家へ。次男のいる家へ。従兄弟のいる家へ。婿のいる家へ。
一つ閉じた数字の向こうで、十の点が、打たれた。 ドランには、見えない点だった。
◇
ドランは上に出す紙を取った。
順調、と書いた。滞りなし、と書いた。 迷いはなかった。数字は合っている。合っている数字を疑う理由がない。
紙は伝令に渡り、街道を北へ上っていった。石の色の街へ。
年の締めの帳簿を毎朝読む男のところへ。
窓の外で雪が降っていた。 借り物の村に、音もなく積もっていった。柵の外にも降っているはずだった。母親の家の屋根にも。まだ触れられていない、四百の家の屋根にも。
ドランは火鉢に手をかざした。
炭が一つ、崩れる。 数字は合っている。
合った数字は、ドランの見ていない場所で育っていた。




