op.5 海底に眠る太陽
「お前……」
またきたのかよ、と椎堂の目が語っていた。
どうせ授業も聞いちゃいないくせに、と毒ついた彼の言葉を聞きながして、ゆうゆうと席につく。
授業には用はない。けど、出席だけはしとかないと、周ちゃんがうるさい。
「ガンスルーだし」
これみよがしに、椎堂がため息をはく。
「なにか問題?」
「なんでもねーよ。……つきあってられるかっての」
なんだかんだと言いながら、俺に話しかけてくる椎堂は、義理堅い奴だ。
和佐に言われたからって、俺の面倒なんてみなくていいのに。
……それとも。他に気にかかることでも、あるのかな。
「聞きたいことがあるんだけど。――フカミリツ、って、どこのクラス?」
椎堂の肩が、おおげさにゆれた。
お人よしじゃないけど義理堅くて、律儀でわかりやすいやつ。
わかりやすい椎堂は、わかりやすく顔をゆがめて、わかりやすく不本意な声で、それでも答えてはくれた。律儀だね。
「興味本位で首突っ込むな、つったろ」
「なんで?」
「軽々しく話すことでもないんだよ。とくにお前みたいなタイプには」
「どういう意味」
「そのままの意味だっての。……もういいだろ、どうせお前、たいした興味も持ってやしないくせに」
うんざりした顔のまま、椎堂がいってしまおうとするから、俺はあわてて呼び止めた。
「あるよ!」
「はあ?」
興味ならある。そりゃあ、ある。
だけど、ちがう。
「椎堂が俺をどう思ってるかはしらないけど、俺にだってゆずれないもんはある。……あった。ひとつだけ」
特別としか名づけられない。
たいせつすぎて、ラベリングしたまましまい込んだもの。
「フカミリツの事情になんて興味ないんだ。俺が知りたいのは、あの『音』だけで、リツがどうこうとかじゃなくて、ええっと……」
だめだ。話してるうちに、ぜんぶこんがらがってきた。
俺は、要領も良くないし頭も良くない。
話しなれてさえいないから、こういうとき、どういうふうに伝えたらいいのかわからない。
「えっと……だから、俺が知りたいのは……」
なにをどう伝えたらいいんだろう。
音。あの音。魂をゆらすような。音。俺をゆらした。深く眠ってたものを、掘りだされた。あの音の源泉。あの音の理由。ちがう。そうじゃない。俺が知りたいのは、あの音そのもの。だからつまり、俺の興味は。
――ああもう、どうして言葉って面倒くさいんだろう。
無口な音は、あんなにも素直に伝わるのに。
リツの音は、あんなにも真摯に響いたのに。
どうして。
「だから……」
「いい。もういい、わかったから。……第二音楽室に行ったのか、秋葉」
椎堂が、頭のうしろをかきながら、眉をひそめて聞く。
「あそこ、普通の生徒は近寄らないだろう。なんでまた、あんな場所に?」
「近寄らない? なんで」
「質問に質問で返すなよ……」
やっぱりあきれた顔で、椎堂がため息をつく。
「なんで近寄らないの?」
「話を聞け。このド級マイペースが」
「聞いてるじゃん。なんで?」
「質問しろって意味じゃねぇよ!」
「わかってるよ。で、なんで?」
「リツがいるからだよ! ったく。なんっなんだこいつは……!」
椎堂が頭を抱えた。
和佐はすごいだの、こんなん俺には無理だの、……なんかすげぇ失礼なこと言われてる気がする。まあいいよ、聞きながす。
ひと通り悪態をついたあと、ぽつり、と椎堂はつぶやいた。
「本気でしらねぇんだもんなぁ……。クラスメイトすら覚えちゃいないのに、そりゃ上級生の噂なんざ聞くわけないよなぁ……」
――上級生?
「それ、どういう――」
「いいから忘れろ! 聞きたかったら和佐に聞けよ! あと、第二音楽室には行くな!」
早口でまくしたてた椎堂は、こんどこそ、呼びとめるすきもなくいってしまった。
行くな、って言われたって。
「……あそこの先住民は、俺なんだけど」
なんて、椎堂は知るわけないんだけどさ。
正当な許可があるのに行けないなんて、おかしいよね。
――もちろん従う気は、さらさらない。
*
昼放課に、もういちど椎堂をつついてみたけど、収穫はなし。
ねちねち攻めたところで、律儀な性格の椎堂くんが口を割るとは思えないので、早々にあきらめた。
和佐が帰ってくるのは、来週だ。
聞いたら教えてくれるかもしれないけど、連絡先もしらないし、教えてくれるとも限らない。
俺の好奇心は待ってはくれない。
短気な俺の探究心は、やっぱり短期で。そんなに長持ちしないのだ。……音楽だけは、例外だけど。
とりあえずは作戦変更。ワケあり臭がするから、本人に聞くのは、きっとNG。
こんなとき都合のいい友人なんていないから、別の線から探ることにする。
「こんにちは」
「あら、オトくん。とうとう保健室登校にしたの?」
「まさか。なんでわざわざ薬品くさい部屋に登校しなきゃなんないの」
うるさい教室で寝てる方がまだまし、と言いきると、養護教諭のみぃちゃんは眉を下げて大笑いした。
みぃちゃんこと、御井蘭子。ミイラって呼ぶと怒る。らんちゃんって言うと変な喜び方する。だから、みぃちゃん。
一回、らんらんって呼んでみたら、パンダみたいだからいやだって。白衣きて黒縁メガネかけてるみぃちゃんは、なるほどたしかにパンダだった。
「みぃちゃん、クラス写真みせて」
ばんばん、とデスクをたたくと、モノを乱暴にあつかわないの、と小学生のような注意をうける。いいから早く、写真。
「同級生の顔をおぼえる気にでもなったの?」
みぃちゃんは、まだくすくすと笑いながら、ファイルを渡してくれる。そんなんじゃないけど、わざわざ言わない。
無言で受けとって、カーテンの奥にあるベッドを占拠。ぼすん、と身体を投げだしながら、今年の写真がならぶファイルをめくった。
リツがつけていたリボンの色は、赤。
赤は、俺のネクタイとおなじ色で、たしか一年の学年色。
つまり同学年、ってことでしょ?
みつけるのなんて簡単だ――と、思っていた。
「……うそだ」
ない。ない。ない。
一年のなかにも、二年のなかにも、三年のなかにも。すべてのクラス写真をみたのに、音楽室の子の顔はない。
フカミリツの、名前もない。
「みぃちゃん」
ファイルを閉じて、みぃちゃんのデスクを振りかえる。
「俺の学年、転入生とか、きた?」
四月の写真にいないなら、そういうことじゃないの。
俺は、ほとんど学校きてなかったし、きたところで音楽室にこもってたし。しらなくてもおかしくない。我ながら名推理。
「オトくんの学年? きてないと思うけどな」
みぃちゃんは、あっさりと答える。
「……うそだ」
「どうして、うそつく必要があるの」
「そうだけど」
俺の名推理、一瞬にして全否定。
がっくりとうなだれて、手もとのファイルをパラパラとめくる。今年のだけじゃなくて、去年のもいっしょに入ってるらしい。
しらない顔がいっぱい。
そりゃそうか。俺、まだ入学してなかったんだもん。今年の顔ぶれだって、どっこいどっこいだけど。
「しらない、しらない、しらない……、え?」
なんだか見覚えのある、面影。
健康的な黒髪に、光が反射してきらきらと。それに負けず劣らずの全開笑顔を浮かべた女の子。
うそだ。なんで。
――1-C 深水律。
一年と半年前の桜を背景に、みたこともない晴れやかな表情の彼女が写っていた。赤いリボンを首にさげて。
しらない。
こんな彼女を、俺は、しらない。
*
みてはいけないものを、みてしまったような気がして。
いまさらになって、椎堂にクギを刺された意味がわかってきた。興味本位で踏みあらしていいような話じゃない。
本人のいないところで、コソコソと盗み見るようなことじゃない。
わかってた。はずだった。
最初からしっていて、その上で、かまうものかと踏みこんだはずだった。
でも、いま。
「……はあ」
なんで俺、こんなに、苦い思いしてんだろう。
ファイルを閉じて横に投げだし、顔面から布団にうもれる。ばすん、とゆるい衝撃。ちょっとホコリと、やっぱり薬品のニオイ。
「なんで」
胸もとに、形だけぶらさがったネクタイを、ぐしゃりと握りしめる。
たぶんきっと、太陽だった。
リツ――深水律は、もともと、太陽だった。
明るい場所で、きらきらと輝いていた、ありふれた花だった。
のびやかな音を奏でるんだろう。さわがしく雑多な、同級生たちの音を吸収して、何倍にもはね返すような。
そういう生命力に満ちた音が、写真から聞こえてくるようだった。
俺のしっているリツとは、ぜんぜんちがうのに。
かよわい灯火とは、まるでちがうのに。
なのに、芯から燃えるような輝きの、凛とした強さは、おなじなんだ。
しらないけど、しっている。
ちがうのに、おなじ。
リツは、やっぱり深水律で、だけど、この深水律は、きっとリツじゃない。
こんなまぶしい太陽には、俺はきっと近寄れない。だって、和佐とおんなじタイプだ。音の中心にいるひと。俺には縁遠い世界。
――だけど、そんな深水律は、リツなのだ。
深い水底に沈んだような、死にかけながら息をする、儚げな旋律の奏者なのだ。
彼女になにがあったのか、なんてしらないけど。
たったひとつ、わかることは。
「たぶん、深水律が太陽のままだったら、俺には出会わなかったんだろうね」
それって、皮肉なのかな。
リツが沈んでいてよかった。水底でないと、きっと出会えなかったから。大気ではなく水を通って伝わった旋律に、俺は惹かれたのだから。
けれど、俺は、リツに沈んでいてほしいのか、太陽に戻ってほしいのか、どっちなんだろう?
魂をゆさぶる悲壮な芸術になりはてた少女を思い浮かべて、俺はもういちど、ため息をはいた。