涼やかな響
ぎらぎらと空は高らかに晴れて、肌を焦がす強い紫外線(ひかり)が降り注ぐと、一斉に蝉(せみ)が鳴き出し、じっと、汗も噴き出てくるようで。
昼中日(ひるひなか)にどこからか朝顔の香りも漂(ただよ)い、夏鈴(かりん)が目深(まぶか)に被(かぶ)った麦わら帽子からでも、額から大粒の雫(しずく)がこぼれる。かなり伸びた髪が、二年という経過(とき)を感じさせられ、栗毛もきらきらと輝き、夏も真っ盛りという装(よそお)い。
森の中はまだひんやりとしていて、涼しい気(げ)なそよ風が流れる。
それだのにナツと言えば相も変わらずあの被り物をしていて、見ているだけで暑苦しい。夏鈴はそれでも汗一つ掻(か)かない彼はやはり妖怪(ようかい)なのだと再認識する。
心の裡(うち)では、変な被り者が好きな青年と思っていたので、勝手に衝撃(しょうげき)を受けるに至(いた)る。
「やあ、ノロイの。またその人間と一緒にいるのか」
「ああ、猫のジロウか。次は俺が勝つ」
「何の話ですか?」
「駆けっこだよ。こいつはボクよりも足が遅くてね。どうだい、ボクのほうが格好いいだろう」
「ふん。四つ足だから勝てただけさ。次やったら俺が勝つ」
「そう言って最近は負けてばかりだろう?」
妖怪達の一部は彼のことをノロイのと言う。
夏鈴は最初何のことか分からなかったが、駆けっこという言葉から、きっと足が遅いから『鈍い』とかけて、ノロイのと呼ばれているのだろうと思った。
彼女はうーんと、思案(しあん)しながら左右に顔を振っていると、ジロウと呼ばれた二尾(にび)の猫の瞳(ひとみ)が怪しく光っていることに気が付かなかった。が、何やら尻を高く上げ、体勢を低くして、今にも飛びかかってきそうな――。
「うわぁっ」
そのでかい猫は夏鈴のおさげに向かって飛びかかってきたのであって、そのままバタンと後方(うしろ)へと倒れ伏すことになった。尻餅(しりもち)をついたのはちょっと傷みを感じたが、ふんわりとした体毛と、ぷにぷにした感触が妙にこそばゆかった。ジロウはすぐさま彼女から離れると、申し訳なさそうに謝るのであった。
「ご、ごめんなさい。その、ふらふらとしているものを見ていたら、つい」
「いえ、怪我も無かったので大丈夫ですよ」
「何をやっているんだお前達? 大方こいつの髪の毛が猫じゃらしか獲物にでも見えたのだろう」
「本当にごめん。どうすれば許して貰えるかな?」
などと、悪さをした犬のように、地面に伏して顔を隠すのだから可愛らしい。
夏鈴は少し考えると、こう切り出したのだった。
「じゃあ、その肉球を触らせて下さい!!」
ナツはその怪しい被り物とは裏腹(うらはら)に、それなりに慕われているらしく、扮装(みなり)は余り気にしていないようだった。それが夏鈴にはちょっと嬉しく、そしてちょっと寂しくもあった。
ナツ曰く、『基本は気の良いやつばかりだが、中には危険なやつもいる。お前はそそっかしいから気をつけるように』だそうだ。
「わたしね。中学と高校に行くために町の方へ行くことになったの。だけど、だけど長い休みの度にこっちに戻ってくるから! だからわたしのこと、忘れないでね」
「そうか。煩(うるさ)いやつが来なくなってせいせいするな」
「もう、ナツったらひどい」
「……お前に、これをやるよ」
すっと、何かを取り出すと、夏鈴の手の平に乗せる。
小さくて、丸く、銀色をした物。
「鈴?」
「お前夏鈴って言うんだろう?」
「だから鈴?」
「ああ、丁度良いだろう。その中に入っている石はちょっと珍しい物で、それが鳴ればお前が来たってすぐに分かる」
「ふふーん」
「なんだ?」
「ううん。なんでも」
素直じゃないと、夏鈴は思った。
りぃぃんと。
その鈴は、とても涼やかで、綺麗な音を響かせる。
どこかで聞いたことがあるような、懐かしい音。
それからも長い休みになれば必ず彼の元を訪れる。
それを織姫(おりひめ)と彦星(ひこぼし)のようだなどと言ってみれば、鼻で笑われたりもしたが。
「リン。また来たのか?」
大きく変わったのは、ナツが夏鈴の名前を呼ぶようになったこと。
それだけでどこか彼に近付いた気がする。
だけど――
――自分は彼のことを何も知らない。
ナツと過ごしているうちに、彼のことをもっともっと知りたいと思った。
近付けば近付くほど、関われば関わるほど、知りたいという気持ちが強くなる。
でも、知ってしまえば、ナツは消えてしまうのだ。まるでヤマアラシのジレンマのよう。
ふと、時折、無性に彼のことを考えてしまう。
どうしようもなく、ああ、今何をしているのだろう、とか。
ああ、彼はどんな物が好きなのだろうか。
ああ、彼はどんな顔をしているのだろうか。
ああ、彼の本当の名前は何なのだろうか。
夏祭りにも連れて行ってくれた。
川で釣りもした。
たくさん、彼と一緒に遊んだ。
たくさん、おしゃべりだってした。
でも、彼は自分の話を聞くだけで、自身のことは何も話してくれない。
どれだけ距離が近付いても、遠い……。
それがたまらなく苦しかった――
高校になるともう一つ変化が訪れる。
いつ頃からかナツが長袖を着込んでいるのだ。
夏鈴があげた手袋をして、そして彼女からちょっと距離を置いているようにも見える。
あれほど近かったのに、また遠くなっていった。
それが彼女には、彼がどこかへ行ってしまいそうで、怖い。
「えへへへ」
「なんだ、気色悪いな」
「ほら、わたしおっきくなったでしょう。もしかしたらナツだって追い抜くかも知れないよ? そしたらもうナツはわたしを見下ろしたり出来なくなるんだよ」
夏鈴とナツの時間は違っているようで、どんどんと成長していく彼女と比べて、彼はまったく変わっていないようだった。
「あれは見下ろしていたんじゃない。リンが突進してこないか注意していたんだ。リンは喜ぶとすぐに頭突きをしてくるからな」
「ぐっ、それは……ごめんなさぃ。でも、今は突進してないから!」
「当たり前だ。今のお前で突進されたら怪我するだろう」
ということは、受け止めてくれるのだろうかと、夏鈴はなんとなく思った。
だけど、近付いていった距離は、段々と離れて行く。
心が近付く度に、彼は距離を取っているような気がした。
「なんだかナツはわたしに近づきたくないみたい」
「なんだそれ? まあ、ちょっと恥ずかしいのさ。こんなにも大きな子どもと一緒にいるなんて」
「もう!」
夏鈴の視線は、今ではナツと同じ場所にあった。
あれほど背が高くて、大人びていて、ちょっと捻くれていた彼が、夏鈴も今では同じくらいの高さで、同じくらい大人びて、ちょっと騒がしいところが収まった、ような気がした。
清涼(せいりょう)な川の畔(ほとり)に、靴を脱ぎ、足を水の中へと突っ込み、涼んでいたのだけれども、近くの岩場で釣りをしているナツを見ていたら、つい、忘れていた悪戯心が呼び戻ってきて、ちょっとだけ驚かせてやろうかなどと考えていたのだけれども、以前同じことをして、二人で川に落ちたことを思い出し、確かその後こっぴどく彼に叱られたのだった。
ぐっと、胸の裡(うち)に落ちた悪心(あくしん)を押さえ込む夏鈴の。
まあ、腕を掴(つか)むくらいなら良いだろうと、そろそろとナツの側(そば)までやってきたのであった。
「ナツ、釣れる?」
と、後ろからそっとナツの腕を握(にぎ)って見せたのだけれども、怖気(ぞっと)するくらい、冷たい。
あの暖かかった記憶とは真逆(まぎゃく)の、なんて冷たい腕なのだろうかと夏鈴は思った。まるで、炭のような、硬くて、細い、そんな腕。
ナツは夏鈴の動揺(どうよう)を知ってか知らずか、あくまでも平静に保っているように見えるが、彼女の指先に震えが伝わる。夏鈴が取った行動は、笑顔を崩さず、ナツに悟(さと)られず、自然に接するということだった。
「ぜんぜん釣れていないみたいだね」
「まあ、こんな日もある」
彼がそう言うと、浮きがとぷんと沈む。
「あっ、引いてるよ!」
「よし。ちょっと離れてくれ。釣り上げる」
くっ、と釣り竿をしならせると、ぴんと張られた糸が緩んだ。
釣り針が川から飛び出すと、そこには練(ね)り餌(え)を取られた、針だけが出てきたのであった。
「餌だけとられちゃったね」
「ああ、見事に逃げられてしまったようだ」
夏鈴の顔と、ナツの仮面が見合わせると、二人して笑った。
ナツはこれでお終いとばかりに釣り竿を仕舞(しま)う。
「じきに暗くなる。今日は終わりだな」
背を向けるナツに夏鈴が裾(すそ)を掴む。
迷子になったときにそうして貰ったように、ちょこんと、彼は振り払うことなくじっと止まっていた。
「ねぇ、麓(ふもと)までこうしていても良い?」
「ああ」
「ねぇ、ナツはどこかに行ったりしないよね?」
「…………俺はどこにもいないし、誰でもない。だから、いないのと一緒だ」
「だから、消えてしまってもいいって思っているの?」
「消えやしないさ。ナツは、消えない。リンに返すだけさ」
「だから、忘れろって言いたいの?」
「忘れろなんて言わないさ。だって、リンは忘れるほど俺のことを知らないだろう?」
「ずるいよ……」
「なにがだ?」
「その言い方。わたしが反論できないって知っているもん」
「ああそうだ。俺はずるいんだ。良かったな、一つ知ることが出来たぞ」
「もうっ、からかわないでよ」
「…………なあリン。俺の名前を呼んでくれないか」
「ナツ。何度だって呼ぶよ。ナツ」
なにも答えないナツは、仮面を抑える。
きっと、彼が呼んで欲しいのは、本当の名前。
夏鈴はナツに付けた名前を何度も、何度も呼び続ける、その背中に向かって。
――ああ、彼は今、どんな表情(かお)をしているのだろう。
自分は、どんな表情(かお)をしているのだろう。
もっと、彼のことが知りたい。
でも、踏み込めば彼を傷つけてしまいそうで。
それでも、教えて欲しいと、叫びたかった。
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