第30話:偏屈眼鏡の魔導首席、異常数値の震源地へ怒鳴り込む
エルダリア王国の王都中央に聳え立つ、白亜の巨塔――王立魔導院の中央観測タワー。
数百年にわたり王国の魔術体系を統括し、大気中に満ちる微小な魔力粒子『アエテル』の流れを監視し続けてきたその最高学府の観測室は、未曾有の恐慌状態に包まれていた。
「……信じられん、こんな数値が観測されるはずがない!」
「計器の故障ではないのか!? 第二魔導レンズの共鳴結晶を交換しろ!」
「すでに三度交換しました! ですが、数値はびくともしません! 北方辺境、常闇の森の特定座標から――観測史上あり得ない、完全平滑化された魔力波長が継続して放出されています!!」
何十人もの魔導研究員たちが、床に散らばる羊皮紙を慌ただしく踏み散らしながら、円形に並べられた巨大な真鍮製の観測機器の前で悲鳴を上げていた。
計器の針は、通常なら大気の乱れや魔獣の瘴気によって激しく震え、危険域を示す赤色に振れるはずだった。特に、王国の禁足地である『常闇の森』といえば、古代の穢れと凶悪な魔獣が跋扈し、魔力測定針が激しく乱高下してガラス管を叩き割るのが常態である。
それなのに。
指し示された特定座標の数値は――狂気も、瘴気も、魔力の揺らぎすらも完全にゼロ。
それどころか、小屋を中心とした半径数百メートルのエリアにおいて、生体の神経を鎮め、魂の疲労を急速に回復させる『精神安定係数』が、測定器の目盛りを右側へと限界突破し、針が文字盤の枠にカチカチと狂ったようにぶつかり続けていたのだ。
「ええい、うるさい! 喚くな無能どもめ! 貴様らの金切り声が、私の大脳皮質を直接やすりで削り取っているのが分からんのか!!」
怒号とともに、観測室の最奥の特等席から、一人の青年が跳ね起きた。
ギルバート・アーセル。二十四歳。
歴代最年少で王立魔導院の首席研究員へと登りつめた、空間魔術およびエーテル動態論の若き天才である。
神経質そうに尖った顎、薄い唇。銀縁の細い眼鏡の奥には、血走った鋭利な瞳がギラギラと光っていた。そして彼の右手は、自らの左のこめかみを、骨が軋むほど力任せに圧迫していた。
「ひっ、ギ、ギルバート首席……!」
「黙れ! 息を吸うな、大気中の魔力を無駄に撹乱させるな!」
ギルバートは荒い息を吐きながら、白衣のポケットから陶器の小瓶を乱暴に引っ張り出した。
中に入っているのは、領都の錬金術ギルドに特注で作らせている、超高純度の偏頭痛薬だ。蓋を歯で強引に引き抜き、苦味の塊である黒い丸薬を三粒、舌の上に放り込んで水なしで無理やり飲み下す。喉仏が苦悶に上下し、青年は額に青筋を浮かべて脂汗を拭った。
ギルバートは、生まれつき極度の『魔力過敏症』を患っていた。
常人には感知できない微細な魔力粒子の流れを視覚や触覚として捉えられる超絶的な才能と引き換えに、他人が無自覚に放つ粗雑な魔力や、感情の乱れ、街の喧騒に触れるだけで、まるで頭蓋骨の内側を無数の細い針で休むことなく滅多刺しにされているかのような激痛に襲われるのだ。
彼にとって、この世界そのものが、常に鼓膜と神経を痛めつける「暴力的な拷問部屋」に他ならなかった。常に苛立ち、常に偏頭痛の薬を噛み砕き、他者を寄せ付けない毒舌と傲慢な態度で自らのテリトリーを守ることで、辛うじて正気を保ち続けている。
「……見せてみろ」
ギルバートは研究員を乱暴に突き飛ばし、中央の観測台へと詰め寄った。
細い指先が、自動記録ペンが羊皮紙に描き殴った波形を激しくなぞる。
「……馬鹿な。あり得ん。こんな波形、自然界に存在するはずがない」
ギルバートの背筋に、冷たい戦慄が走った。
波形は、水面のように凪いでいた。
通常、大気中の魔力は潮の満ち引きのように常に乱気流を巻き起こしている。ましてや常闇の森の深部といえば、腐敗した瘴気嵐が渦巻く魔境のはずだ。
それなのに、この記録紙に刻まれた線は、まるで定規で引いた水平線のように、寸分の揺らぎもなく真っ直ぐに伸びていた。
不純物が分子レベルで濾過され、大気の波長が極限まで整えられている。その調律の精度は、王立魔導院の地下深くに封印されている国家最高峰の古代防護結界すら、赤子の泥遊びに見えるほど神懸かっていた。
「人為的に……これほど広域の絶対沈静フィールドを展開できるはずがない。神代の超弩級アーティファクトか……あるいは、王都を狙う反逆者が仕掛けた、半径数百メートルの生物をすべて無抵抗にする邪悪な精神支配の実験場か……!?」
ギルバートの偏執的な頭脳が、最悪の仮説を瞬時に導き出した。
偏頭痛のズキズキとした拍動が、こめかみを激しく叩く。苛立ちと猜疑心、そして研究者としての狂気じみた執念が、ギルバートの血液を沸騰させた。
「首席、いかがなさいますか!? 院長に報告し、近衛騎士団の派遣を要請すべきでは――」
「馬鹿を言え! あの脳筋の騎士どもや、欲の皮が突っ張った貴族院の老いぼれどもに知らせてみろ、現場を荒らされて貴重な観測データが霧散するだけだ!」
ギルバートは机の上の分厚い魔導書を叩き伏せ、壁際に立てかけてあった自前の機材ケースを引っ掴んだ。
中に入っているのは、彼が私財と心血を注ぎ込んで自作した、王国に一台しか存在しない最高精度の携帯型魔導測定器――『アイテール・クロノグラフ』。真鍮と水晶、ミスリルの歯車で組み上げられた、魔力の波長と空間密度をリアルタイムで数値化する至高の測定器だ。
「私が自ら行く。空間の法則を歪め、我が頭痛を刺激するような不快な特異点を作り出している違法研究者を、この手で暴き出してやる!!」
白衣を激しく翻し、ギルバートは観測室を飛び出した。
偏屈眼鏡の天才魔導士による、怒りと頭痛に満ちた単身での殴り込み行軍が、ここに幕を開けたのだった。
◇
王都から早馬と魔導馬車を乗り継ぎ、北方の荒野を越えて丸一日。
ギルバートの身体は、すでに限界を迎えつつあった。
街道の振動は頭蓋骨に直接響き、馬車の車輪がきしむ音は神経を削り、途中で立ち寄った宿場町の人混みから放たれる粗悪な感情の魔力波は、彼の三叉神経を千枚通しで抉るような激痛となって襲いかかった。
薬瓶はすでに空になりかけていた。視界は偏頭痛の前兆現象(閃輝暗点)によってチカチカと銀色の光片が明滅し、胃からは酸っぱい胃液がせり上がってくる。
「……クソッ……忌々しい……! どいつもこいつも、無駄に粗雑な魔力を撒き散らしおって……!」
ギルバートは常闇の森の境界で馬車を捨て、徒歩で森の中へと足を踏み入れた。
手にした携帯測定器の水晶レンズを覗き込む。真鍮の指針は、森の深部――北緯三十七度、東経四十二度の地点を指して、狂ったようにカタカタと小刻みに震えていた。
木々が生い茂り、昼なお暗い獣道。
通常ならば、常闇の森の瘴気によって魔力過敏症のギルバートは一歩進むごとに悶絶するはずだった。
しかし――。
「……ん? 何だ……?」
奥へ進むにつれて、ギルバートは奇妙な違和感に眉をひそめた。
森の空気が、重たくならなかったのだ。
むしろ、奥へ進めば進むほど、大気中の湿気やカビ臭さが薄れていく。
そして――測定器が示す特定座標まで、残り百メートルを切ったその瞬間だった。
スッ……。
まるで、薄い石鹸の泡の膜を一枚通り抜けたかのような、微かな、けれど決定的な感触が全身を撫でた。
「…………っ!?」
ギルバートは弾かれたように足を止め、呆然と周囲を見渡した。
音が、消えた。
いや、音が消えたのではない。森のざわめきや木々の擦れ合う音が、耳障りな摩擦音ではなく、どこまでも滑らかで丸みのある、耳に心地よいホワイトノイズへと整えられていたのだ。
肌を刺すような冷気は消え去り、そこには秋の柔らかな陽だまりのような、完璧な適温が満ちていた。
大気中に漂う魔力粒子『アエテル』が、まるで水晒しを終えた上質な絹糸のように、一切のトゲや乱れを削ぎ落とされ、穏やかに呼吸するように循環している。
カチリ。
ギルバートの手の中で、激しく震えていた携帯測定器の指針が、完璧な水平を指して静止した。
エラーではない。
不純物ゼロ。空間歪曲率ゼロ。精神安定係数――測定不能。
「ば、馬鹿な……! 私のアイテール・クロノグラフが、完全静止だと……!? 大気の乱れが……ゼロだと……!?」
ギルバートの知性が、激しいパニックを起こした。
物理法則の完全な崩壊。エントロピー増大の法則を力任せに逆行させるような、奇跡の空間。
これほどの絶対沈静フィールドを展開できるとすれば、古代の浮遊城を支えていたという巨大な重力炉心か、あるいは大陸全土の魔力を吸い上げる超弩級の儀式魔法の祭壇くらいしか考えられない。
ギルバートはごくりと唾を飲み込み、手にした測定器を両手で構え直した。
どんな怪異が待ち受けているのか。漆黒の結界を張った悪の魔導師の要塞か、骨と血で築かれた邪教の神殿か。
生い茂る生垣をかき分け、震源地へと視界を開いたギルバートの目に飛び込んできたのは――。
「…………は?」
ギルバートの顎が、外れんばかりにポカンと落ちた。
そこに広がっていたのは、地獄の要塞などでは断じてなかった。
木漏れ日が燦々と降り注ぐ前庭。
手入れの行き届いたふかふかの家庭菜園の黒土には、青々とした白カブの葉がみずみずしく茂っている。
小屋の南側には、淡い桜色に輝く白木の縁側が伸び、軒先には小さなガラスの風鈴が吊るされ、足元には香月木のプランターに植えられたスペアミントやローズマリーが、清々しい青葉を揺らしている。
屋根の煙突からは細い薪の煙がゆらゆらと立ち上り、どこからどう見ても――ただの、驚くほど小綺麗で、長閑な「平民の山小屋」だった。
「な……な、何だここは……!? 民家……!? こんな森の奥深くに、ただの一軒家だと……!?」
ギルバートのプライドと常識が、激しい拒絶反応を起こした。
認められるはずがなかった。
王立魔導院の最高峰の知性を総動員しても解明できなかった絶対沈静波長の震源地が、こんな、小鳥がチュンチュンとさえずる牧歌的な田舎小屋であるはずがない!
これは偽装だ。強力な認識阻害魔法に違いない!
内側には、空間を捻じ曲げて世界を脅かそうとする邪悪な違法研究者が潜み、恐るべき人体実験や精神支配の儀式を執り行っているのだ!!
「……許さん。空間の法則を弄び、私の脳神経をここまで痛めつけてくれた落とし前、きっちりつけさせてやる……!!」
連日の移動による極度の疲労と、偏頭痛の痛覚によって、ギルバートの思考回路は完全に沸騰していた。
血走った目を眼鏡の奥でギラギラと光らせ、彼は大股で前庭の敷石を踏み荒らすように突き進んだ。
ポーチの階段をドカドカと踏み鳴らし、木製の頑丈な扉の前に仁王立ちになる。
ギルバートは肺腑の底から怒りの息を吸い込み、右手を勢いよく振り上げると、扉のノブを力任せに引き回し、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで扉をバァンッ!! と蹴破るように開け放った。
「――出てこい!! 空間法則を歪め、大気のアエテルを不法占拠している違法研究者は貴様かぁぁぁっっっっ!!!!」
裂帛の怒号が、山小屋の静寂を木っ端微塵に切り裂いた。
肩で息をし、細い指先を室内の闇へと突きつけ、悪の首謀者を断罪せんと身構えたギルバート。
だが。
その青年の怒れる気迫は――次のコンマ一秒の瞬間に、文字通り「物理的に」圧殺されることとなった。
「――ぶふぉっ!?」
室内に足を踏み入れた瞬間、開け放たれた扉から吹き出してきた「空気の塊」が、ギルバートの顔面を正面から直撃した。
突風ではない。
それは、重厚で、圧倒的で、清らかな「生活の香り」の津波だった。
まずギルバートの鼻腔を突き抜けたのは――朝一番に井戸水で洗い上げられ、秋の強烈な陽光と風をこれでもかと吸い込んで乾かされたばかりの、純白のリネンシーツの「香ばしい太陽の匂い」だった。
湿気もカビ臭さも埃の一片すらも存在しない、極限まで清潔な布の温もり。
続いて押し寄せてきたのは、縁側のプランターから摘んできたばかりのフレッシュなスペアミントの、ツンと抜ける爽快な清涼感。
そして、昨夜の残り湯から微かに漂う、香月木の深い檜の香りと、木春の果皮が放つ甘酸っぱく瑞々しいシトラスのアロマ。
それらの香気成分は、単なる芳香ではなかった。
千尋の固有スキル【住空間の調律】によって、分子の配列に至るまで完璧に平滑化され、大気中のアエテルと一体化して循環する、原初魔法に匹敵する「超高純度アロマフィールド」そのものだった。
「ケホッ……!? な、何だ……この、匂いは……!?」
ギルバートの目が白黒とした。
息を吸い込んだ瞬間、気管から肺へ、そして血管を通って脳へと、冷たく清らかな清水が注ぎ込まれたかのような錯覚。
王都で彼を苛み続けていたあの濁った悪臭や、他人の放つ刺々しい魔力ノイズが、この空間の空気に触れた瞬間、まるで洗剤の泡に触れた油汚れのように、跡形もなくシュワシュワと中和分解されていく。
そして――煙が晴れた視界の先。
磨き上げられたパイン無垢材の床の中央に、一人の若い娘が、仁王立ちになっていた。
洗いざらしの木綿のエプロンを身につけ、袖を肘まで捲り上げ、その手には――。
天日干しを終えたばかりの、ふかふかの枕が、まるで凶器のように力強く抱えられていた。
「…………ちょっと、あんた」
低く、ドスの利いた、地獄の底から響くような女性の声。
千尋の視線は、ギルバートの顔でも、彼が抱える真鍮の測定器でもなく――。
彼が泥だらけの革靴で勢いよく踏み抜いた、玄関ポーチの敷居の内側、パイン材の床板の上にべったりとつけられた「足跡」だけに、鋭く突き刺さっていた。
「……人の家の扉を蹴破るなり……大声を張り上げて……その泥靴で、何を踏み荒らしてくれてるのかしら……?」
静かに、けれど絶対的な殺気。
王立魔導院の若き首席研究員と、世界最強の安眠を愛する元社畜OL。
理屈と生活の知恵が正面衝突する、前代未聞の嵐が、いま吹き荒れようとしていた。




