序 亡郷の鬼
川の向こうにいるものを、子供は最初人だと思った。
夜の木の間から見えるのは、焚き火と炊事の煙に見えたし、何より漏れ聞こえるのは人の話し声に思えた。
―――ようやく誰かに会えた。
長く山の中を彷徨っていた子供は、その安堵に背を押されるように木々の間から出た。やっと帰れる。人のいる場所に帰れる――。
そこで足が止まった。
奇妙なものがいた。
焚き火の傍にいたのは、複数の大人と少年たち。その中で、己とそう変わらない年頃に見える子供の背中からは、灰白の翼が生えていた。地面へ投げ出された脚も、人のものではなかった。鳥のような爪に、ところどころ鱗のようなものが光って見える。
「……なんだ、あれ」
口からこぼれた小さな呟きに、一番小柄な娘が振り返る。すっと血の気が引いた。――夜の闇と目があった気がした。
聞こえるはずのない声を聞き留めた娘の面差しは、焚き火の逆光で見えなかったが、あれは恐ろしいものだと、子供の身体が反応する。
昔、母ちゃんだったか、婆ちゃんだったか、に聞かされた子供を山へ行かせないための御伽話。
夕暮れ、一人でいる子供のところへやってきて、山に攫っていく山ノ怪。
「……天狗」
娘に続いて、焚き火に赤茶けて見えていた癖毛の少年の方も、闇に目をすがめるようにしてこちらを向いた。
胸の鼓動が大きくなる。
山を彷徨い、人攫いの天狗の集団に行き当たったのだろうか?
他の大人たちも少年たちに続いて顔を上げる。恐怖が最高潮に達したとき、すくんでいた足が勝手に逃げるように踵を返した。
◇◇ 亡郷の鬼 ◇◇
確か、母と喧嘩をしたのだと思う。ほんの些細なことで言い合いになり、山に逃げ込んだような気がする。謝らなきゃと考えていた。日が暮れる前に早く帰らなきゃ、と。
そんな気がするのに……。
おい、と声をかけて、癖毛の少年が顔を覗き込んできた。
色の深い琥珀色の瞳が朝日の光の加減で、金色に光って見えた。
「飯、食うか?」
差し出された椀には、湯気を上げる汁物がよそわれていた。
――子供はいつの間にか化け物の世界に紛れ込んでしまったようだ。
天狗の一行は大人が二人に十五、六の少年が二人、十二くらいの娘が一人、七つ八つの化け物の子供が一人という、家族とは思えない構成だ。そしてその誰もが、農民とも武士ともつかない格好をしている。
その奇妙な一行は、昨夜子供を捕らえるや、食事と寝床を与えてくれたのだ。
朝餉を終え、身支度を整えると、「一緒に来ますか?」と大人の女に声をかけられた。
黒髪をきっちりと結い上げた女は、どこかの城の姫君かと思うような白い肌をしている。老いも若いも日に黒く焼けるのが普通な地下人とは思えない。
けれどその衣服は極めて実用的な形をしていて、袂の短い地味な色の上衣に、細く締めた帯。腕も足も山歩きのために裾の部分を、布を巻いて覆っている。
ただ、使い古されて目立たないが、よく見るとその襟元には同色の精緻な刺繍があり、かなり上等な物だとわかる。何より、一行の異様さはその腰に吊るされた武器だった。
子供は女に勧められるまま、一行の後をついて歩きながら、武器を観察した。
一番前を歩く男はかなり上背がある大男で、陽の下では赤みを帯びる長い髪を、後ろで編み下ろした異様な風体をしていた。瞳の色が灰色に見えるあたり、この男も確実に化け物だ。
腰に下げるのは侍の刀とは様子が異なる直刀で、鞘には衣服と同じく精緻な飾りが彫り込まれている。
同様の刀は女の腰にも吊るされている。こちらは小ぶりだが、鮮やかな青の飾り紐が下げられ装飾品のようだった。
妖なら帯刀していても咎められないのだろうと思っても、残りの少年たちももれなく刀を差しているのは不思議だった。三人の刀は侍たちと似た反りのある刀で、服装に比べ、高価なことが一目でわかる代物だ。
少翼のある小さな化け物ーーこば、だったかを連れて、清と呼ばれていた白髪の少年が振り返ってきた。
「歩くのしんどくはない?」
子供は慌てて頷いた。
「そう。疲れたら言ってね」
それだけ言って、清は前を向く。目元の涼しげな、上品な顔立ちだ。銀のような白い髪も珍しいが、何より昨日から、この少年だけは自分を怖がらせるようなことを何一つ言わなかった。
奇妙な化け物たちだが、食事を与え、気遣ってくれるのであれば、しばらくは恐ろしいことは起こらないかもしれない。
それとも、親切なのははじめだけで、棲家に連れ帰った後は、攫った子供を食ってしまうのだろうか。
そんなことを考えているうち、背後で小石の転がる音がした。
「おい、そっちじゃねえよ」
いつの間にか、少し離れたところを歩いていた子供に、癖毛の少年――秋穂が面倒くさそうに声をかけてきた。
「そっちは沢に下りちまう。こっちから回れ」
「……ああ」
慌てて向きを変えた先に、秋穂の後ろを歩いていた娘がいて、子供は視線を逸らして急な斜面の方を木の根を掴んで這い上がった。
しばらく見下ろしてきた後、そのまま先へ歩いていってしまった娘にほっとしたところで、秋穂が頭を手荒く掴んできた。
「お前、後でちゃんと渚に謝っとけよ」
夜の闇のような娘の瞳を思い出し、子供は秋穂の手の下から逃げ出した。険しい表情をした秋穂の、その手を払った己の手が目に入って、訳もなく胸の鼓動が大きくなる。
黒く鋭く曲がった鉤爪。いつの間にか変じてしまった、人ならざるこの爪が、昨夜あの娘の腕に食い込んだ感触が蘇る。
子供は秋穂の視線を遮るように、額に手を当てた。指先に触れた、木の実のような固いその感触に子供は唇を噛み締めた。
目の前の相手はなんなのか、自分はどうしてこんな身体になってしまっているのか、考えようとすると、頭の中が白くなる。――名前も、帰るべき場所も、頭には残っていないのに。
「……なあ、オレが鬼だっていうのは本当なのか?」




