第46話:夜の雨と告白。悪夢に追われ続けた男の過去
秋の終わりを告げる夜の帳は、冷酷なまでに深い群青色を湛えていた。
夕暮れ時にイヴァンがもたらした王都からの凶報――大公派による千尋の強制徴募と、裏ギルドの傭兵部隊の進軍という知らせは、山小屋に集う者たちの胸の奥に、重たい鉛のような影を落としていた。
日が完全に落ちた頃から、常闇の森の空は重く垂れ込めた雨雲に覆われ、やがてパラパラと梢を叩き始めた雫は、夜更けを迎える頃には、木々を激しく打ち据える冷たい秋雨へと変わっていた。
ザァァァァァ……ッ。
屋根を打つ雨音は、千尋が小屋の屋根に張った【住空間の調律】によって、耳障りな打撃音から柔らかく規則正しいホワイトノイズへと和らげられていた。
しかし、外気そのものが運んでくる湿気と冷涼感は、隙間風のない山小屋の分厚い木壁の向こう側で、確かに森の命を凍えさせるような冷気を孕んで渦巻いている。
山小屋の内部には、深く静かな沈黙が支配していた。
長旅と極度の緊張から解放され、千尋の温かなポトフを平らげたノエルは、奥の寝室で泥のような眠りに落ちていた。天日干しされた羽毛布団に包まれ、その胸元には白銀の毛玉――ルゥが丸まり、規則正しい安らかな寝息を立てている。何ヶ月ものあいだ悪夢に追われ続けていた十七歳の少女は、今夜ばかりは眉一つ動かさず、幼子のような無防備な顔で夢の世界へと沈んでいた。
納屋では、早馬を飛ばして駆けつけたイヴァンが、千尋の淹れた温かい麦茶を飲んだ後に深い溜息をついて横になり、ギルバートもまた、頭痛のない静謐な空間で静かに寝息を立てていた。
すべてが寝静まった深夜。
居間の囲炉裏の炭火だけが、パチ……と小さな音を立てて赤く熾り、室内の影を微かに揺らめかせている。
千尋は、ふと目が冴えてベッドから起き上がった。
足元に手作りのフェルトスリッパを滑り込ませ、そっと居間へと足を踏み出した瞬間――肌を撫でたのは、わずかな「冷気」だった。
(……あれ? 引き戸が……)
南向きの白木の縁側へと続く木製の引き戸が、ほんのわずか、十センチほど開け放たれていた。
隙間から吹き込んでくるのは、冷たい雨の匂い。濡れた落ち葉の湿った薫香と、冬の到来を予感させる氷の刃のような大気。
そして――その開いた引き戸の向こう側、屋根の深い軒のギリギリの端に、ひとつの長身の影が佇んでいた。
「……アルヴィス、さん……?」
千尋は息を呑んだ。
薄暗がりの中、背を向けたまま立っていたのは、アルヴィスだった。
普段の隙のない軍服の鎧も上着も脱ぎ捨て、身に纏っているのは千尋が洗ってアイロンをかけた、あの薄手の黒いリネンシャツ一枚きり。
吹き込む激しい横殴りの雨が、軒先を越えて彼の広い肩や銀白色の長髪を容赦なく濡らしていた。水滴が束になった髪を伝って首筋へと滴り落ち、シャツの背中を濃い色に染め抜いているというのに、男は身じろぎひとつせず、自らを氷水で罰するかのように、暗闇の雨空をじっと見つめ続けていた。
その背中から立ち上っていたのは、夕暮れ時に見せたような鋭利な殺気ではなかった。
それは――あまりにも痛々しく、今にも雨の底へと溶けて消えてしまいそうなほどに、小さく、孤独に震える影だった。
(……あんなに濡れて。風邪を引いちゃうじゃない……)
千尋は音を立てないよう静かに台所へ向かった。
かまどの鉄鍋の残り湯で、分厚い麻のタオルを浸し、固く絞る。熱々の蒸気を閉じ込めた温かい蒸しタオルを両手に抱えると、千尋はパイン材の床を踏みしめ、縁側へと歩み寄った。
カラリ……と、引き戸を静かに押し開ける。
サァッ……と冷たい夜雨の飛沫が千尋の頬を掠めた。
「アルヴィスさん。こんなところで立ってたら、身体が芯まで冷え切っちゃうわよ」
千尋の穏やかな声が、雨音のカーテンを割って男の背中に届いた。
ピクリ、とアルヴィスの肩が跳ねた。
しかし――男は振り返らなかった。
千尋の顔を見ようともせず、ただ濡れた銀髪を俯かせ、雨煙の立ち込める森の暗闇を凝視したまま、硬直していた。
「……千尋、か」
掠れた、今にも夜風に吹き消されそうなほど低い声だった。
「……起こしてしまったな。すまない。……中へ戻れ。今夜の雨は、毒のように冷たい」
「冷たいのはあんたの身体でしょ。シャツがびしょ濡れじゃないの」
千尋はためらうことなく、吹き付ける雨の飛沫をものともせずに縁側の端へと進み出た。
素足に履いたフェルトスリッパが、雨で濡れた白木の端を踏みしめる。
千尋は両手に持った温かい蒸しタオルを広げ、アルヴィスの濡れそぼった広い背中へと、ふわりと被せかけた。
ジュゥ……と微かな湯気が立ち上る。
熱い蒸気を含んだ麻タオルの温もりが、冷え切っていた彼の背中を優しく包み込んだ。
「…………っ」
アルヴィスの長身が、まるで熱湯をかけられたかのようにビクッと強張った。
彼は顔を背けたまま、タオル越しに伝わる千尋の体温から逃れるように、わずかに身体を引いた。触れ合うことすら、自らに禁じているかのような痛々しい拒絶の仕草。
「……触るな、千尋」
絞り出すような、掠れた警告。
「私の身体には……冷気の澱が沈殿している。濡れたままの私に触れれば、お前のその温もりまで……凍てついてしまう」
「凍てつくわけないでしょ。私はそんなにやわじゃないわよ」
千尋は引かなかった。
むしろ、タオルごしに彼の逞しい肩へと両手を添え、雨風に冷やされた筋肉の強張りを、上からゆっくりと揉みほぐすように力を込めた。
千尋の固有スキル【住空間の調律】が、手のひらを通して無意識に発動する。タオルの熱を逃がさず、アルヴィスの皮膚の奥深く、ガチガチに硬直していた僧帽筋の芯へと、じんわりとした温熱を送り届けていく。
「……何があったの? イヴァンさんの話を聞いてから、ずっと息を詰まらせているじゃない」
千尋の静かな問いかけに、アルヴィスは濡れた前髪の隙間から、暗い夜の底を見つめ続けた。
雨が、軒先を滝のように流れ落ちていく。
ゴォォォ……と森の巨木たちが風に呻き、冷たい雫が縁側の白木を激しく叩く。
長い、痛ましいほどの沈黙の後。
男の薄い唇が、重たい鉄の扉を押し開けるように、ギリ、と音を立てて開かれた。
「…………私の母は」
低く、震える声だった。
千尋の手が、ピタリと止まる。
「……私の母は、魔力暴走を起こして……狂い死んだ」
言葉が、雨音の中に落ちた。
アルヴィスは千尋の顔を見ようとしなかった。拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んで血が滲むほどに力を込めながら、吐き捨てるように、己の魂を削るように語り始めた。
「ハルデンベルクの血筋は……帝国最強の武力を誇る反面、体内に宿す氷の魔力があまりにも強大すぎる。血を重ねるごとに魔力粒子『アエテル』の密度は濃くなり、神経を侵し、脳を焼き……いずれ自制の限界を超えて自壊する。……母もそうだった」
十歳の記憶。
かつて美しく、優しかった母の姿。
ある夜、母の体内で暴れ狂った氷の嵐は、城の一区画を完全に氷漬けにし、駆けつけた騎士たちの手足を凍結させて砕き折った。
母は自らの頭蓋を掻きむしり、獣のような悲鳴を上げながら、愛する息子であるアルヴィスの首にすら凍てつく爪を立てようとしたのだ。
正気を失い、ただ痛みに狂乱して泣き叫ぶ母を――父である先代公爵が、その手で心臓を刺し貫いて介錯した。血の飛沫すら一瞬で凍りつき、赤黒い氷の結晶となって床に散らばったあの光景。
「母が息絶えたその夜、父は私に告げた。『お前もいずれ、同じ道を辿る。ハルデンベルクに生まれた男は、感情を持ってはならん。心を殺せ、他者を愛するな。心を動かした瞬間、体内の氷がお前を狂気へと叩き落とす』と……」
アルヴィスの肩が、小刻みに震えていた。
タオルの温もりを吸い込みながらも、彼の内臓の奥底に巣食う「十歳のあの日」の冷気だけが、頑なに融解を拒んでいる。
「十八で父が倒れ、私が家督を継いだ。……そこからは、ただの地獄だった」
アルヴィスは自らの両の手のひらを見つめた。
雨に濡れ、白く鬱血した大きな手。
その掌は、数多の命を奪ってきた「死神の凶器」そのものだった。
「北方の国境警備総大将として、幾十の魔獣の群れを屠り、攻め寄せる他国の侵略軍を迎え撃った。……十八で家督を継ぎ、北方戦線で何千という敵を斬った。私の氷の槍は、城壁を割り、軍馬を凍らせ、数え切れぬ兵士の命を奪い尽くした。誰もが私を『帝国最強の盾』と讃え、『冷徹無比の氷の騎士』と持て囃した。……だが」
アルヴィスの喉仏が、激しく波打った。
呼吸が荒くなり、サファイアの双眸に、どす黒い悪夢の炎がゆらめく。
「……目を閉じれば、自分が殺した者たちの叫びが聞こえるのだ」
胸を掻きむしるような、痛切な告白。
「斬り裂いた敵の血飛沫、氷漬けにされて砕け散った兵士の断末魔、魔獣の怨嗟の咆哮……。闇の中に身を沈めた瞬間、それら無数の死霊が泥の底から這い上がり、私の四肢を掴んで地獄へと引きずり込もうとする。……そして、その恐怖に呼応するように、体内の氷魔力が暴走を始めるのだ」
ジュクジュクと、神経を灼熱の針で突き刺されるような激痛。
血管の内壁を無数の氷片が切り裂いて流れ、頭蓋骨を内側から万力で押し潰すような狂気。
夜が来るのが、恐ろしかった。
灯りを消すのが、死ぬほど怖かった。
「眠るのが……死ぬほど怖かった」
アルヴィスの唇が、小刻みにガチガチと震えていた。
歴戦の騎士の言葉とは思えない、怯え切った少年の吐露。
「眠れば……二度と、正気には戻れないと思っていた。目を閉じ、意識を手放したその隙に、体内の魔力嵐が私の理性を食い破り……母と同じように、私もまた狂乱して、部下を、領民を、無差別に凍殺する化け物へと成り果てるのではないかと……! だから私は、眠ることを拒絶した。丸薬を噛み砕き、肉体に刃を突き立てて痛覚で意識を繋ぎ止め、数年間……ただ一度たりとも、深く眠ることなどできなかった……!!」
眠れないのではない。
眠ることが、彼にとって「狂気への転落」そのものだったのだ。
眠れば化け物になる。
人を殺す獣になる。
その恐怖という名の檻に自らを閉じ込め、不眠の炎で己の肉体と精神を焼き続けながら、彼はハルデンベルクの公爵としての義務を果たし続けてきた。
「……私は、いつか狂気に呑まれて死ぬはずの化け物なのだ」
アルヴィスは、力なく自嘲の笑みを浮かべた。
その瞳から、ぽろりと、一粒の雫が零れ落ちた。
雨の飛沫ではない。
何年ものあいだ、誰にも見せることを許されず、己の胸の奥底に凍りつかせていた、熱く痛ましい「涙」だった。
「千尋。……お前は、私を『ただの騎士』として扱ってくれた。この小屋で、初めて息ができる安らぎをくれた。……だが、私の本質は変わらない。私は、血塗られた戦鬼であり、いずれ自壊する呪われた氷の化け物だ。……そんな男が、お前のこの清らかな聖域に踏み込んでいいはずがなかったのだ」
アルヴィスの背中が、雨の中で痛々しいほど小さく縮こまっていた。
帝国全軍を率いる最高指揮官。数万の敵を前にしても眉一つ動かさなかった男が、今はただ、雨に濡れそぼった捨て犬のように、己の存在の罪深さに震え、項垂れている。
「……王都の者どもが嗅ぎつけたのも、私のせいだ。私がここに居座り、ノエル様を連れ込み……お前の日常を、私の業に巻き込んでしまった。……お前の平穏を脅かしている元凶は、他でもない、この私なのだ……!!」
激しい自責の慟哭が、激しい雨音の中に掻き消えていく。
男は拳を濡れた縁側の白木に叩きつけ、額を雨の中へと垂らし、絶望の暗闇へと自らを沈めようとしていた。
冷たい秋の雨が、容赦なく二人を濡らしていく。
すべてを諦め、再び自らを「冷酷な氷の牢獄」へと閉じ込めようとするアルヴィス。
――しかし。
そんな彼の絶望の叫びを、最後まで黙って聞き届けた千尋は。
「…………」
千尋は、驚くことも、軽蔑することもなく、ただ静かに、濡れたタオルの端を握り直した。
そして――。
深く、深いため息を、ひとつだけ零した。
「……はぁ。まったく、この男の人は……」
呆れたような、けれどどこまでも慈しみに満ちた千尋の呟きが、冷たい雨の夜気をふわりと揺らした。
自らを化け物と呼び、罪に震える不器用な男の背中に、元社畜OLの温かな手のひらが、今一度、力強く添えられようとしていた。




