第十五話 There's no time to lose.
レットが二人で洞窟に戻る途中、突然隣で歩いていたデモンが不安げな表情で足を止めた。
いつの間に到着していたのだろうか?
レットの視線の先には、雪塗れのクリアが洞窟の壁面に寄りかかって腕を組んで立っていた。
デモンの反応を受けて、クリアは気まずそうにレット達から顔を反らす。
(クリアさんは……未だに、デモンに警戒されているんだな)
「デモンさん。レットさんのために、お歌はきちんと歌えましたか?」
場の雰囲気を和らげるかのように、タナカがクリアとデモンの間に割って入った。
「自信はないけれど――多分…………上手くいった」
「うん。おかげで元気になれたんだ。本当にびっくりしたよ。デモンは、歌と踊りがとっても上手くてさ」
「それは、とても良かったですね。ではデモンさん。私達は、このまま温泉に入りましょう」
「――わかった。レット。……待っていてね」
タナカに連れられて、デモンは嬉しそうに温泉の方に戻って行く。
「レット――悪かった。俺達がフォルゲンス側に抜けるのは想定外だった。気象予報も大きく外れて、この時間帯に天候が吹雪になってしまった――。あのオーメルドの光は、“見ないで登り切る予定”だったんだが……一度見てしまったら、いっそ一人でゆっくりさせてやった方が良いんじゃないかと思ってな」
「オレに色々気を遣ってくれてたんですね……。ありがとうございます。時間をとってくれたおかげで――、一旦だけど、色々……洗い流せました……温泉――とっても“暖かかったです”」
クリアの真横を通り過ぎたレットの足は――
「〔――未だに、心残りなんだろ?〕」
――そのクリアの囁きでぴたりと止まった。
「〔そう……ですね……。あの娘が、あの後にどうなったのか、オレは最後まで何もわからないままだから……。あ――でも、“デモンはデモン”ですよ! あの娘とは全然違うから――間違っても同じ目で見たりとか、混同したりとかしていないですから!〕」
「〔きっと……お前はずっと苦しいままなんだろうな〕」
何についての言葉なのか理解できずに、レットは沈黙したままだった。
「〔“あの少女”は、最後までお前の中に“いなくなった弟”を見ていた。そしてデモンは、今お前の中に“安心できる父親”を見出している。お前が手を差し伸べている人間は、誰もお前を“一人の男”として見ようとはしていない。……それは、お前にとって辛いことかもしれない〕」
「〔何を言ってるんですか! そんなくだらないことで、迷ったり悩んだりするなんて馬鹿げてますよ!〕」
その言葉に嘘偽りはない。
レットはクリアに対して笑みを浮かべてみせる。
「〔それに、それってあの娘にとって、とても良いことじゃないですか! 今のオレは、デモンに対してときめいたり――ドキドキしたりする気持ちなんて全くないし。だから、“ちゃんとできると思います。あの娘の父親役!”〕」
クリアはそんなレットを見つめてから、痛ましいものを見るかのように視線を反らした。
「〔……レット。今のお前の気持ち。俺にもわからないわけじゃない。度を越した性暴力を目の当たりにした人間は、そういった行為や思想全般に嫌悪感や不快感を抱くようになる。あの岩窟での戦いから、お前はそういうトラウマをずっと抱えている節がある〕」
「〔それは――〕」
「〔そういう経験を経て、自分を殺した結果、上手くやれているつもりなのかもしれないが。――“お前は中学生なんだぞ”。はっきり言って、今の精神状態は行きすぎてる。本当に大丈夫なのか?〕」
心配そうな表情をしているクリアの指摘を受けて、レットは再度認識した。
気が付けば、ゲームを始めた頃に抱いていた自らの願望――『かつての自分自身』を、既に完膚なきまでに“否定してきってしまっていた”ということを。
「〔……そんな心配をしてもらわなくても、オレは大丈夫です。別に――辛くないです〕」
そうして初めて、自分の今の現況を俯瞰し理解した。
(もしかしたら、今のオレってどこかおかしいのかもな。そりゃそうだよな。今のオレには……戦う目的がわからないんだ……。自分の無力さを知った上で……ただ我武者羅に……あてもなく彷徨っているだけで……)
果たして、何のために自分は戦うのか。
きっと、この冒険の先には何の見返りもない。
かつて少年が望んだような物語のような展開にはなり得ない。
むしろ、そういう願望を否定され続けた結果――今ここに少年は立っていて、進む道を見失っていた。
(オレはこれから……一体どこに向かって歩いているんだろう?)
自らの足が、鉛のような重さを感じる。
温泉を上がったばかりのレットの背中に、洞窟の外から吹き荒ぶ冷たい風が突き刺さる。
身体が冷えていくのを感じた。
先程まであったはずの元気が、全身から抜けていくように感じられた。
眼前に広がる洞窟は異様に暗く感じられ、まるでこれからの少年の陰鬱な道行きを暗示するかのようだった。
『……レットは私にとって――暖かい太陽なのよ……』
確かに、少女に頼られているのはとても嬉しい。
しかし、今になってようやくレットは気づいた。
本当は、自分の置かれている状況が既に耐えられないくらいの重荷になっていたということを。
『お前が手を差し伸べている人間は、誰もお前を“一人の男”として見ようとはしていない』
本当は、誰かに『辛い』と言いたかった。
戦う理由を見出せずに、必死になって目先の出来事に縋って、この世界の中で冒険を続けていることが辛かった。
それでも投げ出すつもりはなく。だからこそ尚のこと辛かった。
摩耗していることを自覚していたレットはふと思った。
あの少女のように『自分のことをきちんと見て、自分を隣で励ましてくれる人』が、自分の隣に居てくれれば良いのに。
「〔そうか……『辛くない』――か〕」
立ち止まっているレットに対して、クリアが背後から呟きつつ歩み寄る。
「〔そうだな。お前はこんな状況でも、そんな風に言い切れてしまえる。だからこそ――“俺が代わりに認めよう”〕」
クリアはレットの背後で足を止めた。
しばらくの間。二人の間に沈黙があった。
「〔お前は……………………『立派な男』さ。まだ若いのに――――本当によく、頑張っている」
(……………………)
突然、鉛のようになっていた両足が軽くなったような気がした。
レットは振り返らず。半分笑いの混じったような声色で、返事を返した。
「〔――――――クリアさんに認められても、嬉しくないです!〕」
「〔そりゃあそうだな! ワッハッハッハッハ!〕」
励ますかのようにクリアがレットの肩を叩きながら一人で先に洞窟の奥に進んで行き。レットがその背中を追従する。
二人は再び洞窟の中に戻っていく。
そんな中、レットには目の前を歩くクリアの背中だけが――――はっきりと見えていた。
それからしばらくして、クリアは拠点となる場所で足を止めた。
「さて、レット。お前は早起きと夜更かし。どっちが得意だ?」
「どっちも大丈夫ですけど。どういう意味です?」
「そろそろあの娘が“強制的に寝る時間”だろ? ここらは人通りも少ないしキャンプを張るなら良い場所だ。しかし、彼女はかなり特殊なケースで、“どこでも時間になれば半強制的に寝てしまう”上に、タナカさん曰く“寝ている間は何があっても一度も起たことがない”らしい。抵抗の意思が全くないと、パッシブ状態でも“同意の元丁重に運ばれる”可能性がある」
「……要は、ログインしている時は“連れ去られる可能性がある”ってことですね」
「そうだ。いくらこの洞窟の中がかなりの安全地帯とはいえ。無防備になっているあの娘を放置することはできないからな。見張り役としてログインとログアウトは交代でやるべきだろう」
「交代って……ログアウトの必要がそもそもなくないですか? オレは明日の朝までずっとログインしているつもりですけどォ……」
ゲームにログインしたまま寝るのにすっかり慣れた身としては是が非でもない――レットはそう思いクリアに提案するが、当のクリアは首を横に振った。
「〔電源が切れたみたいに眠れるあの娘ならまだしも……お前――この寒さと上昇気流の音と、吹き付ける風の中で一定の睡眠を取れるのか? 間違っても凍え死ぬことはないが、明日も外はずっと吹雪なんだ。かといって、温泉に浸かったまま眠るわけにもいかないだろ? この環境での徹夜は精神的にも肉体的にも、険しい道を行く予定の明日に響く。そして、ここには焚き火を設置できるオブジェクトもない〕」
「〔そりゃ……そうかもしれないけど……。でも、一人でデモンを見張ること自体が不安っていうか……。音に関しては、SEの音量を下げればいいだけの話だし……〕」
「〔いや、SEを下げると近づいてくる人間の足音や魔法、スキルの音も聞こえなくなる。音量は上げておいた方が良い。俺はタナカさんと話し合って、その為に防御と体力を減らして、罠特化のビルドを組んだからな〕」
クリアが見せつけるように洞窟の奥側に片手を翳す。
「〔名付けて――【超持続罠ビルド】!〕」
上昇気流が出ている洞窟の奥側の景色は、先ほどとは様変わりしていた。
洞窟の地面には、玩具のようなデザインのトラバサミが文字通り“足の踏み場もないほど”に大量に設置されていたのである。
「こ……これってひょっとして、全部流浪者の“罠”なんですか!?」
「その通り。この罠は誰かがご丁寧に全部踏むか、俺がここから移動するか、ビルドを組みなおすか、新しく罠を置き直さない限りはすぐに消えたりしないようになっている。流浪者は他にも色々スキルがあるんだぞ? 花火みたいな煙幕とか毒ガスとか爆竹とか。どっちも雨や風や雪で掻き消えたり、閉所で使うと味方の視界や聴覚を奪うから使いどころがあんまり無いんだがな……。」
(流浪者って、はた迷惑な職業なんだな……)
「でも、ここら一帯は攻撃が出来ないパッシブ設定ができる場所ですよね? この罠って、踏んでもダメージは無いんじゃないです?」
「そうだ。パッシブじゃ攻撃は受けないし、通過しても精々“派手な音が鳴る”程度だ。街中でも使われるちょっとした悪戯だな。漫才で使うバナナの皮みたいなもので、プレイヤーの接近がわかる程度だが……それだけで十分さ! 怪しい奴がトラップに引っかかったら、見張っている人間がすぐにデモンの手を掴むんだ。その瞬間、システム上での扱いが“同行の拒否を主張する二人組”になるからな」
「そっか、デモンが寝ていたとしても攫えなくなるってことですね。そうなればプレイヤーの強さ関係なしに絶対に運べなくなって、デモンの安全は100%、確実に保障される……」
「そして、その後相手に食い下がられても、PKを目的としない“物理的な長時間の付きまとい”はGMに通報できる。完璧だな。ま、前提としてここでデモンを攫おうとする奴はいないだろうけどな。今は敵にビビらずに可能な限り、寝た方が良い」
「いや、理屈はわかるんですけどォ……。万が一パッシブの設定をしていない無関係な人がここを通過したら、それはそれで大変なことになりません?」
「この罠は、威力じゃなく設置の“持続時間”に特化しているから、そこまで大したことにならないさ。せいぜいその場からコンマ数秒動けなくなる程度だ。それに、ここは正規の登山道と違って相当辺鄙な場所みたいだから誰も通らないだろ――多分!」
レットの口から反射的にため息が出た。
クリアの相変わらずのいい加減さにげんなりしつつも、レットは気にせず質問を続ける。
「こんなことしなくても、ずっと誰かが手を握っていればそれで良い気がしますけどね」
「誰も来ない前提で、ずっと気を張っているのも大変だろ」
なるほどな――とレットは渋々納得する。
(クリアさんが“夜更かしか早起きか”をオレに質問したのは、寝ているデモンの見張りの順番を決めるためだったのか……)
「もうすぐ彼女が寝る時間が迫っている。チームの会話で三人の見張りの順番を決めよう。タナカさんには予め話をしてあるから、チーム会話の中に既に居るはずだ」
レットがチームの会話に入ると、クリアは即座に話し合いを始める。
《人数も少ないし、大雑把に三交代制で行こうか。タナカさんが夜から深夜の時間を担当する。俺は、デモンが定時ログアウトして、起きない可能性が高い深夜から早朝を担当。レットが早朝から朝の見張り担当かな。どう思うタナカさん?》
《ど、どうでしょうかね。私、見張りの件に関しては予てより考えていたのですが――三交代で寝ると、真ん中のクリアさんの負担だけが極端に高い気がします……》
《俺はリアルでも色々やることがあってな。いずれにせよログアウトしても、寝ないつもりだから問題はないさ。罠もずっと残るわけじゃない。途中で一度、罠の“置きなおし”をしないといけないわけだしな》
《……私にはそのお言葉が問題に感じます。クリアさんは最近事件に対して様々な根回しをされているからか、あまり眠られていないようですし、罠を再設置するにせよ可能な限り睡眠を取られた方がよろしいのではないかと……》
《しかし、それを言ったらタナカさんだって――》
《私は“大丈夫”ですよ。レットさんはクリアさんの睡眠時間について、どう思われますか?》
レットはクリアの素行を思い返す。
(そういえばクリアさんはたまに欠伸やら昼寝やら、うたた寝をしていたような……。クリアさんが眠そうにしているの、デモンの事件があってから――だったっけ? 最近色々ありすぎて、いつかだったか覚えていないや……)
《確かに、クリアさんは普段からあまり寝てないように見えますけどォ。いつも寝ないで、具体的には何をやってるんです?》
《……あーもう………………わかったよ。よくわかった!》
タナカの指摘とレットの質問を受けたクリアは、乱暴に話を打ち切ると再び壁に寄りかかって天井を見つめる。
《――それじゃあ大雑把に二交代制にしよう。夜はタナカさんと俺。朝をレットと俺で担当する》
《交代できてないですよそれェ!》
《し、しかしな……俺は山登りではほとんど役に立てていない。勇んで同行したとはいえ、迷惑ばかりかけてしまって、モンスターに手間取ったり一人だけ逸れたり……足を引っ張ってばかりだ。せめて見張りとして、少しは役に立ちたいんだがな……》
《その程度のトラブルは山登りする前からなんとなく予想してたことです。クリアさんがゲームプレイで色々やらかすのは、いつものことじゃないですか? そんなこと気にするなんてらしくないですォ。意外過ぎて、雪が降っちゃいますって》
(色々やらかすのは、オレも同じだからあんまり人のこと言えないけどォ……)
《レ、レットさん。そのお言葉は流石に辛辣過ぎでは……。それに、すでに雪は降っていますし……》
《いや、別に辛辣でもないぞ? 俺も普段だったら、迷惑なゲームプレイで仲間の足を引っ張った夜は“満足して熟睡”できるんだが――有事の際だと、流石にちょっとな……》
《む………………………………そ………………そうですか》
《そうやってェ――クリアさんが“いつも通りの発言”するせいで、せっかくのタナカさんのフォローが台無しですよォ……。とにかく、足を引っ張るのを気に病んでるなら猶更今日は一人で休んでください。オレ的には正直言って、未だに相当警戒されているクリアさんとデモンを二人きりにするのはちょっと不安っていうか……。昏睡状態になるってタナカさんは言っていたけど、何かの拍子でデモンが起きちゃうかもしれないじゃないですか? そんな時に何か事件が起きて、クリアさんが咄嗟にあの娘に手を掴んだら逆に離されてしまうかもしれないし……》
酷い言い方ではあったが、レットはクリアが何の役にも立っていないと思っているわけではなかった。
ここまでスムーズに事が進んでいるのは彼の判断や根回しがあるからであり、寝不足なのもそこに時間を費やしているからであって、今後もきっと彼の力が必要になるに違いないと――そう考えていた故の物言いだった。
《つまりその――寝不足だって言うなら、無理せず休んで欲しいです》
レットの意図を組んだのか、クリアはレットを見て僅かに微笑んで、観念したように息を吐く。
《――わかった。なら、今日は二人に任せよう。正直、ありがたいと言えばありがたい。今日は“現実の方”で、きちんと入浴ができそうだ》
クリアがシステムウィンドウを弄りながら呟く。
《それじゃあ、二人は時間を決めて見張っておいてくれ。俺は夜中に一瞬だけ起きて、罠の再設置をして再び寝る。明日の朝は可能な限り早くログインしよう。それにしても――――――――――まさか、またこの三人で、就寝時間のやりとりをすることになるとは思わなかったな》
その言葉を最後に、クリアはゲームからログアウトしていった。
「お待たせしました。レットさん」
それからしばらくして、タナカとデモンが温泉から戻ってくる。
「〔タナカさん。デモンが寝るまで、オレは起きているよ。この娘が起きている間は少しでも長く、できるだけ隣に居てあげたいから〕」
「〔――は。しかし、レットさんの睡眠時間が……よろしいのですか? 何でしたら、私が朝の見張りに回りましょうか?〕」
「〔オレが朝に居なくなるとこの娘が起きた時、隣にオレが居ないかもしれないでしょ? それに、これから寝るにしても――〕」
レットの視線の先で――
「――――――――――♪」
――デモンが体育座りをした状態で小さく鼻歌を歌っている、
膝の上で組まれた両腕から、上目遣いでレット達の様子を伺うように見つめていた。
気が付けば、デモンは先ほどと同じ場所にレットの外套を“地面に広げるようにして座っている”。
つまり、彼女の両隣には――それぞれ一人分入れるほどの空間が“作ってあった”。
「〔――この状態で、ログアウトはできないよね!〕」
「〔フフ……それも、そうですね〕」
タナカとレットは顔を見合わせて、笑い合った。
デモンを中心に二人は外套を羽織って身を寄せる。
やや窮屈だったが、タナカのキャラクターが小さい故かぎりぎり三人で包まることができた。
「――デモンさん。寒くはないですか?」
「平気――タナカも……とっても、優しい人ね。あんまり、暖かくはないけれど……優しい……」
「申し訳ありません。ケパトゥルスという種族は体温がやや低く設定されているようですから。暖かさでいえばレットさんには大きく劣るかもしれません」
「オレって、そんなに暖かいかな?」
「……私ね。何度もぎゅって――しているからわかるのよ。こうしてね。レットといると……お日様の暖かさを思い出すの…………」
「“お日様”か……しっくりこないなあ。――他に、何か思い出したことはある?」
「ううん。何も――温泉に入っても、何も思い出せなかった……。温泉は、暖かいってより――熱くて、あんまり…………気持ちよくなかった」
「成る程……。私には丁度良い温度だと感じられたのですが、やはりお若いと体感温度の違いがあるのかもしれませんね」
(どうだろう。オレは雪が冷たかったからそんなに温泉が熱いとは――)
レットのその思考は、デモンがうつらうつらと船を漕ぎ始めたことで中断された。
「レットからはね……安心できる太陽の匂いがするのよ……――暖かい…………お布団の……懐かしい……………………匂い」
呟きながら、デモンは洞窟の壁に寄りかかり、やがて完全に動かなくなった。
「〔――眠ったのかな?〕」
デモンが眠ったことを確認して、レットはゆっくりと大きな外套から抜け出す。
「〔そのようですね。さて……レットさんも今日はお休みください。休息は大事です。交代の時間についてですがデモンさんは毎朝8時には起きるはずです。今が夜の12時ですので――〕」
「〔――じゃあ、オレは朝の4時にログインするよ〕」
タナカと起床時間の打ち合わせをして、レットはログアウト処理を開始する。
「〔その時間でお願いします。レットさんはお若いし、本来はしっかり睡眠を採るべきです。もし、起きるのが難しい場合は無理なさらないでください。私が引き続き――〕」
「〔――“朝まで起きている”って言うつもりでしょ? でもタナカさん。若いからできる無理もあるんだよ! 心配いらないって!〕」
そう伝えた直後、レットのログアウト処理が終了した――
―――――
そうして、何事もなくやってきた朝。
ログインした直後に、レットはタナカの手によってパーティの誘いを受ける。
「〔タナカさん。おはよう――デモンの様子はどう?〕」
「〔おはようございます、レットさん。デモンさんは――ずっと眠ったままです。起きる素振りはありません〕」
レットがパーティに加入すると、デモンは以前変わりなくパーティの中にいた。
「〔あれ? デモンはパーティに入ったままになっているけど、定時のログアウトはちゃんとしたの?〕」
「〔今日はきっちりと予定通り、夜中にログアウトをされていました。事前にデモンさんの方で『ログアウトしても可能な限りパーティの状態が維持される』ようにコンフィグを設定してもらっていたので、ログイン後もギリギリパーティ状態が継続されたようです〕」
「〔そっか――〕」
呟いて、レットは周囲を一瞥する。
クリアのトラップは荒らされた様子が無いが、寝る前とは配置が微妙に変わっていた。
(クリアさんは夜中に一度だけログインして、罠を設置しなおしたのかな?)
レットがデモンを見つめる。
タナカが気を使ったのか、大きな外套がデモンのためだけに丁寧に巻かれ直されていた。
「〔……タナカさんは凄いね。…………色々、気が利くっていうか――ひょっとして、ずっと寒い中隣に座っていたの?〕」
「〔……このくらい、どうということはありませんよ。私のような小さい低温のキャラクターが隣に居るより、その状態の方がデモンさんにとって一番暖かいでしょう。気が利くといえば、レットさんだってその外套を準備してくれたではありませんか?〕」
「〔う……違うんだ。これのアイテムは、クリアさんがオレに渡してくれていた物で――〕」
レットは、大きく息を吸ってタナカに振り返る。
「〔――――やっぱり、タナカさんはすごいよ。だって、これだけじゃない。タナカさんが居なかったら、デモンは救われなかった。今もデモンだけじゃなくて、お年寄り達にも付き添っているような状態だし。色々な所に気を使ってくれて……クリアさんと相談して、先のことを考えている。改めて、悩んでいるオレって全然駄目なんだなって思う…………〕」
「〔しかし、苦しんでいる彼ら全員に最初に手を差し伸べたようとしたのはレットさんですよ〕」
「〔ち…………違うんだ。オレの伸ばした手なんて、全然届いてなんかいないんだ……〕」
レットが呟いてから落ち込んで視線を逸らす。
「〔いつもそうなんだ……オレはいっつも勢いだけで――実際は……深いところでは何も考えられていない。実際まだ……誰も救えちゃいない。今だってオレは迷っているんだ。オレはただ、あの娘に求められているからここに居るだけなんじゃないかって……〕」
タナカはしばらくの間、黙ってレットの顔を見つめていた。
それから何かを思い出して納得するかのように頷く。
「〔――傷つき、悩み、苦しんでいる人の存在に気づいて、自分から一番最初に手を差し伸べようとする人間は……中々いません。レットさん。あなたはデモンさんの心を、今まさに救おうとしています〕」
「〔でも、考えてみると理由らしい理由なんてそこにないんだ。ただ、流されるままに流されているだけで……〕」
「〔……例え、どのような経緯があろうとも。苦しんでいる人の心を救おうとするその行為自体には、どんなことがあっても、どんな時でも、どんな場所でも――決して間違いはない。だから、あなたはもっと自信を持つべきなのですよ〕」
自信を持つべきだというタナカの言葉に、レットは首を傾げる。
今の少年に信念などなかった。そして、少年は聖人君子でもなかった。
ただ、自分の在り方に苦悩して、行きずりのまま事態に流されているだけだという自覚があった。
「〔オ……オレが今、頑張れているのは……――タナカさんに……〕」
レットが言葉に詰まってタナカから半分だけ顔を背ける。
その間、タナカは優しい眼差しでレットをじっと見つめていた。
「〔タナカさんに、憧れているからなんだ……。タナカさんは無償で人の為にず~っとずっと一番近くで頑張っている人だもん。普通じゃ、絶対できないよ。ケッコさんも言ってたんだ。あの人たちと向き合っているタナカさんは“立派な大人”だって!〕」
レットの言葉にタナカは少しだけ考え込む素振りを見せる。
その後、背中から背負っている小さな盾を取り出した。
「〔――レットさん。私は……理由もなく人助けが出来るほど……出来た人間ではありませんよ〕」
小さな盾は、レットにとって見慣れたアイテム。
それをじっと見つめながら、タナカは何かを思い返すように呟いた。
「〔自分のような人間にも、何かしらの……“意志と目的”がある。ただ――――――それだけです〕」
(あれは……オレが、タナカさんと最初に出会った時からずっと装備している盾……)
レットにとって、その小さな盾は見慣れている物だった。
なぜなら――初めて出会った時から、タナカは今の今までの盾の外見を“一度も変えていなかった”から。
「〔そう――レットさんと、“同じように”……誰にも話せない過去があるのですよ…………〕」
レットは息をのんで、反射的に首元のスカーフを掴む。
タナカは、レットに対して穏やかな笑みを見せた。
「〔さて――――――少し話しすぎましたね。レットさん。後は、よろしくお願いします〕」
「〔え……あ……う……うん……〕」
レットの生返事を受けると、タナカは盾を背中に仕舞ってから、ゲームからログアウトしていった。
自分と出会う前にタナカの身に一体、何があったのか――レットは考え込むも、何もわからない。
(オレと“同じように”……誰にも話せない過去がある――か。タナカさんがオレの事情に深入りしてこないってことは……タナカさんにオレが聞いても、教えてくれないんだろうな……………………)
それからしばらくの間。レットはデモンの横に座り込んで、外套からはみ出ている小さな指を右手でそっと握りながら考え込んでいた。
(……オレの憧れは夢にすぎない虚しい物だって、とっくにわかっているんだ。じゃあオレは――これから何のために、このゲームを続けていくんだろう……。――――わからない)
思考しても答えは出ない。
レットは自分自身のゲームに対する立ち位置を見失いつつあった。
(クリアさんとケッコさんは言ってた。『ゲームに必死になって入れ込んで、強くなっても得られる物なんて大したことがない。自分を見失うし……できることや、やれることなんてたかが知れてる』って……でも――)
『苦しんでいる人の心を救おうとするその行為自体には、どんなことがあっても、どんな時でも、どんな場所でも――決して間違いはない』
タナカの言葉がレットの中で思い返される。
(――じゃあ『目の前に困っている人がいて、その人の心を救う為に強くなりたい』って考えるのは、どうなんだろう?)
何度も何度も頭の中で、同じ思考をループする。
時間は経っても、答えは出ない。
レットは睡眠不足からか、右手で目元を強く抑えた。
(……駄目だ。クリアさんもオレが訓練に入れ込み過ぎているときに言ってたっけ。『疲れていると感じた時に、難しいことを考えるのは負担になるだけだって』。今は、余計なことを考えずに、目の前のことに集中した方が良いな……)
そう思い直して、レットは再びデモンの指を握ろうと手を伸ばす。
右手が“空を掴んだ”。
「――――――――――――――――――――――――え?」
レットの口から、信じられないくらい間の抜けた声が出る。
――――デモンの姿がそこに“ない”。
最初から、すべて幻だったかのように。
大きめの外套は、彼女の座っていた形をしばらくの間保持していたが、まるで思い出したかのようにデモンの体温の残滓を周囲にまき散らしながら地面に倒れこんだ。
(そんな……そんな……おかしい……突然だった! 手を放した一瞬だった……何が何だかわからないうちに――い、一体なぜ!? 何処に行ったんだ!? ど、どうして!?)
「う……嘘だ! そんなッ!!」
絶対に、絶対に遅刻してはいけない大切な日に――目が覚めたら、予定の時間よりも何時間もあっさりと過ぎてしまっていた時に感じるような焦り。
――――否、その何倍もの焦燥感が一瞬にしてレットを襲う。
混乱のあまり、頭の中で乱雑になった思考が加速する。
(何でどうしていきなりいなくなるなんてログアウトした? いや違う連れ去られた油断したんだどうするできることは誰にも頼れない手遅れなのかオレのミスだオレの失敗だオレがオレのせいでオレが手を放したからだどうしてトラップに反応しないなんておかしいじゃないかクリアさんは今居ない誰かに助けを求めるか無理だ早朝だぞチームのメンバーがもしも会話にいても一体何ができる――)
「駄目だ。駄目だ。駄目だ――――――――――――――――」
半狂乱になっているのか、恐怖で視界がぐるぐると回っているような錯覚。
慌てて立ち上がるが、両足に力が入らずその場でこけてしまう。
「――――――――――落ち着けッ!!」
大声で自分の中の思考を落ち着かせる。
冷静にならなければいけないことを認識し、自分が現実と向き合わないと事態がさらに悪化する可能性を思い出す。
(デモンは、ログアウトしたわけじゃない! タナカさんから引き継いだパーティの中にはきちんと居る!)
[デモン! 聞こえる!?]
パーティ会話で、叫びに近いレットの声が響くが、返事は返ってこない。
(だ……駄目だ……デモンはまだ深く眠っている……起きてくれない! いや、もしも彼女を連れ去ったのが“敵”だとして“それを知って襲撃を仕掛けてきた”としたなら! あの娘の現在地を確認しないと――地図を見なければ!)
開かれた地図にデモンの居る座標が表示されていない。
再び一瞬の焦燥感がレットの体内に走るが、すぐに答えを見出した。
(間違いない……デモンは今のマップの“表示領域外”だ! 居る区画が違うんだ! もう崖の下に降りてしまった!)
「待て待て……冷静になれ! 落ち着け……落ち着かなきゃ駄目だ!」
自分に言い聞かせるように呟くレットの脳内で、最悪の想像が浮かぶ。
(この状況で、デモンを狙い撃ちして一瞬で連れ去った。それをできるのは“デモンがこの時間帯に動けない”ってことを――オレ達の事情を詳しく知っている人間だけだ!)
自らの足を力強く手で叩いて感覚を取り戻す。
ゆっくりと立ち上がって、混乱で回っている焦点を地面を合わせる。
(洞窟の中に吹き込んだ雪に足跡がついている……ついさっき、ここを誰かが通過したのか!? でも、ここは一方通行のはずじゃないか!)
レットは慌てて洞窟の奥側を見つめる。
自分がトラップの音を聞き逃したのではと思い返し緊張が走ったが――どの罠も全く反応していない。
慌てて温泉の湧いている広場に向かって走り出す。
(そんな馬鹿な……敵は一体“どうやってトラップに引っかからずにデモンを攫った”んだ!?)
温泉の湧いていた広場に出ると積もった雪に足跡が点々と続いている。
レットの予想した通り、それは右側の崖――下側のフィールドに続いていた。
(歩幅も足跡の大きさもデモンのそれじゃない! もう間違いない……攫われたんだ! 一体何が起きたんだ!? 何が何だかわからない内に――)
『何が何だかわからない内に倒される。チート扱いされているらしい』
(そんな、まさか――! 【死壊層】は抜けたばかりじゃないかッ! それに例のPKは、二人組のはずだ。でも、ここにある足跡は一つ……いや、片方がこの先で待ち伏せしている可能性もある。もしもこれが例の二人組なら……一体どういう意図があるんだ!?)
レットは瞬時にパーティメンバーの情報を確認する。
デモンHPのゲージは減っていない。
(デモンを倒すのが目的なら、降りた先の無法地帯でとっくに攻撃しているはず! 時間稼ぎのために、少人数になるタイミングでオレ達の山登りそのものを妨害しようとしたのか!? とにかく、今はやれることをやっておかなきゃ!)
チームの会話でレットは叫ぶ。
《すみません! 誰でも良いんです! どなたか――今、チームの会話に居ませんか!》
《はーい。どうかしたのでしょうかー?》
間延びしているどこかほんわかとした声は、ワサビの物だった。
役割的に、一番ログインしている時間の長い彼女のことである。
ひょっとすると万が一の緊急時の為に居てくれたのかもしれないが、しかし今のレットにそこまで思考を割いている余裕はない。
《ワサビさんはクリアさんとフレンドですよね!? とっっっても仲が良いんですよね!》
《えっと……えー。……そうですねー。クリアさんとは――とっても“仲良し”ですよー。できることなら、今よりもっと仲良くなりたいのですけどー》
《じゃあワサビさん! クリアさんがログインしたら、真っ先にチームの会話でオレに話かけるように囁いておいてください! 今は緊急事態なんです!》
《Σ わ、わかりましたー。他に、何か私にできることってありますかー?》
《特に無いです! じゃあ、お願いします!》
申し訳ないと思いつつも、一方的に会話を打ち切ってレットは再び思考する。
(考えろ! 考えろ!! もしも敵が【死壊層】の二人組なら……敵の正体がわかったところでオレには多分一人も倒せない。オレが教わっているのは“身を守る”ことだけで、それすらも上級者相手に通じるかどうか怪しい。……でも……今動けるのはオレだけだ! なら――)
思い起こされるのは、岩窟で窮地に追いやられたかつての体験。
同時に、自分自身に暗示をかけるように覚悟を決める。
(確かに……一瞬の油断だったかもしれない。でも……それでも一瞬は油断をしたんだ! ――この事態はオレの責任だ! このままデモンを見捨てて逃げるだなんて――このオレ自身が許せるか!!)
一度決めればもう止まらない。
目下の足跡めがけて躊躇なく飛び降りる。
レットの行く先はパッシブ設定が禁止された――死の舞う真っ白な雪原。
着地の衝撃を和らげるために身を屈める。
跳ねる雪とともに少年は進む方向に顔だけを上げて、覚悟を決める。
(オレが行くしかない……! ――クリアさんがログインして駆けつけてくれるまで……オレがこのまま一人でデモンを追跡するんだ!)




