op.7 溺れる音狂い
ひさしぶりの第二音楽室。遠慮してたわけじゃないけど、たまたまスケジュールがあわなかった。
……それっぽい言いわけだ。
スケジュール、なんて形にハマったものがないことなんて、俺が一番わかってる。
通いなれた廊下をつきすすんで、防音仕様のドアにでくわす。ノブに手をかける前に、ノックをしかけて、そのまま手をおろした。
なに、してるんだろう。
ここは、俺がもらった俺の場所。俺の時間。誰に遠慮することもない。……それに、ノックなんて、意味がない。
だれを思い浮かべているのか。
ああ、もう、――まどろっこしい。
ぐるぐるとまわる考えを弾きとばして、勢いよくドアを押しひらいた。
ピアノの音は、聴こえない。
*
「……で、なんで俺のところにくる」
仏頂面で、椎堂が言った。
「べつに。ひまだったから」
「というか、お前が第二音楽室の主だなんて初耳なんだが」
「言ってなかったから」
「だいたいなんで生徒があそこの管理者なんだよ」
「俺の入学条件だから」
「入学条件ってのは、ふつう学校側から強制するもんだろ。なにさまだ、お前」
「iVoiseさま?」
はぁああ!? と大声でさけんで、椎堂がのけぞった。
完全に、挙動不審だ。だれも教室にいなくてよかったね。
「あ、まちがえた。……なんだっけ。えっと、カテイノジジョー」
「もうだまれ、お前」
ひたいに手をあてて、うなだれる椎堂。
「うそだろ……いやでも、……うそだろ……」
「なに、ひょっとして、iVoiseのファン?」
ごまかすのも面倒になって、軽い調子で言ってみる。
「あーくっそ。俺とか言うんじゃねーよ夢が壊れる」
ガシガシと頭をかき乱す椎堂は、なんだかガチだ。ガチで沈んでる。
……この場合、俺は、あやまればいいんだろうか。おこればいいんだろうか。
「気にしなくていいよ。俺はiVoiseだけど、iVoiseは俺じゃない。だから、気にしなくていい」
けっきょく、それだけつぶやいて、視線を外した。
あれは、俺の音だけど、俺の音は、あれじゃない。
へんな感じ。
自分の音を追いかけてみても、けっきょく、iVoiseに囚われる。
だけど、もうすこし。あとすこしで、届きそうな気がするんだ。iVoiseなんて仮面をかぶっているうちに、いつのまにか色を変えていた、いまの秋葉音波に。
かばんの中に眠る譜面を、ちらりと一瞥して、ため息。
この未熟な旋律を、どんな言葉で飾ろうか。どんな音で語ろうか。――どんな歌なら、律に響くのだろう。
「椎堂」
「なんだよ!」
ほとんどキレぎみに、それでも返事してくれる律儀な椎堂。
「律に会いたいんだ」
文句を言おうとした椎堂が、中途半端にかたまって、そのまんまパクパクと口を開け閉めする。なんだよ。
「律の音が聴きたい」
もういちど、はっきりと言葉にして、椎堂をみつめた。
*
ぜったいにだまってろよ、と念押しされて、連れてこられたのは、住宅街。赤い屋根の一戸建てを張る。
差し向かいの家の表札が、ふと目に入った。見覚えのある姓だったからかもしれない。
――和佐。
そういえば、あのお人よしな優等生は、どこに住んでいるんだろう。気にしたこともないことを気にしたのは、どうしてか。
つつがなく整えられた前庭に、だれかの面影をみたせい、かな。
「おい、なにボーッとしてる」
口調だけじゃなく頭のネジもゆるいのか、と椎堂が吐きすてる。
「……椎堂、ほんとに俺のファンなの?」
散々な言われよう。面倒だから反論しないけど、たぶん頭のネジはゆるくない。成績はわるいけど。
やればできるよ。やらないだけ。
何十回とくりかえしてきた言い訳に、またもうひと塗り。そろそろ元の色がわかんなくなりそうだ。すくなくとも勉強に関して俺が頑張る日はこないだろう。
「秋葉のファンじゃねーし、そもそもiVoiseにハマったのも俺じゃない」
椎堂は肩を落として、じろじろと俺を観察する。
「秋葉がiVoiseねぇ……まじで人間があんな声出せるもんなんだな……」
「歌ってやろうか?」
「安売りすんなよ本業の歌手が」
「しらない。俺、金のために歌ったことないもん。歌えればなんでもよかったし」
叫ぶ場所さえあればよかった。
もっと広い場所で、もっと大きな声で叫んでみないかと誘われたから、のっただけ。なにも考えずに。
広い広い窮屈な世界に、飛びこんだ。
「だれかに伝えたくて歌ったことなんて、……なかったんだよ」
だれに届かなくてもいい。あて先もなく漂っていた旋律に、周りが勝手に価値をつけた。
俺は俺の音を奏でたかっただけ。奏でずにはいられなかっただけ。俺は、――俺でいたかっただけ、なのに。
「――うそだろ」
その声は、驚きでも困惑でもなくて。目をみはったのは、俺のほう。
「伝えたかったことがないなんて、うそだろ」
そう、椎堂は、きっぱりと言いきった。
「は……? だから俺」
「俺にはわかんねーよ。音のちがいとか、声の良し悪しとか、そういうの感じるようなセンスはからっきしねーんだ」
でもな、秋葉。そう言って椎堂が、あんまり真剣な目をするもんだから、鼻白んで口を閉じる。
「わかるやつにはわかるんだってよ。声にならない叫びが。言葉よりもまっすぐに届く『音』が、わかるんだってよ」
「……なに、それ」
まるで、俺だ。リツのピアノを聴いたときの、俺だ。
わかるよ。その感覚は、わかる。だけど。
「それはきっと、iVoiseじゃない――」
叫ぶことなんて忘れたんだ。聞いてくれと、だれでもいいから受けとってくれと、がむしゃらに鳴き叫んでいたころとはちがうんだ。
さえずることを覚えたから。うまく鳴いて褒められることを覚えたから。
そうやって、俺は俺の声を殺したから。
「iVoiseの支持層が、中高生に固まってるのは、それに気づくまで聴きこんだやつらがいるからだよ。これはちがう、これはやばい、って、広めた奴らがいるからだよ」
「気のせいだよ……だって、俺、叫んでなんかない。言われるがまま歌ってただけだ。昔は知らないけど、最近なんてそれこそ人形みたいに」
「――秋葉。お前、自分のことなのに気づいてないのか?」
椎堂が笑う。意地悪く口の端を上げる、和佐とはぜんぜん違う笑い方。どっちかっていったら、周ちゃんに近い。
物分かりの悪い俺を、生暖かい目をして鼻で笑うのだ。出来の悪い生徒をみるように。
「お前の歌、たぶんすげーよ。俺にはわかんねーけど、わかる奴らがいんだから。俺に教えたのはヒロだけど、だれがヒロに教えたと思う? だれが、一番最初に気づいたと思う?」
赤い屋根の一戸建て――『深水』の表札を掲げる家から、40代くらいの女性が出てくる。門をくぐり、角を曲がって消えていった背中は、だれかに似ていた。思わず目で追って、すぐ我にかえる。……なにしてんだよ、もう。
あれはリツの母親? あれはリツの家? じゃあ、ここに。
「馬鹿みたいにiVoiseの歌を聴きまくって解剖しようとした、どうしようもない音狂いがいたんだよ」
そして、閑静な住宅街に、あのピアノの音色が響く。
せつないほどに頼りなくゆれる、灯火のような淡い演奏。儚い夢のように消えていってしまいそうな、それでもまだ、現世に踏みとどまった悲壮な音。
――リツの、ピアノだ。
「秋葉。興味本位じゃないんなら、いっそ溺れてこいよ。中途半端に首突っ込む気なら邪魔してやろうと思ってたけど、……なんか、お前の顔みたらその気が失せた」
なんともいえない表情をして、椎堂が肩をすくめる。
俺がどんな顔してるかなんて、しらないけど。ろくな表情してないんだろうな。しかたない。だって俺も、音の向こうに沈んだ『叫び』を、聴いてしまったんだから。
「リツは、もうとっくに溺れてたよ。お前より、ずっと早く、iVoiseに」
かつて彼女が、俺の叫びを聴いたように。