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第6話「栄光の陰で」

第6話 栄光の陰で


-1966年5月4日 午前8時15分-

 東京都杉並区荻窪

 リンス自動車工業 荻窪事業所


 五月の朝。


 東京の空は、前日の富士スピードウェイでの熱狂が嘘のように穏やかだった。


 荻窪のプリンス自動車工業では、始業前から従業員たちの話し声が響いていた。


「おい、見たか。今日の新聞」


「もちろんだ。砂子さんが優勝したんだろう?」


「それだけじゃない。大石さんも二位だ。プリンスの一位、二位独占だぞ」


 工場の休憩室では、作業服姿の従業員たちが新聞を囲んでいた。


 紙面には、前日に富士スピードウェイで開催された第3回日本グランプリの結果が掲載されていた。


 プリンスR380、優勝。


 砂子義一が六十周を走り切り、二位には同じくR380を駆る大石秀夫が入った。


 さらに横山達が四位に入るという、プリンスにとって歴史的な結果だった。


 誰もが興奮していた。


 1964年の第2回日本グランプリ。


 あの日、スカイラインGTはポルシェ904を一時的に追い抜き、日本中の自動車ファンを熱狂させた。


 しかし、最終的には敗れた。


 それから二年。


 プリンスは、競技専用に開発したR380で再び世界の強豪に挑み、ついに勝利を収めたのである。


「これでプリンスも安泰だな」


 若い作業員が笑いながら言った。


「そうだといいな」


 隣にいた年配の作業員が答えた。


「何だよ、嬉しくないのか?」


「嬉しいさ。そりゃあ嬉しい」


 年配の作業員は新聞を畳んだ。


「だが、レースに勝ったからといって、会社の借金がなくなるわけじゃないだろう」


 その言葉に、若い作業員は黙り込んだ。


 前年、プリンスは日産自動車との合併交渉を打ち切り、独立存続の道を選んだ。


 しかし、その決断によって会社の経営状態が改善したわけではなかった。


 金融機関からの支援を受けながら、厳しい経営再建を進めている最中だったのである。


 それでも、この日の従業員たちは、久しぶりに明るい表情を見せていた。


 少なくとも、昨日という一日は、彼らに大きな自信を与えた。


 自分たちの会社には、世界の強豪に勝てる技術がある。


 その事実は、何よりも誇らしかった。


-1966年5月4日 午前9時20分-

 東京都内

 プリンス自動車工業 本社


 宮原健一は、机の上に広げられた新聞を見つめていた。


 紙面には、R380の優勝を伝える記事が掲載されていた。


 赤い車体がチェッカーフラッグを受ける写真。


 その下には、砂子義一の名前が大きく記されていた。


「……見事なものだな」


 宮原は小さく呟いた。


 前日の夕方、富士スピードウェイから優勝の報告を受けた時、彼は思わず立ち上がってしまった。


 普段は感情を表に出さない宮原にとって、それは珍しいことだった。


 しかし、今朝になって机に向かうと、喜びとは別の感情が胸に広がっていた。


 不安である。


 机の上には、新聞とは別に数枚の資料が置かれていた。


 資金繰り計画。


 販売実績。


 設備投資予定。


 金融機関への報告書。


 どれも、会社の将来を左右する重要な書類だった。


 宮原は新聞を脇に置き、資金繰り表を開いた。


 数字は、昨日と何も変わっていなかった。


 銀行からの借入金が減ったわけでもなければ、販売台数が突然増えたわけでもない。


 むしろ、優勝によって開発部門から新たな予算要求が出てくる可能性さえあった。


「……勝つことと、会社を残すことは違う」


 宮原は誰に聞かせるでもなく呟いた。


 その時、扉がノックされた。


「宮原君、いるかね」


「どうぞ」


 入ってきたのは、小野寺正彦だった。


 43歳。


 販売企画部門の課長である。


 小野寺は、新聞を片手に笑っていた。


「いやあ、昨日は凄かったな」


「ええ。本当に」


「販売店からも、朝から電話が来ているよ」


 宮原は顔を上げた。


「何かありましたか?」


「優勝したR380についての問い合わせだ。もちろん、R380そのものを買いたいという話ではないがね」


 小野寺は笑った。


「スカイラインを見たいというお客様が増えているらしい」


「それは良い知らせですね」


「ああ。だが、まだ問い合わせの段階だ」


 宮原は頷いた。


「販売につなげなければなりません」


 小野寺は、宮原の机に置かれた資金繰り表を見た。


「……君は、優勝した翌日くらい喜んでもいいんじゃないか?」


 宮原は苦笑した。


「喜んでいますよ」


「そうは見えないが」


「喜んでいるからこそ、考えなければならないんです」


 宮原は新聞に目を向けた。


「彼らがあれだけの成果を上げてくれた。その努力を、会社の未来につなげなければなりません」


 小野寺はしばらく黙っていた。


 そして、静かに頷いた。


「……そうだな」


 窓の外では、五月の陽光が東京の街を照らしていた。


 プリンス自動車工業にとって、栄光の翌日もまた、厳しい現実と向き合う一日だった。


-1966年5月14日 午前11時10分-

 東京都内

 プリンス自動車販売店


 ショールームの大きな窓から、春の陽光が差し込んでいた。


 店内には、数台のプリンス車が展示されている。


 中央に置かれているのは、スカイライン2000GT-B。


 長いボンネットと端正な車体を持つ、四ドアのスポーツセダンである。


 その隣には、上級乗用車のグロリアが展示されていた。


 店内には、普段より多くの来店客がいた。


「これが、あのスカイラインですか?」


 若い男性客が販売員に尋ねた。


「はい。こちらがスカイライン2000GT-Bでございます」


「日本グランプリで勝った車と同じなんですか?」


 販売員は、少し笑った。


「いえ、昨日のレースで優勝したR380は競技専用車です。こちらは一般のお客様向けの乗用車になります」


「そうなんですか」


「ですが、プリンスが長年培ってきたエンジン技術を生かした車であることは間違いありません」


 販売員はボンネットを開いた。


 そこには、直列六気筒エンジンが収められていた。


「こちらはG7型エンジンです。排気量は1,988cc。直列六気筒のSOHCエンジンになります」


 若い客は、興味深そうにエンジンルームを覗き込んだ。


「六気筒ですか」


「はい。一般的な四気筒エンジンと比較すると、回転が滑らかで、静粛性にも優れています」


 販売員は続けた。


「さらに2000GT-Bでは、三連装のウェーバー製キャブレターを採用し、最高出力125馬力を発揮します」


「百二十五馬力……」


 若い客は驚いた表情を見せた。


 当時の国産乗用車としては、十分に高い出力だった。


 しかも、2000GT-Bには五段変速機や前輪ディスクブレーキなど、スポーツ走行を意識した装備が与えられていた。


 しかし、若い客は価格表を見ると、少し表情を曇らせた。


「……やっぱり、高いですね」


 販売員は頷いた。


「そうですね。高性能な車ですので、一般的な乗用車より価格は高くなります」


「欲しいんですけどね……」


 若い客は、もう一度スカイラインを見つめた。


「今の給料じゃ、ちょっと難しいかな」


 そう言って、彼は店を後にした。


 その様子を、少し離れた場所から小野寺正彦が見ていた。


 隣には、宮原健一が立っていた。


「……また、見送りですね」


 宮原が呟いた。


 小野寺は頷いた。


「そうだな」


「問い合わせは増えているのに、契約には結びつかない」


「高性能な車を欲しがる人は多い。しかし、実際に買える人は限られているんだ」


 宮原は、スカイラインを見つめた。


「……難しいですね」


 小野寺は少し笑った。


「車を売るというのは、そういうことだよ」


 そして、グロリアの方へ歩いていった。


「こっちは、また違うお客様が選ぶ車だ」


 宮原も後に続いた。


 グロリアは、スカイラインとは異なる性格を持つ車だった。


 ゆとりある室内。


 落ち着いた乗り心地。


 そして、直列六気筒エンジンによる滑らかな走行性能。


 スカイライン2000GT-Bが走る楽しさを重視しているのに対し、グロリアは快適性や上級車としての品格を重視していた。


「プリンスには、いい車がある」


 小野寺が言った。


「ええ」


「だが、いい車を作るだけでは売れない」


 宮原は黙って聞いていた。


「価格、維持費、販売店の対応、整備のしやすさ。お客様は、そういうことも考えて車を選ぶ」


 小野寺はグロリアの車体に目を向けた。


「それに、車は買って終わりじゃない。何年も使うものだ」


 宮原は頷いた。


「……そのとおりですね」


 小野寺は宮原を見た。


「君は数字に強い。私は販売現場を知っている」


 宮原は顔を上げた。


「はい」


「だったら、2人で何とかしようじゃないか」


 宮原は、少し驚いた表情を見せた。


 そして、小さく笑った。


「……よろしくお願いします」


 小野寺は頷いた。


「こちらこそ」


 2人は、並んでショールームを見渡した。


 その中央には、スカイライン2000GT-Bが静かに展示されていた。


 レースでの勝利を、実際の販売につなげる。


 それは、技術者たちとは異なる、彼らの戦いだった。


-1966年5月27日 午後3時00分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業 R380開発施設


 荻窪の開発施設では、R380のレース結果を分析する会議が行われていた。


 机の上には、富士スピードウェイで記録された周回時間や燃料消費量、車両の点検記録が並べられていた。


 高城修一、藤崎亮介、片桐俊介。


 3人は、資料を囲んで座っていた。


「まず、エンジンについてですが」


 高城が口を開いた。


「砂子選手の車両は、決勝を通して大きな問題なく走り切りました」


 藤崎が頷いた。


「冷却系統も、想定した範囲に収まっていましたね」


「ああ。だが、改善の余地はある」


 高城は資料をめくった。


「高回転域での発熱をさらに抑えられれば、耐久性を高められる」


 片桐が口を開いた。


「燃料消費量についても、改善できる部分があります」


 高城が顔を上げた。


「どういうことだ?」


「レースでは、ピット作業の時間が勝敗に大きく影響しました。しかし、燃料消費量そのものを減らせれば、作戦の自由度がさらに高まります」


 藤崎は頷いた。


「なるほど」


 片桐は続けた。


「同じ燃料量で、より長く走れるようになれば、給油のタイミングを柔軟に選べます」


 高城は、しばらく考えた。


「……確かに」


 藤崎は、別の資料を広げた。


「車体についても、改良したい部分があります」


 彼はR380の図面を指差した。


「高速域での安定性と空気抵抗の両立です。今回のレースでは、ポルシェ906のコーナリング性能が非常に高かった」


 高城は頷いた。


「そうだったな」


「我々も、車体の重量配分やサスペンションの設定を見直す必要があります」


 藤崎は、少し興奮した様子で続けた。


「それに、次のR380では、さらに軽量化を進めたいんです」


 高城は小さく笑った。


「もう次の車の話か?」


「当然ですよ」


 藤崎は笑った。


「一度勝ったからといって、そこで止まるわけにはいきません」


 片桐も頷いた。


「ポルシェだって、次はさらに速い車を持ってくるでしょうからね」


 3人は顔を見合わせた。


 その時、会議室の扉がノックされた。


「失礼します」


 入ってきたのは、開発部門の事務担当者だった。


「高城さん。経営企画部門から通知が届いています」


「通知?」


「はい。研究開発費の再配分についてです」


 高城は、差し出された書類を受け取った。


 そして、目を通した。


 その表情が、少しずつ険しくなっていった。


「……これは」


 藤崎が尋ねた。


「どうしたんですか?」


 高城は、書類を机の上に置いた。


「R380の追加開発費について、再検討が必要だそうだ」


 藤崎の表情が変わった。


「……何ですって?」


「量産車開発を優先するため、競技専用車の新規改良計画は一時的に抑制する方針らしい」


 藤崎は、しばらく黙っていた。


 そして、突然立ち上がった。


「冗談じゃない!」


 高城が顔を上げた。


「藤崎」


「ようやく勝ったんですよ!」


 藤崎は声を強めた。


「二年間、必死に開発して、ようやくポルシェに勝った。それなのに、次の開発を止めるんですか!」


「落ち着け」


「落ち着いていられますか!」


 藤崎は机に手をついた。


「技術というのは、止まった瞬間から遅れ始めるんです。ポルシェだって、トヨタだって、次の車を作っている。それなのに、我々だけが立ち止まるんですか!」


 高城は、黙って藤崎を見つめていた。


 その言葉は、彼自身が感じていたことでもあった。


 しかし、同時に会社の経営状態も理解していた。


「……藤崎」


 高城は静かに言った。


「俺たちは、レースに勝った」


「ええ」


「だが、会社が立ち直ったわけじゃない」


 藤崎は、言葉を失った。


 高城は続けた。


「会社がなくなれば、次のR380も作れない」


 藤崎は、しばらく黙っていた。


 そして、低い声で答えた。


「……分かっています」


 しかし、その表情には納得できない思いが残っていた。


-1966年6月10日 午前10時00分-

 東京都千代田区

 金融機関会議室


 重厚な木製の扉が閉められた。


 会議室には、金融機関の担当者たちが集まっていた。


 その向かい側には、宮原健一と数名のプリンス側関係者が座っていた。


 机の上には、経営再建計画の進捗をまとめた資料が置かれていた。


「それでは、報告をお願いします」


 金融機関の担当者が口を開いた。


 宮原は頷き、資料を開いた。


「まず、販売網の再編についてですが、当初の計画に沿って進めています」


 彼は、販売拠点の統合と整備業務の共同化について説明した。


「生産部門についても、部品調達と工程管理の見直しを進めています」


 担当者たちは、資料に目を通していた。


「……なるほど」


 年配の担当者が口を開いた。


「日本グランプリでの優勝については、我々も報道で拝見しました」


「ありがとうございます」


「技術力の高さは、十分に評価できると思います」


 宮原は頷いた。


 しかし、担当者は続けた。


「ですが、経営再建の進捗については、まだ十分とは言えません」


 宮原の表情が引き締まった。


「はい」


「販売台数の増加も限定的ですし、利益率の改善もまだ道半ばです」


 担当者は資料を閉じた。


「研究開発費について、もう一段の見直しが必要ではありませんか」


 宮原は、しばらく黙っていた。


「……具体的には?」


「競技専用車の開発費です」


 その言葉に、宮原は顔を上げた。


「R380の開発費については、すでに一定の制限を設けています」


「承知しています。しかし、今後も同じ規模の開発を続けることは、財務上の負担が大きい」


 担当者は静かに続けた。


「我々は、レースで勝つために融資しているわけではありません」


 宮原は、何も答えなかった。


「会社を再建するために、支援しているのです」


 その言葉は、宮原の胸に重く響いた。


 彼も、そのことは理解していた。


 しかし、プリンスから技術開発を奪えば、会社の競争力そのものが失われる。


 技術力こそが、プリンスが独立存続する理由だった。


「……おっしゃることは理解しています」


 宮原は静かに答えた。


「ですが、研究開発を過度に抑制すれば、我が社の競争力は失われます」


「その点は理解しています」


「プリンスは、大量生産だけでトヨタや日産と競争できる会社ではありません」


 宮原は続けた。


「だからこそ、技術力を生かした商品開発が必要なのです」


 担当者は、しばらく考えた。


「では、その技術開発が、どのように収益につながるのかを示してください」


 宮原は黙っていた。


「レースで優勝することと、利益を上げることは違います」


 その言葉に、宮原は反論できなかった。


 会議が終わり、宮原は建物の外に出た。


 六月の東京は、湿った空気に包まれていた。


 空には厚い雲が広がっていた。


 宮原は、しばらく立ち止まった。


 そして、小さく呟いた。


「……分かっていますよ」


 彼は、手にした資料を見つめた。


「そんなことは、最初から分かっているんです」


 しかし、分かっていることと、解決できることは違った。


-1966年6月24日 午後6時30分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業 開発施設


 夕方の開発施設。


 多くの従業員が帰宅する中、高城修一は1人で図面を見つめていた。


 机の上には、G7型エンジンとGR8型エンジンの資料が並べられていた。


 G7型。


 直列六気筒、SOHC、排気量1,988cc。


 スカイラインやグロリアに搭載される量産用エンジンである。


 一方、GR8型は競技専用に開発されたDOHCエンジンだった。


 高回転域での出力を重視し、軽量化や潤滑系統にも特別な工夫が施されていた。


 しかし、GR8型の技術をそのまま量産車へ採用することは容易ではなかった。


 競技用エンジンは、高い性能を得るために製造コストや整備性を犠牲にできる。


 だが、量産車ではそうはいかない。


 毎日の通勤や買い物に使われ、長距離を走り、何年も使用される。


 そのためには、耐久性、燃費、整備性、製造コストなど、さまざまな条件を満たす必要があった。


「……難しいな」


 高城は、鉛筆を置いた。


 その時、扉がノックされた。


「高城さん、まだ残っていたんですか?」


 入ってきたのは、片桐俊介だった。


「ああ。少し考え事をしていてな」


 片桐は、机の上の図面を見た。


「G7とGR8ですか?」


「そうだ」


 高城は頷いた。


「レースで得られた技術を、量産車に生かせないかと思ってな」


 片桐は、椅子に腰を下ろした。


「……なるほど」


「だが、簡単じゃない」


 高城は資料を指差した。


「GR8は競技専用だ。高い出力を出すために、コストや整備性を犠牲にしている部分もある」


「量産車では、そのまま使えませんね」


「ああ」


 高城は頷いた。


「だが、考え方は応用できるかもしれない」


 片桐は、しばらく資料を見つめた。


「……例えば、潤滑系統ですか?」


「そうだ」


 高城は顔を上げた。


「高回転域での油圧の安定性や、冷却性能の改善。そうした研究は、量産車にも役立つはずだ」


 片桐は頷いた。


「それなら、レースで得られたデータも使えますね」


「ああ」


 高城は小さく笑った。


「そう考えると、R380の開発は無駄じゃない」


 片桐は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「……高城さん」


「何だ?」


「宮原さんも、同じことを考えているのかもしれませんね」


 高城は顔を上げた。


「どういうことだ?」


「宮原さんは、技術開発を止めたいわけじゃないと思うんです」


 片桐は続けた。


「会社を残すために、技術開発の成果をもっと広く生かしたいんじゃないでしょうか」


 高城は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに頷いた。


「……そうかもしれないな」


 窓の外では、夕暮れの空が暗くなり始めていた。


-1966年7月5日 午後2時00分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業 開発施設会議室


 会議室には、開発部門の技術者たちが集まっていた。


 机の上には、今後の研究開発計画に関する資料が置かれている。


 その前に立っていたのは、宮原健一だった。


「それでは、今後の開発方針について説明いたします」


 宮原は、資料を開いた。


「現在、会社の経営再建は進行中ですが、財務状況は依然として厳しい状態にあります」


 技術者たちは黙って聞いていた。


「そのため、研究開発費についても、優先順位を明確にする必要があります」


 宮原は続けた。


「R380の大規模な改良計画については、一時的に延期する方針です」


 その瞬間、会議室がざわついた。


 藤崎亮介が立ち上がった。


「……待ってください」


 宮原が顔を上げた。


「藤崎さん」


「延期というのは、どういうことですか?」


「現在の財務状況では、競技専用車の開発に多額の資金を投入することが難しいということです」


 藤崎は、机に手をついた。


「勝ったからこそ、次の車を作るべきじゃないんですか!」


 宮原は静かに答えた。


「お気持ちは理解しています」


「理解しているなら、どうして止めるんですか!」


 藤崎の声が会議室に響いた。


「ポルシェは、もう次の車を開発しているかもしれない。トヨタだって、次の挑戦を考えているでしょう。それなのに、我々だけが立ち止まるんですか!」


 宮原は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに答えた。


「……会社を残すためです」


 藤崎は、言葉を失った。


「藤崎さん。私は、技術開発を否定しているわけではありません」


 宮原は続けた。


「しかし、会社が存続できなければ、次の車を作ることもできないんです」


「それは分かっています!」


「では、理解してください」


 宮原の声が、少し強くなった。


「我々は、銀行から支援を受けて、ようやく会社を存続させている状態なんです」


 藤崎は、拳を握りしめた。


「……それでも」


 宮原は、資料を閉じた。


「私だって、R380の勝利は嬉しかった」


 会議室が静かになった。


「富士から優勝の報告を受けた時、私は本当に嬉しかったんです」


 宮原は、技術者たちを見渡した。


「皆さんが、どれほど努力してきたかも知っています」


 そして、静かに続けた。


「だからこそ、その努力を無駄にしたくないんです」


 藤崎は、黙って宮原を見つめていた。


「……ですが、今のままでは会社が持たない」


 宮原は、少しだけ視線を落とした。


「私は、皆さんの夢を守りたい。しかし、そのためには、会社を守らなければならないんです」


 会議室には、重い沈黙が流れた。


 その時、高城修一が口を開いた。


「……宮原さん」


 宮原が顔を上げた。


「はい」


「1つ、提案があります」


「何でしょうか」


 高城は、机の上に置かれた資料を開いた。


「R380の開発で得られた技術を、量産車の開発に応用するんです」


 宮原は、少し驚いた表情を見せた。


「量産車に?」


「はい」


 高城は頷いた。


「GR8型エンジンの研究で得られた潤滑や冷却の技術。それに、車体の軽量化や足回りの研究成果」


 藤崎が顔を上げた。


「……高城さん」


「それらを、次世代スカイラインやグロリアの開発に生かすんです」


 宮原は、しばらく考えた。


「……なるほど」


 高城は続けた。


「もちろん、競技用の技術をそのまま量産車に使うことはできません。しかし、研究成果を応用することはできるはずです」


 片桐も口を開いた。


「私も賛成です」


 宮原が顔を上げた。


「片桐さん」


「レースで得られたデータは、量産車の耐久性や燃費の研究にも役立つ可能性があります」


 藤崎は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに口を開いた。


「……車体の軽量化も、量産車に応用できるかもしれません」


 高城は頷いた。


「そうだ」


 藤崎は、少し考えた。


「ただし、量産車では製造コストや安全性も考えなければなりません」


「もちろんだ」


 高城は笑った。


「だからこそ、研究する価値がある」


 宮原は、しばらく資料を見つめていた。


 そして、静かに頷いた。


「……分かりました」


 技術者たちが顔を上げた。


「R380の大規模な改良計画については、現時点では延期せざるを得ません」


 藤崎は、少し表情を曇らせた。


「しかし」


 宮原は続けた。


「レース技術の量産車への応用研究については、正式に検討したいと思います」


 高城は頷いた。


「ありがとうございます」


 宮原は、小さく笑った。


「こちらこそ」


 そして、静かに言った。


「皆さんの技術を、会社の未来につなげましょう」


 藤崎は、しばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……分かりました」


 その表情には、まだ複雑な思いが残っていた。


 しかし、少なくとも新しい道が見え始めていた。


-1966年7月20日 午後6時00分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業 開発施設


 夕暮れの開発施設。


 高城修一は、机の上に広げられた図面を見つめていた。


 そこには、次世代スカイラインに向けたエンジン研究の構想が描かれていた。


 直列六気筒エンジンの改良。


 冷却性能の向上。


 潤滑系統の見直し。


 そして、将来の高性能エンジン開発につながる基礎研究。


 高城は、鉛筆を手に図面へ書き込みを加えていた。


 その時、扉が開いた。


「高城さん」


 藤崎亮介だった。


「まだ残っていたんですか?」


「ああ」


 高城は顔を上げた。


「少し考え事をしていてな」


 藤崎は、机の上の図面を見た。


「……次世代スカイラインですか?」


「そうだ」


 高城は頷いた。


「まだ構想段階だがな」


 藤崎は、しばらく図面を見つめていた。


「……高城さん」


「何だ?」


「俺、正直に言うと、まだ納得できていません」


 高城は顔を上げた。


「R380のことか?」


「はい」


 藤崎は頷いた。


「ようやく勝ったのに、次の開発を止めるなんて」


 高城は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに答えた。


「……俺も、悔しいよ」


 藤崎は驚いた表情を見せた。


「高城さんも?」


「ああ」


 高城は笑った。


「俺だって、もっと速いエンジンを作りたい。もっと高い性能を目指したい」


 そして、図面に目を落とした。


「だが、今は別の戦い方を考える必要があるのかもしれない」


 藤崎は黙って聞いていた。


「レースで勝つことも大切だ。だが、プリンスの車を買ってくれる人たちのために、いい車を作ることも大切なんだ」


 藤崎は、しばらく考えた。


「……そうですね」


 高城は続けた。


「それに、量産車の開発だって、簡単じゃない」


 藤崎が顔を上げた。


「どういうことですか?」


「レースカーは、速さを最優先にできる。だが、量産車は違う」


 高城は図面を指差した。


「燃費、耐久性、整備性、価格、乗り心地。それらをすべて満たさなければならない」


 藤崎は頷いた。


「……確かに」


「むしろ、量産車の方が難しい部分もあるかもしれない」


 藤崎は、少し笑った。


「高城さんらしいですね」


「そうか?」


「ええ」


 藤崎は、机の上の図面を見つめた。


「……だったら、俺も協力させてください」


 高城は顔を上げた。


「いいのか?」


「もちろんです」


 藤崎は笑った。


「R380で学んだ車体設計の技術を、次のスカイラインに生かしたいんです」


 高城は、静かに頷いた。


「……頼むよ」


 2人は、再び図面を広げた。


 窓の外では、夕日が工場の屋根を赤く染めていた。


-1966年8月1日 午前9時00分-

 東京都内

 プリンス自動車工業 本社


 1966年8月1日。


 史実では、日産自動車とプリンス自動車工業が合併した日である。


 しかし、この世界では、その合併は行われなかった。


 プリンス自動車工業は、独立企業として存続していた。


 この日、本社では新たな経営方針の発表が行われていた。


 会議室には、経営幹部や各部門の責任者たちが集まっていた。


 宮原健一と小野寺正彦も、その中にいた。


 議長役の役員が立ち上がった。


「本日、我が社は独立再建に向けた新たな経営方針を発表いたします」


 会議室が静まり返った。


「昨年、我々は日産自動車との合併交渉を打ち切り、独立存続の道を選びました」


 役員は続けた。


「その決断は、決して容易なものではありませんでした」


 出席者たちは黙って聞いていた。


「しかし、我々には守るべきものがあります」


 役員は、静かに言った。


「プリンスが培ってきた技術。そして、その技術を信じてくださるお客様です」


 宮原は、資料を見つめていた。


 小野寺は、静かに頷いていた。


「今後、我が社はスカイラインとグロリアを中心とした商品力の強化を進めます」


 役員は続けた。


「また、研究開発体制を見直し、競技で得られた技術を量産車へ応用する取り組みを進めます」


 会議室には、静かな緊張感が漂っていた。


「我々の目標は、単に会社を存続させることではありません」


 役員は、力強く言った。


「独立した自動車メーカーとして、世界に誇れる車を作り続けることです」


 宮原は、静かに拳を握った。


 その言葉は、彼自身が目指してきたものでもあった。


 しかし、同時に理解していた。


 今日の発表によって、すべての問題が解決するわけではない。


 経営再建は、まだ始まったばかりだった。


-1966年8月1日 午後5時30分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業 開発施設


 夕暮れの荻窪事業所。


 工場の屋根が、赤い夕日に照らされていた。


 高城修一は、机の上に新しい図面を広げていた。


 その隣には、藤崎亮介と片桐俊介が立っていた。


「……これが、次の研究計画ですか?」


 藤崎が尋ねた。


「ああ」


 高城は頷いた。


「まだ構想段階だがな」


 片桐は図面を覗き込んだ。


「エンジンだけではなく、車体や足回りも含まれていますね」


「そうだ」


 高城は答えた。


「次のスカイラインでは、車全体の性能を高めたい」


 藤崎は、しばらく図面を見つめていた。


「……面白そうですね」


 高城は小さく笑った。


「そうだろう?」


 その時、扉がノックされた。


「失礼します」


 入ってきたのは、宮原健一と小野寺正彦だった。


「宮原さん?」


 高城が顔を上げた。


「どうされたんですか?」


 宮原は、少し笑った。


「新しい研究計画について、話を聞きに来ました」


 小野寺も頷いた。


「それに、販売現場の意見も伝えておきたくてね」


 高城は、少し驚いた表情を見せた。


「販売現場の意見ですか?」


「ああ」


 小野寺は答えた。


「次のスカイラインを作るなら、お客様が何を求めているのかも知っておいてほしい」


 藤崎は、興味深そうに顔を上げた。


「例えば、どんなことですか?」


 小野寺は、少し考えた。


「そうだな……」


 そして、静かに言った。


「速くて、乗り心地がよくて、壊れにくい車だ」


 藤崎は笑った。


「ずいぶん欲張りですね」


「お客様というのは、そういうものだよ」


 小野寺も笑った。


 宮原は、机の上の図面を見つめた。


「……皆さん」


 4人が顔を上げた。


「我々は、まだ厳しい状況にあります」


 宮原は続けた。


「金融機関からの支援も、いつまでも続くとは限りません」


 高城は頷いた。


「分かっています」


「ですが、今日から新しい一歩を踏み出すことになります」


 宮原は、静かに言った。


「技術と経営と販売。そのすべてが協力しなければ、プリンスは生き残れません」


 高城は、しばらく宮原を見つめていた。


 そして、静かに頷いた。


「……そのとおりですね」


 藤崎も頷いた。


「俺たちも、できることをやります」


 片桐は、資料を手に取った。


「レースで得られたデータも、活用していきましょう」


 小野寺は笑った。


「それなら、販売現場も協力するよ」


 宮原は、少しだけ表情を緩めた。


「……ありがとうございます」


 5人は、机の上の図面を囲んだ。


 そこには、まだ形になっていない新しい車の構想が描かれていた。


 1966年5月3日。


 プリンスR380は、第3回日本グランプリで優勝した。


 それは、技術者たちにとって大きな栄光だった。


 しかし、栄光だけでは会社を存続させることはできない。


 優れた車を作り、それを必要とする人々に届け、利益を生み出し、次の車を開発する。


 その繰り返しによって、初めて自動車メーカーは成長していく。


 プリンス自動車工業は、ようやくその道を歩み始めたのである。


 高城は、新しい図面を見つめた。


 そして、小さく呟いた。


「……これからが、本当の勝負だな」


 窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいった。


 その向こうには、まだ誰も知らない未来が広がっていた。


 レースには勝った。


 しかし、企業としての戦いは、まだ始まったばかりだった。


 ――第6話「栄光の陰で」完。

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