16.夫婦喧嘩。
――― やっぱり我が儘すぎるよね……。
花は寝室をうろうろしながら悩んでいた。
今日は早めに来て欲しいと伝えてみたものの、そもそも毎晩ルークが訪れてくれるとは限らないのだ。
ルークには立派な自室がある上に、最近の花自身の態度を考えれば、いつ愛想を尽かされてもおかしくはないのだから。
花は窓辺へと近づき、夜の闇に沈む外の景色を眺めた。
そこにルークの姿が映り、ホッとした花は急ぎ振り向いて微笑んだ。
「ルーク……無理を言って、すみません」
「いや、大丈夫だ。それよりも何かあったのか?」
ルークは花を気遣いながら傍まで歩み寄りはしたが、やはり触れることはなかった。
そんなルークを目の前にすると、途端に勇気はしぼんでしまい、花の心を罪悪感が占めていく。
「いえ、あの……何も……いえ、その……」
「……ひとまず座ろう」
動揺して口ごもる花を、ルークは長椅子へと促した。
そして並んで腰を下ろした二人の間に流れる気まずい沈黙。
花はこの状況を変えることの出来る魔法の言葉を必死に探した。
しかし、先に口を開いたのはルークだった。
「……ハナ、何か悩みがあるのなら、打ち明けてくれないか?」
その優しい言葉にハッと息を呑み、思わず顔を上げた花の目に映ったのは、心配の滲む金色の瞳。
花が今までどうにか抑えていた感情が、涙となって一気に溢れ出した。
「ハナ!?」
突然の涙に驚くルークを見つめたまま、花は悲しそうに呟いた。
「覚悟を……決めようとしたんです。でもダメでした」
「……覚悟?」
「ルークが……新しい奥さんをもらっても受け入れようって……」
「……は?」
ようやく花が打ち明けたのはあまりに突拍子もない内容。
呆気に取られたルークには、ただ間の抜けた声しか出なかった。
だが、花にとってはずっと悩んでいたことなのだ。
一度言葉にしてしまうと、もはや止めることは出来なかった。
「みんな私には隠していますけど、ルークにたくさんの縁談が来ていることは知っています。そんなの当たり前で、ルークほどの人を私が独り占めしちゃいけないのもわかってるんです。政治戦略的にも仕方ないって。でも本当はすごく嫌。だから知らない振りをしていたのに、見てしまったんです。ルークが……とても綺麗な女性と青鹿の間に入るところを。少し前に青鹿の間にたくさんの人達が出入りしているのにも気付いていました。だけど、きっと片付けをしているんだって思おうとしたのに……。この前なんて執務室の前でイチャイチャしていましたよね? ルークはその女性のほっぺたに触ったりして……。あんまりです。せめて、そういうのは私の見えないところで……も、やっぱり嫌なんです!」
「……」
はっきりいって、全て花の誤解である。
もちろん、そのような事態を招いた原因が己にあることはルークもすぐに悟ったのだが、予想外な方向へと突き進んだ花の解釈には、何を言えばいいのかわからなかった。
花はどうにか気持ちを落ちつけようと胸に手を当て、ルークの反応を待った。
ついに嫌だと我が儘を言ってしまったのだ。
しかし、ルークからは何も返って来ない。
「……黙ってないで、何か言って下さい」
これ以上の沈黙に耐えきれず、花は焦れたように促した。
すると、ルークの口からこぼれたのは思わぬ言葉。
「いや、その……嫉妬しているのか?」
これはまずかった。非常にまずかった。
張り詰めていた花の感情の糸が、同じように張り詰めていた部屋の空気と共にプチンと切れた。
ルークの無神経な言葉に、ここ数日の苦悩が怒りに変わったのだ。
「嫉妬しちゃダメなんですか? それともマグノリアには嫉妬してはいけないって法律でもあるんですか? そりゃ、私なんてあの女性みたいに鼻も高くないし、暑い中で涼しげに出来るほど魔力もないし、胸だって全然大きくなりませんけど、視力だけはいいんです! だから、例え遠くてもルークを見間違える訳がないんですから!!」
「……だが、あいつに胸はなかっただろう?」
花の勢いに押されながらも、ルークは“あの女性”については思わず突っ込まずにはいられなかった。
それがまた花の怒りを煽る。
「あいつって呼んじゃうほどに親しくなってるんですか!? それも胸の大きさまで知ってるなんて破廉恥です!! わかりました。ルークは胸が小さい方が好きだってことですね!! それで私もありだったんですね!!」
「いや、待て。違う――」
「じゃあ、やっぱり大きい方が好きなんですか!?」
自分でも支離滅裂なことを言っていると花にはわかっていた。
だが、気持ちが高ぶりすぎて止められないのだ。
再び涙が込み上げてきた花を、ルークはいきなり抱きしめた。
「俺が好きなのはハナだ。他の誰かなんてどうでもいい。ハナだけが好きなんだ」
「……ルーク」
「俺はハナを愛している。側室だろうが何だろうが娶る訳がない」
ルークの力強い言葉は花の不安を消し去っていく。
久しぶりに感じるあたたかな腕の中はとても心地良く、ようやく花は落ち着きを取り戻した。
「ごめんなさい。私、何があってもルークを信じるって言っておきながら……」
しばらくして、花は後悔に滲む声で謝罪した。
冷静になれば疑う必要などないとすぐにわかるのに、ルークが他の女性に触れる場面を目にして、激しい嫉妬から取り乱してしまったのだ。
「いや、俺が悪い。ハナに何も伝えずに処理しようとしたのが間違いだった」
ルークもまた謝罪の言葉を口にして、腕の中の花を見下ろした。
心配をかけないようにと花を気遣ったつもりで、却って不安にさせてしまったのだ。
そして花は、ルークに我が儘を言って迷惑をかけたくないと、一人悩みを抱えて過ごすことになってしまった。
お互いを大切に思うあまりに生じた誤解。
二人はそのことに気付いて、見つめ合ったまま笑った。
「ハナ、これからは一人で抱えず、何でも話し合おう」
「はい」
優しい提案に、花は大きく頷いた。
と、ルークの表情が悪戯っぽいものに変わる。
「だが正直に言えば、俺はハナが嫉妬してくれて嬉しい」
「え?」
「いつも俺ばかりだからな。バカバカしいかも知れないが、こうしてハナが感情を表に出してくれると嬉しい。嫉妬するハナもかわいい。すごくかわいい」
「それは……」
思いがけないルークの告白に花は耳まで赤くして俯いた。
ずっと隠していた嫉妬心を知られてしまったことが恥ずかしくて、ルークの言葉が照れくさい。
しかし、それならいっそのことと、花はどうしても気になることを口にした。
「あの、それで……あの女性は誰ですか?」
ためらいがちな花の問いに、ルークはどこか諦めた様子で溜息を吐くと、言い難そうに答えた。
「あれは……ハロンだ」
「……ハロンさん、とおっしゃる方なんですね」
人に触れられることを嫌うルークが自分から触れるほどの女性なのだと、花はその名をゆっくりと呟いた。
その様子に、どうやら上手く伝わらなかったらしいと気付いたルークは仕方なく、念を押すように詳しく繰り返した。
「ハナ、あれはハロン・カルヴァだ。セインとソフィアの三男であり、ハナの三番目の義兄になる。ヴィート対策の為に急きょサイノスに戻って来たんだ」
「……でも……すごく綺麗な……」
女性ではなかった。
その衝撃は何よりも大きく、花はただ呆然としてルークを見つめたのだった。




