09 獅子王の支度係の風邪
「――クロエ?何だか、顔が赤くないか?」
香枝の前にふわりと香りの立つ紅茶のカップを置いたジルが、はっと気付いたような顔で香枝の顔を見た。その言葉に誘われるように、隣に座っていたニーナも香枝の顔を覗きこむ。
「本当だ。……あ、これ、熱あるんじゃない?」
「……今日は何だか寒いなーって思ってたんだけど」
額に当たるニーナの手が冷たく感じて首を傾げる。
今日は朝から寒気がして、侍女服の下には沢山着込んでいる。ドロワーズだって二枚履きでもこもこだ。それなのに、寒気は取れず背筋が寒い。
ニーナの手が去った代わりに、自分の手を両の頬に当ててみる。すると、確かに彼女が言うように熱かった。
「今日はもう休んだ方が良いよ。あたし伝えておくし」
「でも、そんなに辛くないし……」
「そうだぞ。そんなお前を働かせたなんて気付かれたら、クロードが何て言うか」
「陛下付きの他の侍女まで怒られるよー」
「そんなことないと思うけど、分かった。今日はもう休むことにする」
「そうだ。そうしろ」
心配そうな顔をする二人に押されて、クロエがようやく頷く。
それまでは寒気がして少しぼんやりすると思っていだけだったのに、風邪だと自覚すると急に体調が悪くなったように感じるから不思議なものだ。
「……何だか急に体調悪くなったかも」
「おいおい、大丈夫か?」
「あたしまだ休憩時間だから、部屋まで送ってったげる」
「ありがとう。悪いけど、お願いしたい……」
休むと決めたら、さっさと部屋のベッドに潜り込むべきだ。そう思い立って、立ち上がろうとするとぐらりと体が揺れる。隣に座っていたニーナが慌ててクロエの体を支えて、送ってくれると言ってくれた。せっかくの休憩時間なのに申し訳ない気持ちでいっぱいであるが、この調子であれば自力で部屋に帰るのは難しそうである。有り難く提案に乗って、どうにか部屋のベッドに体を押し込んだのであった。
***
うつらうつらと夢と現実の間を行ったり来たりしていた。眠りが浅いせいなのか、夢ばかりを見ている気がする。
「――ク……っこほ」
「カエ。起こしてしまったか?何だ、水を飲むか?」
「ありがとう」
名前を呼んだものの、喉がかさついて音にならない。ベッドの横にいたクロードは、わたわたと慣れない手つきで香枝を起こして口元に水の入った吸い飲みを差し出した。香枝はそれを手にとって、一口のつもりがぐいぐいと飲み干す。熱が出ているせいで汗をかいたのだろう。
香枝が水を飲み終わると、自分もベッドの端に座って香枝の顔を覗きこむ。汗で張りついているだろう香枝の前髪を肉球のついた手で横に分けると、心配そうな顔のクロードと目が合った。
「まだ辛そうだ」
実際体調が悪いのは香枝であったが、それよりもクロードの方が辛そうな顔をしていた。
「ただの風邪だって。テオドール様が治癒師様を派遣してくださって、診てもらったので確かだから」
「テオドールが?」
香枝がテオドールの名前を出すと、クロードは怪訝そうな顔を浮かべていた。
テオドールはこの国の宰相でクロードのお目付け役とも言える人物である。幼い頃から一緒にいるせいか、クロードには甘いところがあるが、他の人間にはあまり興味を持たない性質でもあった。だからこそ、彼が自ら香枝のために治癒師を派遣したとは考えにくいのだろう。治癒師と言えば、王宮では貴重な存在でつまりはクロードのための治癒師である。
「うん。ニーナに部屋まで連れて来てもらってる時にテオドール様とすれ違って。ニーナが頼んでくれたの」
「ほう。ニーナが。しかし、それでもカエが辛そうにしていると魔法で治してしまいたくなる」
クロードはニーナの名前を聞いて納得したらしい。二人の関係がどうであれ、テオドールが珍しくニーナに興味を持っているのは周知の事実であるのだ。
便利な魔法があるこの世界では病気や怪我なども魔法で立ち所にに治してしまえる。だが魔法で治すとは言っても、実際は本人の持つ自前の治癒力や体力、または寿命を消費して治すという意味だ。重い病気や怪我以外ではあまり推奨されない方法なのである。その上、治癒を施術する治癒師の魔力の消費も激しい。ただの風邪ごときには使用されないのが普通だ。
「すぐに治るから心配しないで。それに、その水差しに入ってる見ずはティアが持ってきてくれた、体に良い水らしいし。レングルトの水って言うんだって。知ってる?」
「……レングルト?」
「うん。深い森の中にある湧き水だって」
「それは……。そうだな。良い水だ」
その水の名前は有名なのか、クロードは驚いたような顔で頷いた。もしかしたら、その場所はかなり遠くにあるのかもしれないとクロードの顔を見て思う。風邪が治ったら彼に改めてお礼を言った方が良いだろう。
熱で魘される香枝の枕元に心配そうな顔で現れた絶世の美女のように見える精霊は、透明なガラスの水差しに入った水を差し出した。聞けば、彼は香枝が風邪をひいたと聞いておいしい水を汲んできてくれたらしい。水の精霊であるティアがおいしい水と言うだけあって、このレングルトの水は確かにおいしい。ぬるくなっても不思議とすっきりとしていて、爽やかな喉越しである。
「あとは、ジルが病避けのお守りをくれたんだよ」
「お守り?」
「うん。これ。気休めかもしれないけど、有難いよね」
ジルがお見舞いがてら持ってきてくれたのは、小さな袋に入ったお守りだった。病が良くなるまで袋を開けてはいけないとよく言い含めて、香枝の枕元に置いていった。紺色の小さなそれは病人の側に置いて置くのが良いらしいので、ジルが置いていったままに枕元に置いている。
「では、食事は食べたのか?」
「さっき、エドモンさんがパン粥を作ってくれて少し食べたよ」
いつも香枝にお菓子をくれる料理長は心配そうに顔をしかめて、トレイを持って現れた。普段の食事の時間とはずれた頃であったので、恐らく他の人の食事を作り終わってからわざわざ香枝のために作って持ってきてくれたのだろう。親子ほどに年の離れた彼は香枝のことを娘のように可愛がってくれる有難い存在だ。彼曰く、猿の姿の彼に香枝が似ているというのも理由の一つであるらしいのだが。
「……うむ。では、何か欲しいものはあるか?」
「特にない、かな。むしろ、今日はお仕事できなくてごめんなさい。他にも侍女がいるのは分かっているけど、大丈夫だった?」
「問題ない。それよりもカエの方が心配だ。辛くはないか?我に出来ることはあるか?」
「クロード……」
クロードに言われて考えてみるが、実際に欲しいものは特になかった。ベッド側のナイトテーブルには水差しと簡単に食べられる果物、治癒師がくれた薬が載っている。食事も終えたし、ニーナが世話してくれて着替えも終わった。もう寝すぎて眠れないくらいだが、ゆっくり休めばすぐに治るだろうということは分かる。
「我に出来ることはないな……」
「じゃあ、一つお願いしても良い?」
しょんぼりと肩を落とすクロードの姿は威厳のある獅子の姿であるはずなのに、どこか落ち込んだ猫の姿と重なって見えた。思わずくすりと笑みを浮かべそうになって、それを隠してクロードを見る。
「うむ。何でも言え。部屋一杯の花でも、南の果物でも、北の氷でも何でも手に入れよう」
「もう。そうじゃなくて。……手、握ってくれる?」
「手?」
「お願い」
恐らく、クロードは言葉の通りに香枝が欲しがるものをその通りに手に入れてくれるだろう。だが、香枝にはそんなものは必要なくて、むしろクロードに与えて欲しい物は一つだけである。
しっかりと体にかけられた掛け布団から手を出して、クロードの前に差し出す。すると、クロードは戸惑ったようにその手を見つめてから香枝の顔を伺い見た。
「熱に魘されて、ちょっとだけ怖い夢を見て……。私が眠ったら部屋に戻って良いから、それまで手を握ってて欲しいの。手を握るのはクロードじゃなきゃ嫌だから……」
普段は夢なんてほとんど見ないのに、今日に限って嫌な夢ばかり見た。それは前に実際にあったことであったが、だからこそ鮮明に描かれるのだろう。
自分以外が違う言葉を話し、全く会話が通じない夢。日本語だけではなく、他の知っている言葉の単語ですらない。精一杯話してみるのに、誰にも分かってもらえないし、誰が言うことも理解できない。そして最後には自分以外には誰もいなくなる。光のほとんど入らない真っ暗な部屋に取り残されて、少しずつ絶望していく、そんな夢だった。
「分かった。魘されたら起こしてやろう」
「もう、そうじゃなくて。そうしたらクロードが眠れないでしょう?」
「なに、問題ない」
クロードはそう言って、鋭い牙を見せてにやりと笑うと香枝が横になっているベッドに上がる。侍女の中でも王の側つきという上級職であるクロエの部屋は他の侍女よりも少しだけ広い。しかし、ベッドの大きさと言えばシングルよりも少しだけ大きい程度。クロードが眠るベッドの三分の一程度であるのは堅いだろう。
しかしクロードは軽々と香枝を胸に抱いて自身もベッドに横になってしまった。香枝の頬にはクロードの豊かな鬣が当たっている。そして香枝の手の中にはクロードの滑らかで柔らかい肉球があった。
「クロード、あったかい……」
「ああ、眠ると良い。おやすみ」
「おや……すみ、なさい」
もう眠れないはずの香枝はあっという間に眠りの世界に落ちた。
そして悲鳴を上げて飛び起きるまで、あと数時間。炊き枕の獅子は優しい顔で香枝を見つめていた。
クロスゼン医学辞典P.27
レングルトの霊水【れんぐるとのれいすい】
太古の森、レングルトの泉より湧き出る霊水。精霊が泉を守っており、彼が認めた者しか飲むことができない。その森は深く、人跡未踏の地であり、実際に飲んだことのある人間は確認できていない。
霊水の効能は体力、魔力を共に回復し、万能薬であると言われている。
ルディア辞典P.27
病避けのお守り【やまいよけのおまもり】
病になった人へ送るお守り。作り手の技術により、気休め程度から軽い病であれば治してしまうものまで様々。特に守り人の里産のものが高品質で人気であるが、そのために偽物も多い。
ルディア辞典P.29
南の果物【みなみのくだもの】
黄色や濃い赤紫など、変わった色の果物が多い。濃厚な甘さで美味であるが、輸送が困難で高価。それ一つで、一家族の一ヶ月分の食費とも言われる。
ルディア辞典P.33
北の氷【きたのこおり】
宝石のように透き通った美しい氷。太古の水が凍ったものだと言われている。特別な輸送手段を用いるために輸送が困難で、とても高価。一欠けらで、一家族の一年分の食費に相当するとも言われている。