第六話:首から下げた憧れ
ボードが定着して二週間ほど経った頃には、出発前に情報共有ボードを確認する冒険者も増えていた。
討伐確認。通行止め。危険情報。
最初の三日間は誰も見向きもしなかった板だ。今では、依頼書を取る前に一度立ち止まる人間もいる。
少なくとも、「知らなかった」で怪我をすることは減り始めていた。
その朝、見慣れない茶髪がボードの前で腕を組んでいた。新人のトールだ。登録してまだ数日しか経っていない。
新人は大抵、依頼書しか見ない。報酬額、危険度、討伐対象。それだけ確認して飛び出していく。
でもトールは、しばらくボードの前に立っていた。
「何かありましたか」
「あ、ケンジさん」
トールが振り返る。
「昨日行こうとしてた場所、もう討伐確認済みだったんですね」
指差した先には、今朝更新した紙。
《東街道第二区画》灰牙狼 討伐確認
「危なかったです」
「新人一人で行く依頼ではありません」
トールが少し止まった。
「……え?」
「昨日、鉄級が二組入っています」
私は地図を広げた。
「夜になると群れが動きます。帰りが遅れたら、街道で遭遇します」
トールが黙る。ようやく危険度を理解した顔だった。
「気づいてよかったです」
トールが改めてボードを見上げた。
「最初、何のためにあるかわかんなかったんですけど」
「はい」
「これ、めちゃくちゃ便利ですね」
少し離れた場所を、カーラが横切った。いつものようにボードを確認し、小さく何かを書き留め、そのまま外へ向かう。
トールがその背中を見る。
「あの人、毎朝いますよね」
「カーラさんです。鉄級です」
「やっぱ強そうだなあ……」
その言い方が少し子供っぽかった。
「俺も早くああなりたいです」
なれるかもしれない。でも今は言わなかった。
「まず今日の依頼を終わらせてください」
「そうですね! これ三枚いこうと思ってます!」
差し出された依頼書を見て、私は黙って地図を広げた。
北の森、東街道、南の農村。全部、方角が違う。
「トール、この三枚の場所は確認しましたか」
「しました! 全部回れます!」
「北から南まで徒歩で半日以上かかります。三枚目に着く頃には日が暮れます」
トールが少し止まった。
「……でも報酬がいいの、この三枚なんですよ」
「無理をして怪我をすると、次の日の依頼が受けられなくなります」
「でも、早く上に行きたいんです」
その言葉だけ、少し強かった。
私は依頼ボードから二枚抜き取った。
「この二枚なら東街道沿いです。移動距離が短い分、帰還も早くなります」
「それだと報酬減ります」
「今日は、です」
トールが不満そうに息を吐いた。その拍子に、服の中から小さな革袋が揺れた。古びた革袋で、首から革紐で下がっていた。
「お守りですか」
トールが少し止まった。それから革袋を握る。
「……昔もらったんです」
「何を」
「花です」
トールが少し照れくさそうに笑った。
「子供の頃、病弱で」
革袋を軽く叩く。
「よく冒険者の人が薬草届けてくれてたんです」
「薬草を」
「毎回、花も一緒だったんですよ」
「優しい人だったんですね」
「薬草だけだと、子供怖がるだろって」
トールが少し笑った。
「ある日から来なくなったんですけど」
それ以上は聞かなかった。ギルドでは珍しくない。帰ってこない冒険者は多い。
死んだのか。別の土地へ行ったのか。引退したのか。
誰にもわからないまま終わることもある。
私は依頼書を二枚、トールに返した。
「まずは今日、帰ってきてください」
トールが少しだけ笑った。
「……わかりました」
それでも少し不満そうな顔のまま、依頼書を持って出ていく。素直なのか、素直じゃないのか、よくわからないやつだと思った。
◇
夕方、トールは泥だらけで帰ってきた。怪我はない。
依頼完了の紙を二枚、カウンターに置く。
「終わりました」
「お疲れ様です」
水を出すと、トールが一気に飲み干した。
「……生き返る」
「討伐中も飲んでください」
「え、でも先輩たち、動き鈍くなるって——」
「水分が足りなくなると、判断力が落ちます」
報告書を確認しながら言った。
「怪我もしやすくなります」
トールが少し止まる。
「……じゃあ今まで損してたってことですか」
「若いうちは無理できます。でも無理が続くわけではありません」
「でも先輩たち、普通に無茶してますよ」
「その先輩たち、今何級ですか」
トールが黙る。
「……鉄級が多いです」
「何年目ですか」
「五年とか、七年とか」
私はそれ以上言わなかった。
少ししてから、トールが「あ」と小さく声を出した。
「たくさん動いたら、食べて、寝て、水を飲む。それだけです」
「……なんか、冒険者っぽくないですね」
「長く続ける方が難しいんですよ」
トールが少し首を傾げた。
「でも冒険者って、魔力で無理やり動けるじゃないですか」
「限界を誤魔化してるだけです」
トールが止まる。
「……あ」
「壊れる時は一気に壊れます」
奥で帳簿を整理していたマーサさんが、小さく吹き出した。
トールは少し考え込んでから、小さな手帳を取り出した。
「何を書いてるんですか」
「忘れないようにです」
真面目だな。
「ありがとうございます、ケンジさん」
「どういたしまして」
トールは手帳を閉じたあと、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえばケンジさんって、魔力使えるんですか?」
「ほとんど使えません」
「え」
予想外だったらしい。
「でも、なんか詳しいじゃないですか」
「本で読んだ知識と観察です」
トールが少し首を傾げる。
「でも実際に使わないと、わかんないこともありません?」
……それは、そうだ。悔しいけど正しい。
「そうかもしれませんね」
「じゃあ練習してみたらどうです?」
「考えておきます」
トールが笑った。そのまま手を振って帰っていく。
考えておきます、か。
でも実際、少しだけ気になり始めていた。体の仕組みは理解している。疲労も、怪我も、呼吸も。でも魔力だけは、実際に触れたことがない。
知らないまま、人に教え続けるのは違う気がした。
今度、ガドに聞いてみようと思った。




