第32話:思考速度ゼロへの転落。首席魔導士、枕を『国家指定重要文化財』に指定
深い、あまりにも深い、意識の深淵へと、ギルバート・アーセルの魂は真っ逆さまに落ちていた。
それは、彼が二十四年の生涯において一度たりとも経験したことのない「無」の領域だった。
ギルバートの頭脳は、幼少の頃から常に過熱した魔導演算機のように稼働し続けていた。大気中に揺らめく微小な魔力粒子『アエテル』の密度勾配、他者の体温や感情の起伏がもたらす魔力波長の乱れ、空間の歪曲率、そして絶え間なく耳朶を打つ外界のあらゆる環境音。
それら膨大な情報が、頼みもしないのに毎秒数万件の演算データとなって彼の脳蓋の奥底へと怒涛の勢いで雪崩れ込んできていたのだ。
眠りにつくことすら、彼にとっては戦いだった。瞼を閉じても網膜の裏には極彩色の魔力光が明滅し、耳を塞いでも血管の拍動が鐘のように鳴り響き、常に三叉神経を千枚通しで滅多刺しにされるような偏頭痛の激痛に苛まれ続ける。彼にとって「睡眠」とは、疲労困憊の果てに脳がショートして引き起こされる、短時間の不快な「気絶」と同義であった。
だが――今、彼を包み込んでいるこの暗闇は何だ。
(……静か、だ……)
音が、ない。
光の明滅も、ない。
いつも頭蓋骨の内側を内側から万力で締め上げていたあの鋭利な痛みが、まるで熱い砂の上に落とした氷の欠片のように、音もなく、跡形もなく消え失せていた。
後頭部を均等な圧力で包み込む、ひんやりとした硬質な沈み込み。
首筋のカーブを完全に埋め、重たい頭部の質量を重力から切り離してくれる、サラサラとした流動性のクッション。
そして、呼吸をするたびに肺腑を満たしていく、甘く、丸く、どこまでも穏やかな熟した青リンゴの芳香――乾燥カモミールのアロマ。
鼻腔を通って大脳皮質へと直接染み渡るその香りは、焼き切れそうだった彼の神経シナプスを、深山幽谷の清冽な湧き水で優しく、丹念に洗い流していくようだった。
(……え……? 痛みが……私の魔力過敏が……思考が、まとまらな……い……)
抵抗しようとする意志すら、霧散していく。
数式を組み立てられない。
大気のアエテルを観測できない。
天才魔導士の超高速演算脳は、抗う間もなく活動を停止した。
思考速度、ゼロ。
即落ち、わずか三秒。
ギルバート・アーセルは、長椅子の上で薄い麻のブランケットに包まれながら、だらしなく口を半開きにし、まるで母の胎内に戻った幼子のような無防備極まりない顔をして、底なしの爆睡へと沈んでいったのだった。
◇
山小屋の居間には、穏やかで満ち足りた午後の時間が流れていた。
南向きの開け放たれた引き戸からは、秋の澄んだ風がさらりと吹き抜け、軒先に吊るされたガラス鉱石の風鈴が「チリン……」と涼やかな余韻を零している。
縁側の白木の上には、香月木のプランターから漂うスペアミントの清涼な香りが満ち、庭の紅葉した梢からは時折、黄金色の木の葉が一枚、二枚と舞い落ちて敷石の上を滑っていた。
長椅子の上で泥のように眠る偏屈眼鏡の青年を横目に、千尋は静かに台所の作業台に立っていた。
足元には、ルゥの抜け毛から縮絨させた純白のフェルトシューズ。床からの底冷えは完全に遮断され、足首から爪先までがじんわりとした優しい温もりに包まれている。
(……さてと。今日の晩御飯の支度を始めましょうか)
千尋は、袖を肘までまくり上げると、素焼きの壺から「あるもの」を取り出した。
それは、麓の村の行商人から手に入れた大豆に似た豆を使い、森の澄んだ空気と手作りの麹で数ヶ月間じっくりと発酵させておいた、自家製の「赤味噌風調味料」だった。
蓋を開けた瞬間、居間いっぱいに立ち上る、深く、香ばしく、どこか懐かしい大豆と塩の発酵香。前の世界で親しんだあの味噌の香気そのものだった。
千尋は鉄鍋にかまどの火を当て、井戸水で戻しておいた肉厚の干し椎茸と、森の清流の岩肌で採れる昆布に似た旨み海草から、弱火でじっくりと琥珀色の出汁を取り始めた。
沸騰直前で海草を引き上げ、椎茸の奥深いアミノ酸をスープへと溶け込ませていく。
まな板の上では、家庭菜園から抜いてきたばかりのみずみずしい白大根と、甘みを蓄えた長ネギが、トントントン、と軽快なリズムで刻まれていく。
千尋の固有スキル【住空間の調律】が台所全体を満たしているため、食材の繊維は傷つくことなく美しく断ち切られ、野菜本来の瑞々しい甘みと大地の滋養が、一滴の雑味も伴わずに引き出されていく。
コトコトと、鍋の中で大根が透き通っていく柔らかな煮沸音。
すり鉢で丁寧に溶いた味噌を、お玉の出汁と合わせながら鍋の中へと溶かし入れる。
ジュワッ……と、秋の夕暮れの空気を震わせるように立ち上ったのは、日本人なら誰もが魂の奥底を直接揺さぶられるような、圧倒的な「お味噌汁の匂い」だった。
足元では、白銀の毛玉――ルゥが、長椅子の足元からトコトコと歩み寄ってきて、千尋のエプロンの裾に頭を擦り付けていた。
「わふ……千尋、いい匂いだ。今日の汁物は、なんだかすごくお腹が鳴るぞ」
「ふふ、ルゥにも後で味を薄めた分を分けてあげるわね。今日のお味噌汁は、セシルちゃんからもらった一番粉で練ったすいとんも入れるのよ」
「すいとん! あのモチモチしたやつだな!」
ルゥが嬉しそうにしっぽを左右に振る。
そんな平和で、温かな生活の営みが続くこと――およそ四時間。
西の山並みの向こうへと太陽が傾き始め、山小屋の窓から差し込む光が、清らかな白金色から、濃密な琥珀色――そして燃えるような茜色の西日へと移り変わった頃だった。
◇
「………………ん、あ……?」
長椅子の上で、厚手の麻ブランケットにくるまれていたギルバートの睫毛が、微かに震えた。
ゆっくりと、重たい瞼が押し上げられる。
網膜に飛び込んできたのは、夕日に照らされて黄金色に輝く、パイン無垢材の美しい天井の梁だった。
木目が、寸分の狂いもなくくっきりと見える。
ギルバートは、ぼんやりとした視界の中で、自らの肉体の異常な異変に気づき、息を呑んだ。
「…………え?」
跳ね起きようとした。
普段なら、眠りから覚めた瞬間には、頭蓋骨の奥でドクンドクンと激しい偏頭痛の脈動が暴れ狂い、全身の筋肉は鉛のように重く、口内は苦い唾液で満たされ、吐き気に耐えながら壁に手をついて立ち上がるのが彼の日常だった。
それなのに。
(……か、軽い……?)
羽毛のようだった。
いや、まるで肉体そのものが重力を忘れ去り、宙に浮いているのではないかと思えるほどの浮遊感。
首筋に手を当てる。
常に鉄の棒のようにガチガチに凝り固まっていた後頭下筋群が、まるで生まれたての赤子のように柔らかくほぐれている。
そして――何より異常だったのは、彼の「頭蓋の内側」だった。
(……痛みが、ない……? 耳鳴りも、ない……? あの、十年来の偏頭痛の激痛が……完全に、消失している……!?)
ギルバートは両手で自らのこめかみを激しく触った。
叩いてみる。抓ってみる。
痛くない。
どこを押しても、あの狂おしいまでの鈍痛が走らない。
それどころか、大脳の思考領域が、かつてないほど清冽な清水で洗い清められたかのように、どこまでも、どこまでも冴え渡っていた。
視界をチカチカと遮っていた魔力過敏症の光片(閃輝暗点)は完全に消え去り、西日の差し込む部屋の埃の一粒、木板の微細な導管の配列、大気中の湿度のバランスに至るまで、すべての空間情報が驚異的な解像度で脳内へと滑らかにマッピングされていく。
「な……な、何だこれは……!? 私の身体に、一体何が起きたのだ……!?」
ギルバートは長椅子から跳ね起きた。
足がパイン材の床を踏みしめる。
サラリとした極上の足触り。靴を脱がされた足先は、床からの温もりを吸い上げて少しも冷えていない。
そして、彼の視線は――先ほどまで自らの後頭部を預けていた「長椅子の上の物体」へと吸い寄せられた。
夕日に照らされ、静かに鎮座する、素朴な生成りのリネン布で包まれた長方形の枕。
ギルバートはおずおずと、まるで古代の禁断の魔導書に触れるかのような、極度の緊張と畏怖を込めて、両手をその枕へと伸ばした。
サクッ……。
指先が触れた瞬間、内部の乾燥種子が擦れ合い、微かな、心地よい音が鳴った。
そして、布地からふわりと立ち上ったのは――先ほど自らの脳を強制シャットダウンさせた、あの暴力的なまでに甘美なカモミールとラベンダーのアロマ。
(……これだ……!)
ギルバートの全身を、猛烈な鳥肌が駆け抜けた。
魔導士としての鋭敏な感覚が、枕の内部構造を一瞬で看破する。
通気性を極限まで高めた天然の乾燥種子による、完全な頭寒足熱の物理排熱構造。
頸椎のS字曲線を完璧に支持し、後頭部にかかる体圧をミリ単位で均等に分散させる絶妙な充填比率。
そして何より――このハーブの一粒一粒、布地の一針一針に定着されている、大気中のアエテルを絶対的な秩序へと平滑化させる、未知の「超高純度精神安定フィールド」の波動!!
「……き、奇跡だ……。こんなものが……この世に存在していいはずがない……!!」
ギルバートの理性が、完全に音を立てて崩壊した。
彼は両手でその枕を恭しく、神の頭蓋骨でも持ち上げるかのように高く掲げた。
その瞳には、狂信的な巡礼者のような熱狂の光がギラギラと宿っていた。
「タタタッ!」と素足で床を駆け抜ける。
向かう先は、台所で夕飯の味噌汁をお玉ですくっていた、エプロン姿の千尋の足元だった。
ズザザザザァァァッッ!!
まるで戦場での決死のスライディングのように、ギルバートは千尋の足元へと滑り込み、パイン材の床板に両膝と額を力任せに叩きつけるようにして、平伏の姿勢で跪いた。
両手には、掲げられたハーブ枕。
「きゃっ!? な、何よ急に!?」
千尋が驚いてお玉を掲げたまま飛び退く。
ギルバートは床に額を擦りつけたまま、血管が切れそうなほどの絶叫を上げた。
「奇跡だぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」
「耳元で叫ばないでって言ってるでしょ!!」
「奇跡だ! 紛れもない神の御業だ!!」
ギルバートはガバッと顔を上げた。眼鏡のない素顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、血走った瞳が千尋を穴が開くほど見つめている。
「私の十年来の神経痛が! 王立魔導院の最高顧問たる宮廷薬師すら匙を投げた不治の魔力過敏症が! 完全に……完全に消失したのだぞ!!」
ギルバートは両手の枕を千尋の目の前へと突き出した。
「貴様……いや、貴女様は一体何者なのだ!? このアーティファクトは一体何だ!? 大気のアエテルを極限まで濾過し、生体の脳波を直接強制調律するこの精神防護結界の術式構造……古代魔法文明の超弩級アーティファクトに違いあるまい!!」
ギルバートの口から、唾とともに専門用語のマシンガンが乱射される。
「これほどの至宝を、このような山奥の廃屋に野ざらしにしておくなど言語道断だ! 直ちに国家予算を全額注ぎ込み! 王立図書館の最深部に三重のミスリル結界を施して封印保管すべきだ! エルダリア王国における『国家指定重要文化財』……いや、『世界指定永久保存超絶至宝』として認定し、全人類の遺産として保護しなければならんのだぁぁぁぁっっっっ!!」
肺腑の底からの、天才魔導士の渾身の絶叫。
己の研究者としてのプライドも、国家の最高峰の知性も、すべてを投げ打って差し出された、魂からの賛美と敬狂。
だが。
そんな青年の熱狂を前にして、エプロン姿の元社畜OLの反応は――あまりにも、あまりにも冷ややかだった。
「…………」
千尋は、掲げられた枕と、床に跪くギルバートを、心底鬱陶しそうに半目で見下ろした。
そして、手にした木製のお玉をくるりと回すと、なんの感慨もない、スーパーのレジ打ちのような平坦な声で言い放った。
「……ただの、草と布よ」
「…………は?」
ギルバートの息が、ピタリと止まった。
「森で摘んできたカモミールとラベンダーを天日干しして、岩場で拾った種を詰めて、余ったリネン布でチクチク縫っただけの、ただの手作り枕よ。何がアーティファクトよ、何が国家指定重要文化財よ。大げさな名前をつけて拝んでんじゃないわよ」
「た……ただの……草、と……布……!?」
ギルバートの優秀な頭脳が、完全にエラーを起こした。
青年の顔から、血の気がサーッと引いていく。
王立魔導院の全予算を注ぎ込んでも再現できないはずの絶対沈静波長が。
古代の神話にしか記されていないはずの完全調律の奇跡が。
ただの、日干しの草。
ただの、拾った種。
ただの、余り布。
「そ、そんな馬鹿な……! 術式は!? 励起魔力の触媒は!? 空間歪曲の魔法陣はどこに刻んであるのだ!?」
「刻んでるわけないでしょ。換気して、埃を払って、お日様に当てて、いい匂いにしただけよ。……それよりあんた」
千尋は、お玉から立ち上る熱々の湯気をフーフーと吹きながら、ギルバートの鼻先を指差した。
「早くそこどいて。邪魔。足元で騒がれると、お味噌汁こぼすから」
パリンッ。
静かな山小屋の居間に、確かにそんな音が響いた気がした。
王立魔導院首席研究員ギルバート・アーセルが、血を吐くような努力で積み上げてきた二十四年の知性、魔導の権威、そしてプライドのすべてが――。
「お味噌汁がこぼれるから邪魔」という、あまりにも圧倒的な主婦の生活感の前に、粉々に砕け散った音だった。
「……お、おみそ……しる……?」
ギルバートは両手に枕を掲げたまま、魂の抜けたような顔で呟いた。
その背後から、トコトコと歩み寄ってきたルゥが、ギルバートの膝の横に座り込み、「ふっ……だから言っただろうに」とでも言いたげな冷ややかな目でギルバートを一瞥した。
そして、千尋に向かって「わふん!」と可愛らしく一声鳴いてみせる。
「はいはい、ルゥ。もうすぐ夕飯ができるからね」
千尋はギルバートを完全に障害物として跨ぎ越すと、お盆の上に木椀を並べ、手際よく夕食の配膳を始めた。
立ち上る、香ばしい大豆の味噌と、出汁の効いた優しい湯気。
西日に染まる山小屋の中で、王国屈指の天才魔導士は、枕を胸に抱きしめたまま、己の信じてきた世界の崩壊に打ち震えて立ち尽くすしかなかった。




