一 来訪者
春の風が、演武場の上を渡っていった。
崖に沿って張り出した回廊には、数日後に迫った大斎会のため、五色の幡が新しく掛けられている。朝からそれを眺めていた秋穂は、青い布が風を孕んで大きく翻るのを見て、何とも愉快な気分になった。
十年に一度の祭りである。
北天の膝元で催される大斎会ともなれば、故郷の天狗たちが催す春祭りとは随分勝手が違うだろう。斎戒もあれば、厳粛な供養や祈願も行われる。しかし、その祭事が済めば街には市が立ち、諸国から集まった人々で夜更けまで賑わうという。花を飾った通りを歩き、珍しいものでも食べ、酒に酔った天人たちが歌舞を始めるのを眺めるだけでも楽しそうだった。
できることなら、祭りの間くらいは講義も稽古もすべて休みにしてもらいたい。
もっとも、そう考えているのは秋穂だけではないらしい。演武場に集まった学生たちも、稽古の合間にあちらこちらへ目を向け、師範に叱責されては慌てて姿勢を正している。
その中で、ただ一人、祭りにも周囲の喧騒にも関心を示さず、黙々と立ち合っている娘がいた。
薄い灰青の上衣に濃い袴という、北院から支給された男物の稽古着を身にまとい、黒髪を肩口で切り揃えた渚の姿は、小柄な少年にも見える。見かけは十二、三ほどだろうか。冬先に直した袖が早くも短くなり、手首が覗いているのを、秋穂は少し前から気にしていた。
「またでかくなったよな、あいつ」
隣に座る清が、秋穂の視線を追った。
「そうかな。毎日見てるから、あまり分からないけど」
「袖が合ってないだろ。冬に直したばっかりなのに。あいつ、人のつもりで生きてるんじゃないか?」
天上において、見た目の年齢と本当の歳は一致しない。畜生道の生き物が大抵、人間より短命なように、天道に類する天格をもつ神仙や妖魔、神獣はえてして長命であり、時には不老不死に近い寿命を持つせいか成長速度もまちまちだ。
それなのに渚は人のように成長を続けている。昔は周囲と十近く歳が離れて見えていたのに、今では同輩の中に紛れても年少な気がしない。
「そう急いで大人になられると、秋穂が弟分になっちゃうからね」
隣で笑う清を横目に、秋穂はため息をつく。ーー全くその通りなのだ。
演武場では、渚の相手をしていた学生が上段へ刀を構え直していた。
その日は鬼器を用いた応用稽古である。北院で定められた型の範囲で、実際の得物を用いて立ち合う。初歩の稽古であれば竹刀や稽古槍を使うが、今朝は師範の監督の下、それぞれの鬼器を用いることが許されていた。
秋穂は頬杖をつき、二人の立ち合いを眺めた。
渚が勝つことは、初めから分かっている。
実際、手合わせが始まると、相手の学生はたちまち苦境に立たされた。渚は刀を受けるでもなく、ただ僅かに身をずらして間合いを外す。続けて手中の得物が形を変え、長く伸びた柄が相手の脇へ回り込んだ。
演武場のあちこちで息を呑む気配がした。
相手の学生が辛うじて身を退くと、今度は別の得物がその退路を塞ぐ。打ち合うたびに武器の長さも形も変わり、相手は間合いを測り直す暇さえ与えられなかった。
秋穂には見慣れた光景である。
渚は初めの頃、型稽古をひどく苦手としていた。足の置き場を気にすれば相手を見失い、打ち筋を確かめようとすれば間合いを詰められる。実戦では恐ろしいほど自在に身体を操るくせに、決められた動きを繰り返せと言われると、途端に手足がぎこちなくなるのだ。
稽古の後、秋穂と清が付き合って幾度も型をさらわせたものだった。
同じところで何度も間違え、清が辛抱強く教え直し、秋穂が稽古の相手になる。そんなことを繰り返すうちに、渚はいつの間にか、型を崩さずに己の戦い方を通すようになっていた。
秋穂は頬杖をついたまま、少しばかり口を尖らせた。あれほど教えてやったのに、今となってはこちらが勝ち切るのがやっと。時には三本やって全部取られることもある。
もっとも、当の渚に上達したという実感があるのかどうかは、甚だ怪しかった。
一方、周囲の学生たちはそうでもないらしい。
渚の得物が変わるたび、面白そうに身を乗り出す者がおり、目を細め、何が起きたのか見極めようとする者もいる。相手の学生が退くたびに、期待を裏切られたように顔をしかめる者までいた。
中には、じっと口を結び、悔しそうな顔で自分の手元へ目を落とす者もいる。
渚の強さを認めることと、それを快く思うことは、別の話なのだろう。
出自の知れぬ鬼の娘が、北院の学生たちを次々と負かしている。
その事実を面白く思わない者がいることくらい、秋穂にも分かっていた。
しかし、それで渚の手が弱まるわけではない。
「決まるな」
清が呟いた。
次の瞬間、渚の得物が相手の身体のすぐ脇で止まった。
師範が勝負を制する。
張り詰めていた演武場の空気が解け、どこかから感嘆の声が漏れた。渚は相手へ一礼すると、手の中の得物を元の姿へ戻した。
負けた学生はしばらく動かなかったが、やがて悔しそうに頭を下げた。
秋穂はその様子を見ながら、少しだけ眉を寄せた。
渚自身は、勝っても負けても大して顔色を変えない。自分の勝利が周囲にどのように受け止められているかについても、どうやら無頓着らしい。
それを気楽な性分だと片付けてしまえば、それまでであるが、秋穂には、時折それが危なっかしく思える。
「おい、渚」
呼ぶと、娘が振り返った。
「祭りの日、何かしたいことあるか?」
わずかに浮いた汗を拭いながら渚は少し考えた。
「……祭り?」
「そう。下の街へ行くんだよ。清も来るだろ」
「うん。都合がつけばね」
清が答えたので、渚は二人の顔を交互に見た。
「じゃあ、私も行く」
いかにも簡単な返事に、秋穂は口を開きかけ、しかし何となく気が変わって閉じた。
こいつが自分で何をしたいと言い出す日が、果たして来るのだろうか。
そう考えていた時だった。
遠くで鋭い警笛が鳴った。
ひとつ。
間を置かず、もうひとつ。
演武場にいた学生たちが、一斉に顔を上げた。
「外郭か?」
近くにいた学生の一人が言う。
水晶宮は二重の郭に守られている。飛翔する者の多い須弥山では、城壁を高くしただけでは防壁にならない。外郭には常時弓兵が配置され、要所には大弩まで据えられている。
飛び越えること自体は難しくないが、許しなく越えれば射落とされるのだ。
師範たちも、警笛の聞こえた方角を見上げた。崖へ迫り出した堂の屋根や回廊には、いつの間にか幾つかの人影が集まっている。
その向こうから、小さな影が飛び出した。
いや、飛んでいるというには危なっかしい。片方の翼をばたつかせ、瓦屋根の縁へ脚をぶつけながら、半ば転がるようにこちらへ向かってくる。
後方では衛兵が怒号を上げていた。
風に乗って、言葉にならない幼い泣き声が聞こえた。
「……子供?」
秋穂は目を凝らした。
灰色に近い白い翼。濃灰色の斑模様。片翼には血が滲み、羽根の間から折れた矢柄が覗いている。
あれでは長く飛べまい。
そう思った直後、小さな身体が大きく傾いた。
屋根の端へ翼を引っ掛け、そのまま中庭へ落ちていく。
植え込みが激しく揺れ、枝の折れる音がした。
◇
演武場は、しばらく静まり返っていた。
師範たちが杖を片手に藪へ駆け寄り、後を追ってきた衛兵も次々と集まってくる。学生たちは遠巻きに様子を窺い、何が起きたのかと口々に囁き合っていた。
秋穂は、厄介なことになったと思った。
祭りの直前に外郭へ侵入する者が現れたのである。相手が子供とはいえ事件に違いない。それにあの翼……。できることなら、さっさと寮へ戻って昼寝でもしたかった。
ところが、藪の傍にいた師範が、こちらを振り返った。
「深山、白川。少し来てくれ!」
秋穂は顔をしかめた。
清と揃って呼び出されるとは、ますます嫌な予感がする。
仕方なく歩み寄ると、衛兵に取り囲まれた小さな子供がいた。
八つか九つほどの男児である。
身に纏った灰褐色の布は麻よりも目が粗く、肘と膝には別の布で継ぎが当てられている。片膝だけが妙に鮮やかな藍色で、何とも不揃いな衣だった。
背中には、血に濡れた翼がある。
さらに目を引いたのは脚だった。膝から下が鷲のような形を残し、その表面には青灰色の鱗が浮いている。
「龍鱗だ」
清が小さく言った。
「こっちは天狗だな」
秋穂は翼を見た。
天狗と龍の混血だろう。
人型を取り切れない程度の霊力であるあたり、須弥山に日常的に出入りするような位の天狗ではないことは誰の目にも明らかだ。
「一応確認だが、お前たちの縁者か、従僕ではないか?」
師範に尋ねられ、二人は揃って否定した。
その間にも衛兵たちは、子供を拘束しようとしていた。
「立て。名は? 何故侵入した?」
子供は震えていた。
何か答えようとはしているらしい。だが、取り囲む大人たちの顔を見上げるばかりで、言葉にならない。
一人の衛兵が、その肩へ手を掛けた。
子供が後退る。
「動くな!」
衛兵が押さえ込もうとした拍子に、逃れようとした翼が大きく広がった。
衛兵の手が、飛び立たせまいと翼へ掛かる。
子供の喉から悲鳴が上がった。
「おい、怪我してるだろ」
口を開いた時には、秋穂はすでに衛兵の手首を掴んでいた。一瞬驚いた顔をした衛兵は秋穂を見る目に力を込める。
「何をする。下がれ」
「あ……いや。まだ子供じゃないですか。そう怒鳴っちゃ逃げ出したくもなる。それに、翼を掴んだら、傷が引き攣れて傷むんです」
「外郭を突破してきた侵入者だぞ」
「こんな子供が、何ができるっていうんですか?」
言い返したところで、秋穂は口を噤んだ。
(ーーしまった)
そもそも、目の前の子供が何者なのかさえ知らないのである。それなのに、わかった風の口答えをして、知り合いと思われでもしたらますます厄介だ。
じわりと汗を浮かべた秋穂の手を衛兵は振り払った。
「なるほど、貴様も天狗だったな。そこまで言うなら、お前が責任を持つのだな?」
何とも面倒な話になった。師範もいかにも苦々しそうな顔をしている。
そこへ清が割って入った。
「僕も付き添いますから、まず海石院へ運びませんか。身元の確認は、治療を受けながらでもできますし」
衛兵たちは顔を見合わせ、ちらりと師範に視線を向けた。
やがてため息をつきながら師範が口を開いた。
「私どもはそれで構わない。二人でその子供の面倒を見ろ」
「……はい」
秋穂は不承不承頷いた。
子供は清に支えられ、ようやく立ち上がった。
秋穂が顔を覗き込むと、ひどく怯えた様子で身を縮める。
「……何だよ。もう何もしないって」
声をかけられ、ますます泣きそうになった子供に閉口しかけた秋穂に変わり、清が目線を合わせるように膝を折る。
「名前を教えてくれる?」
しばらくして、しゃくり上げる声の合間から、ひどく小さな返事が聞こえた。
「……こば」
「こば。どこから来たの?」
子供は涙を拭い、何度か言い淀んだ。
「……無那智川」
清の顔色が、僅かに変わった。
「無那智?」
「うん。川の、上の方」
こばは清の袖を強く握った。
「……帰れないんだ」
秋穂は顔を上げた。
「何?」
「家が、見えるのに」
子供は俯いた。
「何回歩いても、帰れないんだよ」
その声は、先ほどまでの泣き声とは違っていた。




