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第16話「勝利の代償」

第16話 勝利の代償


-1969年5月12日 午前9時15分-

 東京都内

 プリンス自動車工業 本社

 取締役会議室


 富士スピードウェイでの勝利から、9日が過ぎていた。


 プリンス自動車工業の本社には、今なお祝福の電話が寄せられていた。


 自動車雑誌には、白いスカイラインGT-Rの写真が大きく掲載され、販売店には新たな問い合わせが相次いでいる。


 新聞の見出しには、こう記されていた。


『プリンスGT-R、初陣を飾る』


 1965年に日産自動車との合併交渉が決裂して以来、独立企業として苦しい経営を続けてきたプリンスにとって、久しぶりの明るい話題だった。


 しかし、本社の取締役会議室に、勝利の余韻はほとんど残っていなかった。


「……それでは、次の議題に移ります」


 宮原健一が資料をめくった。


 会議室には、神谷正一郎社長をはじめ、大河内隆之専務、西園寺誠一常務、村瀬義明取締役、安藤俊夫取締役らが集まっていた。


 机の上には、1969年度の事業計画と、競技部門から提出された追加予算要求書が並べられている。


 大河内が、その一枚を持ち上げた。


「……これは、どういうことだ?」


 宮原が顔を上げた。


「競技部門からの追加開発費の申請です」


「それは読めば分かる」


 大河内は、書類を机に置いた。


「私が聞いているのは、なぜ今になって追加の予算が必要なのかということだ」


 会議室が静かになった。


 西園寺が口を開いた。


「GT-Rの初戦で、いくつかの改善点が明らかになりました」


「改善点?」


「はい。エンジンの高回転耐久性、ブレーキの熱対策、後輪サスペンションの設定などです」


 大河内は眉を寄せた。


「……勝ったのではなかったのか?」


「勝ちました」


 西園寺は頷いた。


「しかし、次も勝てるとは限りません」


 大河内は、しばらく西園寺を見つめていた。


「君たち技術屋は、いつもそう言う」


 西園寺の表情が変わった。


「どういう意味でしょうか」


「勝つために金が必要だと言う。勝ったら、次も勝つために金が必要だと言う」


 大河内は、指先で書類を叩いた。


「それでは、いつになったら終わるんだ?」


 西園寺は答えなかった。


 大河内は続けた。


「1966年のR380でも同じだった。開発費を投じ、勝利を収めた。しかし、勝ったからといって会社の借入金が消えたわけではない」


 神谷は黙って聞いていた。


「今回もそうだ。GT-Rが勝ったことは喜ばしい。だが、その勝利がどれほど利益に結びついたのか、誰か説明できるのか?」


 安藤が口を開いた。


「販売店への問い合わせは確実に増えています」


「問い合わせが増えただけでは利益にならん」


 大河内は即答した。


「実際に何台売れたのか。利益はいくら増えたのか。それを示してくれ」


 安藤は、資料を確認した。


「GT-Rそのものは高価格車ですから、販売台数は限られます。ただ、通常のスカイラインにも関心が集まっています」


「それは分かる」


 大河内は頷いた。


「だが、関心が集まることと、会社が儲かることは別だ」


 会議室に重苦しい沈黙が落ちた。


 やがて、神谷が口を開いた。


「……大河内君」


「はい」


「君の懸念はもっともだ」


 大河内は頷いた。


 しかし、神谷は続けた。


「ただし、競技活動がプリンスの名を世間に広めていることも事実だ」


「承知しています」


「ならば、その両方を考えなければならん」


 神谷は、机の上に置かれたGT-Rの写真を見つめた。


「技術を守ることと、会社を守ること。その二つを、どう両立させるかだ」


 誰も、すぐには答えられなかった。


 富士での勝利は、プリンスに栄光をもたらした。


 だが同時に、これまで先送りにされてきた問題を、経営陣の前へ突きつけていた。





-1969年5月16日 午後3時40分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業

 エンジン研究施設



 荻窪の研究施設には、今日もエンジンの試験音が響いていた。


 高城修一は、S20型エンジンの分解検査結果を確認していた。


 机の上には、レース終了後に回収された部品が並べられている。


 ピストン。


 コンロッド。


 軸受。


 そして、バルブ機構の部品。


 片桐俊介が報告書を広げた。


「高城さん。今回のレースで使用したエンジンですが、主軸受の状態は良好でした」


「そうか」


「ただし、排気側バルブの一部に、予想よりも強い熱の影響が見られます」


 高城は顔を上げた。


「どの気筒だ?」


「五番です」


 高城は、部品を手に取った。


 金属表面には、わずかな変色が見られた。


「……燃焼状態に偏りがあるのかもしれないな」


 片桐は頷いた。


「キャブレターの調整と、排気温度の分布を再確認したいと思っています」


「そうだな」


 高城は、部品を机に戻した。


「次の試験で確認しよう」


 片桐は、少し言いにくそうに口を開いた。


「……ただ、問題があります」


「何だ?」


「追加試験の予算が、まだ承認されていません」


 高城の手が止まった。


「……何?」


「本社で、競技部門の費用を見直しているそうです」


 高城は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「……またか」


 片桐は、少し困ったように笑った。


「仕方がないのかもしれません。会社の経営も厳しいようですし」


 高城は、机の上の部品を見つめた。


「それは分かっている」


 そして、顔を上げた。


「だが、問題を見つけた以上、放っておくわけにはいかない」


 片桐は頷いた。


「はい」


「レースで壊れなかったから大丈夫、というわけではない。次はもっと暑いかもしれない。もっと長時間、高回転を使うかもしれない」


 高城は続けた。


「耐久性というのは、一度走り切れば証明できるものじゃない」


 片桐は、静かに聞いていた。


 その時、藤崎亮介が入ってきた。


「高城さん」


「どうした?」


「車体部門も、同じ状況です」


 高城が顔を上げた。


「……予算か?」


「はい」


 藤崎は、椅子に腰を下ろした。


「後輪サスペンションの改良試験を申請したのですが、保留になりました」


 片桐が尋ねた。


「何が問題なんですか?」


「費用だそうだ」


 藤崎は、少し苦笑した。


「試作部品の製作費と、走行試験の費用がかかるからな」


 高城は、深く息を吐いた。


「……勝ったばかりだというのに」


 藤崎は頷いた。


「ええ」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、片桐が口を開いた。


「……本社の人たちは、分かっていないんでしょうか」


 高城は、片桐を見た。


「何をだ?」


「技術開発には、時間も費用も必要だということです」


 高城は、すぐには答えなかった。


 そして、静かに言った。


「……分かっていないわけじゃない」


 片桐が顔を上げた。


「本社には、本社の事情がある」


 高城は続けた。


「だが、俺たちにも譲れないものがある」


 彼は、S20型エンジンを見つめた。


「プリンスがプリンスであるためには、技術を磨き続けなければならない」


 藤崎が頷いた。


「……そのとおりですね」


 高城は、静かに言った。


「だからこそ、話し合わなければならん」


 その言葉は、決して強いものではなかった。


 しかし、そこには技術者としての揺るぎない信念が込められていた。





-1969年5月22日 午前10時30分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業

 乗用車開発部門  



 グロリアS6系の試作車が、整備用リフトの上に載せられていた。


 その下では、技術者たちが防振材の取り付け部分を確認していた。


 榊原宗一郎は、試験報告書を見つめていた。


 47歳。


 グロリアS6系の開発責任者である。


 1968年に登場した新型グロリアは、プリンスの上級乗用車として期待されていた。


 しかし、販売状況は決して楽観できるものではなかった。


 トヨタ・クラウン。


 日産セドリック。


 そして、他社の上級乗用車。


 競争相手は多かった。


 榊原は、報告書を閉じた。


「……もう少し、静かにできるはずなんだがな」


 若い技術者が顔を上げた。


「エンジンマウントの変更ですか?」


「それもある」


 榊原は頷いた。


「だが、車体側の振動の伝わり方も見直したい」


 若い技術者は、少し困ったように言った。


「……その件ですが」


「何だ?」


「試作部品の発注が、保留になっています」


 榊原の表情が変わった。


「……理由は?」


「開発費の削減だそうです」


 榊原は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「……そうか」


 若い技術者は、申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみません」


「君が謝ることではない」


 榊原は、試作車を見つめた。


 グロリアは、スカイラインとは違う車だった。


 速さを競うための車ではない。


 長距離を快適に移動するための車。


 乗る人に、安心と静けさを与える車。


 それが、榊原の目指すグロリアだった。


 しかし、その価値は数字で示しにくかった。


 最高速度。


 最高出力。


 レースでの勝利。


 それらは、誰の目にも分かりやすい。


 だが、車内の静粛性や乗り心地は違う。


 わずかな振動を減らすために、何か月も試験を重ねる。


 その努力が、新聞の見出しになることはほとんどなかった。


 榊原は、静かに呟いた。


「……グロリアにも、必要な仕事があるんだがな」


 その時、扉が開いた。


 高城修一が入ってきた。


「榊原さん」


「高城君か」


「少し、お話しできますか」


 榊原は頷いた。


「ああ」


 二人は、試作車の横に並んだ。


 高城が口を開いた。


「……こちらも、予算を止められたそうですね」


 榊原は苦笑した。


「君たちもか」


「はい」


 榊原は、グロリアを見つめた。


「……君たちのGT-Rは、勝ったばかりだろう」


「それでも、予算は別問題だそうです」


 榊原は、静かに笑った。


「……なるほど」


 高城は、少し考えた。


「榊原さんは、どう思いますか」


「何をだ?」


「今の会社の方針です」


 榊原は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに答えた。


「……難しい問題だな」


 高城は頷いた。


「ええ」


 榊原は続けた。


「私は、GT-Rの開発を否定するつもりはない。あの車は、プリンスの技術力を示す大切な存在だ」


 そして、グロリアを指差した。


「だが、グロリアにも役割がある」


 高城は頷いた。


「……分かっています」


「速い車だけが、良い車ではない」


 榊原は、静かに言った。


「静かな車にも、価値がある」


 高城は、しばらく黙っていた。


 そして、深く頷いた。


「……そのとおりですね」


 榊原は、少し笑った。


「だからこそ、技術者同士で争ってはいけない」


 高城が顔を上げた。


「……え?」


「限られた予算を奪い合えば、最後には会社全体の技術力が落ちる」


 榊原は続けた。


「我々が考えるべきなのは、どの車が偉いかではない」


 そして、静かに言った。


「プリンス全体として、どんな車を作り続けるべきなのかだ」


 高城は、その言葉を胸に刻んだ。





-1969年5月27日 午後1時45分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業

 商用車開発部門 



 商用車開発部門の作業場には、1台のプリンス・クリッパーが置かれていた。


 荷台には、試験用の重りが積まれている。


 車体の下では、若い技術者が後輪のリーフスプリングを確認していた。


 佐伯正人。


 28歳。


 前年まで、スポーツカーの開発に憧れていた若手技術者だった。


 しかし、地方販売店の視察をきっかけに、商用車の重要性を理解するようになっていた。


 今では、クリッパーの乗り心地と耐久性の改善に取り組んでいた。


「……森田さん」


 佐伯が声をかけた。


 商用車開発部門の責任者、森田信夫が顔を上げた。


「どうした?」


「リーフスプリングの改良案について、試験を進めたいのですが」


 森田は、少し困ったような表情になった。


「……その件か」


 佐伯は頷いた。


「はい」


 森田は、机の上の資料を見た。


「残念だが、予算が保留になった」


 佐伯の表情が変わった。


「……保留ですか?」


「ああ」


「ですが、試作部品はもう設計を終えています」


 森田は頷いた。


「分かっている」


 佐伯は、少し声を強めた。


「荷物を積んでいない時の乗り心地を改善できれば、運転手の疲労も減らせます」


「分かっている」


 森田は、静かに答えた。


「だが、今は会社全体で費用を見直している」


 佐伯は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「……GT-Rには、あれだけお金を使っているのに」


 森田の表情が変わった。


「佐伯」


「……はい」


「その言い方は、やめろ」


 佐伯は、顔を上げた。


 森田は続けた。


「GT-Rの技術者たちも、必死に仕事をしている」


 佐伯は黙った。


「君がクリッパーを大切に思うように、彼らもGT-Rを大切に思っている」


 森田は、静かに言った。


「技術者同士が、互いの仕事を軽んじてはいけない」


 佐伯は、深く息を吐いた。


「……すみません」


 森田は頷いた。


「分かればいい」


 そして、クリッパーを見つめた。


「ただし、君の悔しい気持ちは分かる」


 佐伯が顔を上げた。


「……森田さん」


「私だって、もっと良いトラックを作りたい」


 森田は、静かに続けた。


「だが、会社が苦しい時には、我慢しなければならないこともある」


 佐伯は、しばらく考えた。


 そして、静かに言った。


「……それでも、諦めたくありません」


 森田は、少し笑った。


「それでいい」


 佐伯は、クリッパーを見つめた。


 泥道を走るトラック。


 農作物を運ぶ車。


 人々の暮らしを支える機械。


 その価値は、レースの勝利とは違う。


 しかし、決して小さなものではなかった。





-1969年6月5日 午後2時00分-

 東京都内

 プリンス自動車工業 本社

 経営企画室



 宮原健一は、机の上に積まれた資料を見つめていた。


 そこには、各車種の販売実績、開発費、生産費用、設備投資計画などが記されていた。


 スカイライン。


 グロリア。


 クリッパー。


 マイラー。


 そして、スカイラインGT-R。


 どの車種も、プリンスにとって重要な商品だった。


 しかし、会社の資金には限りがあった。


 宮原は、算盤で計算した。


 数字を確認する。


 そして、深く息を吐いた。


「……厳しいな」


 その時、大河内隆之専務が入ってきた。


「宮原君」


「専務」


「資料はまとまったか?」


「はい」


 宮原は、書類を差し出した。


 大河内は、椅子に腰を下ろした。


 そして、資料を読み始めた。


「……なるほど」


 しばらくして、大河内が口を開いた。


「君は、どう思う?」


 宮原は顔を上げた。


「……何についてでしょうか」


「技術開発費のことだ」


 宮原は、少し考えた。


「……削減は必要だと思います」


 大河内は頷いた。


「そうだろう」


 しかし、宮原は続けた。


「ただし、一律に削減するべきではありません」


 大河内が顔を上げた。


「……ほう」


「車種ごとに、役割が違います」


 宮原は、資料を広げた。


「スカイラインは、販売台数を確保する主力車です」


 そして、別の資料を指差した。


「グロリアは、上級車市場でプリンスのブランドを支える存在です」


 さらに、商用車部門の資料を示した。


「クリッパーやマイラーは、安定した需要が見込める重要な商品です」


 大河内は、黙って聞いていた。


 宮原は続けた。


「そして、GT-Rは、技術力を示す象徴です」


 大河内は頷いた。


「……なるほど」


「つまり、すべてを同じ基準で評価することはできません」


 宮原は、静かに言った。


「販売台数だけでは測れない価値があります」


 大河内は、しばらく考えた。


 そして、静かに答えた。


「……君の言うことは分かる」


 宮原が顔を上げた。


「だが、銀行はそう考えてくれん」


 宮原は黙った。


 大河内は続けた。


「銀行が見るのは、利益と返済能力だ」


 そして、机の上の資料を指差した。


「技術力が高いからといって、借入金の返済を待ってくれるわけではない」


 宮原は、静かに頷いた。


「……はい」


 大河内は、窓の外を見た。


「1965年、我々は独立を選んだ」


 宮原は黙って聞いていた。


「その選択を、私は間違いだったとは思っていない」


 大河内は続けた。


「だが、独立した以上、自分たちの力で生き残らなければならん」


 そして、静かに言った。


「技術者たちの夢を守るためにも、会社を潰すわけにはいかないんだ」


 宮原は、その言葉を胸に刻んだ。



-1969年6月12日 午後4時30分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業

 技術部門会議室



 会議室には、高城修一、藤崎亮介、片桐俊介、榊原宗一郎、森田信夫、佐伯正人らが集まっていた。


 机の中央には、本社から送られてきた通知書が置かれていた。


 そこには、こう記されていた。


『1969年度下期開発予算の見直しについて』


 藤崎が、通知書を見つめた。


「……これは、かなり厳しいですね」


 片桐も頷いた。


「競技用エンジンの追加試験まで、承認制になるそうです」


 佐伯が口を開いた。


「商用車部門も同じです」


 榊原は、静かに言った。


「グロリアの改良計画も、いくつか延期になった」


 会議室が静かになった。


 高城は、しばらく黙っていた。


 そして、口を開いた。


「……皆、同じ状況か」


 森田が頷いた。


「ああ」


 藤崎は、少し苛立ったように言った。


「本社は、我々に何をしろと言うんでしょうか」


 高城が顔を上げた。


「……藤崎」


「技術を磨けと言いながら、開発費を削る」


 藤崎は続けた。


「それでは、良い車なんて作れません」


 片桐も頷いた。


「GT-Rだって、開発費がなければ完成しませんでした」


 佐伯が口を開いた。


「クリッパーも同じです」


 榊原は、静かに聞いていた。


 そして、口を開いた。


「……少し、落ち着こう」


 藤崎が顔を上げた。


「榊原さん」


「君たちの気持ちは分かる」


 榊原は頷いた。


「だが、本社にも事情がある」


 藤崎は、少し不満そうな表情になった。


「……それは分かっています」


 榊原は続けた。


「問題は、どこまで削って良いのかということだ」


 高城が頷いた。


「……そうですね」


「削って良いものと、削ってはいけないものがある」


 榊原は、静かに言った。


「そこを、我々自身が示さなければならない」


 森田が口を開いた。


「つまり、優先順位を決めるということか」


「そうだ」


 榊原は頷いた。


「本社に対して、必要な開発費と、その理由を説明する」


 片桐が尋ねた。


「……認めてもらえるでしょうか」


 榊原は、少し笑った。


「分からん」


 そして、続けた。


「だが、何も言わなければ、何も変わらない」


 高城は、静かに頷いた。


「……やりましょう」


 藤崎も頷いた。


「はい」


 佐伯は、少し緊張した表情で言った。


「……自分も、資料をまとめます」


 森田が、静かに笑った。


「頼むぞ」


 こうして、技術部門は本社に対して、開発計画の再検討を求めることになった。






-1969年6月18日 午後7時20分-

 東京都内

 プリンス自動車工業 本社

 社長室



 夜の本社は、静まり返っていた。


 社長室の窓からは、東京の街明かりが見えていた。


 神谷正一郎は、机の上の資料を見つめていた。


 そこには、技術部門から提出された開発計画の再検討要求書が置かれていた。


 その時、扉がノックされた。


「……どうぞ」


 大河内隆之専務が入ってきた。


「社長」


「大河内君か」


「少し、お時間をいただけますか」


 神谷は頷いた。


「ああ」


 大河内は、椅子に腰を下ろした。


 そして、机の上の書類を見た。


「……技術部門からの要求書ですね」


 神谷は頷いた。


「ああ」


「どうされるおつもりですか」


 神谷は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「……君は、どう思う?」


 大河内は、少し考えた。


「すべてを認めることはできません」


 神谷は頷いた。


「そうだろうな」


「しかし、すべてを拒否することも危険です」


 神谷が顔を上げた。


「……ほう」


 大河内は続けた。


「技術者たちの意欲を失わせれば、会社の将来に影響します」


 神谷は、少し笑った。


「君の口から、そういう言葉が出るとはな」


 大河内も、少し笑った。


「私も、技術を軽んじているわけではありません」


 そして、真剣な表情になった。


「ただ、会社が倒れれば、技術者たちの仕事も失われます」


 神谷は、静かに頷いた。


「……そのとおりだ」


 大河内は続けた。


「私は、1965年のことを忘れていません」


 神谷は、窓の外を見た。


 1965年。


 日産との合併交渉が決裂した時、プリンスは厳しい状況に置かれていた。


 資金繰り。


 生産設備。


 販売網。


 そして、開発費。


 すべてが問題だった。


 それでも、神谷たちは独立を選んだ。


 プリンスの名を守るために。


 そして、技術者たちが自分たちの車を作り続けるために。


 神谷は、静かに言った。


「……あの時、我々は約束した」


 大河内が顔を上げた。


「何をですか?」


「プリンスを、独立した自動車メーカーとして残すと」


 大河内は頷いた。


「はい」


 神谷は続けた。


「だが、残すだけでは足りない」


 そして、机の上の要求書を見た。


「プリンスらしい車を作り続けなければ、独立した意味がない」


 大河内は、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに答えた。


「……そのとおりですね」


 神谷は、椅子から立ち上がった。


「技術部門との合同会議を開こう」


 大河内が顔を上げた。


「……合同会議ですか」


「ああ」


 神谷は頷いた。


「互いに、言いたいことを言わせよう」


 そして、静かに続けた。


「今のプリンスには、それが必要だ」





-1969年6月25日 午前10時00分-

 東京都内

 プリンス自動車工業 本社

 大会議室

 


 大会議室には、経営陣と技術部門の責任者たちが集まっていた。


 机の上には、各部門から提出された開発計画書が並べられている。


 神谷正一郎社長が、会議の開始を告げた。


「……それでは、始めよう」


 会議室が静かになった。


 神谷は続けた。


「今日は、開発費の問題について、率直に意見を聞きたい」


 そして、技術者たちを見た。


「遠慮はいらん。思っていることを話してくれ」


 最初に立ち上がったのは、高城修一だった。


「……では、私から」


 神谷が頷いた。


「頼む」


 高城は、資料を広げた。


「GT-Rの競技用エンジンについて、追加試験が必要です」


 大河内が顔を上げた。


「理由は?」


「高回転域での耐久性を、さらに確認するためです」


 高城は続けた。


「初戦では問題なく走り切りましたが、今後の競技では、より厳しい条件になる可能性があります」


 大河内は、静かに尋ねた。


「……それは、必ず必要なのか?」


 高城は頷いた。


「はい」


「費用を抑える方法はないのか?」


「試験内容を絞ることは可能です」


 高城は答えた。


「しかし、必要な確認を省略することはできません」


 大河内は、しばらく考えた。


 次に、藤崎亮介が立ち上がった。


「車体部門からも、お願いがあります」


 神谷が頷いた。


「聞こう」


「後輪サスペンションの改良試験を進めたいと考えています」


 藤崎は、図面を広げた。


「GT-Rは高出力の後輪駆動車です。コーナーの立ち上がりで、後輪の接地性を改善する余地があります」


 大河内が尋ねた。


「……それも、競技のためか?」


「競技だけではありません」


 藤崎は答えた。


「得られた知見は、将来の高性能乗用車の開発にも役立ちます」


 大河内は頷いた。


 続いて、榊原宗一郎が立ち上がった。


「グロリアについても、申し上げたいことがあります」


 神谷が顔を上げた。


「榊原君」


「はい」


 榊原は、静かに言った。


「グロリアS6系は、プリンスの上級乗用車です」


 そして、資料を広げた。


「現在、静粛性と乗り心地の改善を進めていますが、試作部品の製作が保留になっています」


 大河内が尋ねた。


「販売台数に、どれほど影響するのか?」


 榊原は、しばらく考えた。


「……正確な数字を示すことは難しいと思います」


 大河内は、少し眉を寄せた。


「それでは、判断できん」


 榊原は頷いた。


「分かっています」


 そして、静かに続けた。


「ですが、上級車の価値は、数字だけでは測れません」


 大河内が顔を上げた。


「……どういう意味だ?」


「静かであること。長時間乗っても疲れないこと。安心して移動できること」


 榊原は続けた。


「それらは、グロリアを購入するお客様にとって、重要な価値です」


 会議室が静かになった。


 その時、佐伯正人が立ち上がった。


「……商用車部門からも、お願いがあります」


 森田信夫が、少し驚いたように佐伯を見た。


 佐伯は、緊張した表情で資料を広げた。


「クリッパーの後輪リーフスプリングについて、改良試験を進めたいと考えています」


 大河内が尋ねた。


「……何を改善するんだ?」


「荷物を積んでいない時の乗り心地です」


 佐伯は答えた。


「商用車は、荷物を積んだ状態での耐久性が重要ですが、空荷で走る時間もあります」


 そして、続けた。


「その時の振動を減らせれば、運転手の疲労を軽減できます」


 大河内は、少し考えた。


「……それで、何台売れるようになる?」


 佐伯は、言葉に詰まった。


「……それは」


 大河内は続けた。


「改良に費用をかける以上、販売への影響を示してほしい」


 佐伯は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「……分かりません」


 会議室が静かになった。


 森田が、少し顔をしかめた。


 しかし、佐伯は続けた。


「ただ、地方の販売店で、実際にクリッパーを使っている方々を見ました」


 大河内が顔を上げた。


「……ほう」


「泥道を走り、農作物を運び、毎日の仕事を支えている車です」


 佐伯は、少し声を強めた。


「その車を、もっと良くしたいんです」


 大河内は、黙って聞いていた。


 佐伯は続けた。


「レースで勝つ車も大切です。ですが、毎日働く車も、同じくらい大切だと思います」


 神谷は、静かに頷いた。


 その時、大河内が口を開いた。


「……皆の言いたいことは分かった」


 会議室が静かになった。


「だが、君たちは一つ、大切なことを忘れている」


 高城が顔を上げた。


「……何でしょうか」


 大河内は、机の上の資料を指差した。


「金だ」


 誰も答えなかった。


「開発費は、無限にあるわけではない」


 大河内は続けた。


「銀行への返済もある。工場の設備投資も必要だ。販売店の整備も進めなければならない」


 そして、技術者たちを見渡した。


「君たちの要求をすべて認めれば、会社の資金はどうなる?」


 会議室が静まり返った。


 高城は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに答えた。


「……それは、我々も理解しています」


 大河内は頷いた。


「ならば、優先順位を決めてくれ」


 高城が顔を上げた。


「……優先順位?」


「そうだ」


 大河内は続けた。


「すべてが重要だと言われても、経営判断はできん」


 榊原は、静かに頷いた。


 森田も、腕を組んで考え込んでいた。


 神谷は、会議室を見渡した。


「……大河内君の言うとおりだ」


 そして、続けた。


「だが、技術者たちの言うことも正しい」


 会議室が静かになった。


 神谷は、ゆっくりと立ち上がった。


「だからこそ、我々は決めなければならん」


 そして、静かに言った。


「プリンスは、何を守り、何を諦めるのかを」





-1969年7月3日 午後2時00分-

 東京都内

 プリンス自動車工業 本社

 取締役会議室



 前回の合同会議から、1週間が過ぎていた。


 その間、各部門では開発計画の見直しが行われていた。


 高城修一は、競技用エンジンの試験項目を整理した。


 藤崎亮介は、サスペンションの改良試験を段階的に進める案をまとめた。


 榊原宗一郎は、グロリアの改良項目に優先順位を付けた。


 森田信夫と佐伯正人は、クリッパーの改良を既存部品の見直しから始める計画を提出した。


 そして、宮原健一が、それらを一つの資料にまとめた。


 神谷正一郎社長は、その資料を見つめていた。


「……宮原君」


「はい」


「説明してくれ」


 宮原は立ち上がった。


「今回の開発予算について、次の方針を提案いたします」


 会議室が静かになった。


「まず、GT-Rの競技活動は継続します」


 西園寺が頷いた。


「……よし」


「ただし、追加開発費は段階的に承認する方式とします」


 大河内が顔を上げた。


「具体的には?」


「試験ごとに目的と結果を確認し、必要なものから順次実施します」


 大河内は頷いた。


「それなら、管理できるな」


 宮原は続けた。


「次に、グロリアS6系の改良については、静粛性と乗り心地に関わる重要項目を優先します」


 榊原が、静かに頷いた。


「ありがとうございます」


「ただし、大規模な設計変更は当面見送ります」


 榊原は、少し考えた。


 そして、答えた。


「……承知しました」


 宮原は、次の資料を開いた。


「商用車部門については、クリッパーの改良試験を限定的に再開します」


 佐伯が顔を上げた。


「……本当ですか?」


 森田が、静かに頷いた。


「落ち着け」


 宮原は続けた。


「ただし、まずは既存部品の組み合わせや設定変更による改善を優先します」


 佐伯は、深く頷いた。


「……分かりました」


 宮原は、最後の資料を開いた。


「そして、スカイラインC10型の量産品質改善については、引き続き重点的に進めます」


 神谷が頷いた。


「……なるほど」


 大河内は、資料を見つめた。


「これなら、当初の要求よりも費用を抑えられる」


 宮原は頷いた。


「はい」


 しかし、西園寺が口を開いた。


「……ただし、これで十分とは言えません」


 神谷が顔を上げた。


「分かっている」


 西園寺は続けた。


「技術開発を抑えれば、将来の競争力に影響します」


 大河内が答えた。


「それも承知している」


 そして、静かに続けた。


「だが、今は会社を守ることが先だ」


 神谷は、しばらく考えた。


 そして、口を開いた。


「……この方針で進めよう」


 会議室が静かになった。


「ただし、各部門の状況は定期的に確認する」


 神谷は続けた。


「必要であれば、再び見直す」


 宮原は頷いた。


「承知しました」


 こうして、プリンスの開発予算をめぐる対立は、一応の決着を見た。


 しかし、それは完全な解決ではなかった。


 技術者たちは、すべての要求を認められたわけではない。


 経営陣も、十分な余裕を確保できたわけではない。


 互いに譲歩しながら、限られた資金を分け合ったに過ぎなかった。





-1969年7月10日 午前9時30分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業

 開発施設



 夏の暑さが、荻窪の開発施設を包んでいた。


 エンジン研究室では、高城修一と片桐俊介がS20型の試験準備を進めていた。


「……追加試験、認められましたね」


 片桐が言った。


 高城は頷いた。


「ああ」


「ただし、回数は限られています」


「分かっている」


 高城は、試験計画書を見つめた。


「だからこそ、一回一回を無駄にできない」


 片桐は頷いた。


「はい」


 その隣の車体開発室では、藤崎亮介がサスペンションの図面を広げていた。


 試作部品の数は、当初の計画よりも少ない。


 しかし、藤崎は諦めていなかった。


「……限られた条件でも、できることはある」


 彼は、静かに呟いた。


 さらに別の建物では、榊原宗一郎がグロリアS6系の試験車を見つめていた。


 静粛性の改善。


 乗り心地の向上。


 そして、上級車としての品質。


 榊原の仕事も、続いていた。


 商用車開発部門では、佐伯正人がクリッパーの後輪サスペンションを調整していた。


 森田信夫が近づいてきた。


「……どうだ?」


 佐伯は、少し笑った。


「まだ、試験の途中です」


 森田は頷いた。


「そうか」


 佐伯は続けた。


「ですが、少しずつ良くなっています」


 森田は、静かに笑った。


「……それでいい」


 佐伯は、クリッパーを見つめた。


 かつて、彼はスポーツカーの開発に憧れていた。


 しかし、今は違う。


 人々の暮らしを支える車を、もっと良くしたい。


 その思いが、彼を動かしていた。





-1969年7月18日 午後5時15分-

 東京都内

 プリンス自動車工業 本社

 社長室


 夕暮れの東京。


 神谷正一郎は、窓の外を見つめていた。


 机の上には、1969年度の事業計画が置かれていた。


 その横には、一枚の写真があった。


 富士スピードウェイで勝利したスカイラインGT-R。


 神谷は、その写真を手に取った。


 そして、静かに呟いた。


「……勝つことは、難しいな」


 その時、扉がノックされた。


「……どうぞ」


 宮原健一が入ってきた。


「社長」


「宮原君か」


「本日の販売報告をお持ちしました」


 神谷は頷いた。


「ありがとう」


 宮原は、資料を机に置いた。


 神谷は、しばらくそれを見つめていた。


 そして、口を開いた。


「……宮原君」


「はい」


「君は、プリンスがこれからも独立して生き残れると思うか?」


 宮原は、少し驚いた。


「……社長」


 神谷は、静かに続けた。


「1965年、我々は独立を選んだ」


 宮原は頷いた。


「はい」


「だが、独立することと、生き残ることは違う」


 神谷は、窓の外を見た。


「会社を守るためには、利益が必要だ」


 そして、GT-Rの写真を見つめた。


「しかし、利益だけを追い求めれば、プリンスらしさを失うかもしれない」


 宮原は、静かに聞いていた。


 神谷は続けた。


「……難しいものだな」


 宮原は、少し考えた。


 そして、答えた。


「……私は、両方必要だと思います」


 神谷が顔を上げた。


「……両方?」


「はい」


 宮原は続けた。


「技術だけでは、会社は存続できません」


 そして、静かに言った。


「しかし、技術を失えば、プリンスが独立している意味も失われます」


 神谷は、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……そのとおりだ」


 宮原は続けた。


「だからこそ、難しくても両立させなければならないのだと思います」


 神谷は、少し笑った。


「……君は、なかなか厳しいことを言うな」


 宮原も、少し笑った。


「申し訳ありません」


「いや」


 神谷は首を振った。


「それでいい」


 そして、静かに続けた。


「……プリンスには、そういう人間が必要だ」


 窓の外では、夕日が沈みかけていた。


 東京の街には、無数の自動車が走っていた。


 トヨタ。


 日産。


 いすゞ。


 そして、プリンス。


 日本の自動車産業は、急速な成長を続けていた。


 その中で、プリンスは独立企業として生き残ろうとしていた。


 技術者たちは、より良い車を作ろうとしている。


 経営者たちは、会社を守ろうとしている。


 目指すものは、決して違わない。


 しかし、そこへ至る道は、必ずしも同じではなかった。


 神谷は、机の上のGT-Rの写真を見つめた。


 そして、静かに呟いた。


「……次は、何を守るべきなのだろうな」


 その問いに、答える者はいなかった。


 ただ、遠くから自動車の走行音が聞こえていた。


 プリンスの挑戦は、まだ終わらない。


 むしろ、本当の試練は、これから始まろうとしていた。


 ――第16話「勝利の代償」完。

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