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第23話:もふもふの反乱。銀髪美少年の膝枕争奪戦

雲ひとつない秋晴れの午後、常闇の森の木々は穏やかな黄金色の光に包まれていた。

南向きに増築された白木の縁側には、ベルントが丹精込めてカンナをかけた香月木(こうげつき)の清々しい芳香が漂い、秋の澄んだ風が深い軒の下をさらりと通り抜けていく。軒先に吊るされたガラス鉱石の風鈴が、気まぐれなそよ風に揺られて「チリン……」と涼やかな余韻を零していた。


その縁側の中央で、千尋は膝を折り、目の前に積み上げられた洗濯物の山と向き合っていた。


「……んーっ、いい匂い! やっぱり、お日様の力は偉大ね!」


千尋は洗い立てのリネンシーツを両手で持ち上げ、思わず顔を埋めて深呼吸した。

鼻腔を満たすのは、大樽の中で手作りのハーブ石鹸を使って洗い上げ、井戸の清冽な地下水で何度もすすぎ、秋の乾いた陽光と風をたっぷりと吸い込ませた純白の布の匂いだ。湿気など微塵もなく、指先で触れるだけでパリッと心地よい張りがありながら、内側には太陽の温もりが微熱のように閉じ込められている。

前世の社畜時代、洗濯といえば夜中の十二時に部屋干しをして、生乾きの嫌な臭いに怯えながら除湿機を回すのが常だった。太陽の光を浴びたシーツに顔をうずめるという、ただそれだけの当たり前の幸福に、千尋は頬をとろけさせていた。


「よし、シワを伸ばして……角と角をぴったり合わせて……」


パンッ、パンッと小気味よい音を立てて布端を引っ張り、四つ折りに畳んでいく。

足元には、ルゥの抜け毛から作った純白のフェルトシューズ。足先はぽかぽかと温かく、縁側の白木はサラサラとしていて、素肌を撫でる風が心地よい。

静かで、平和で、完璧な休日。

千尋が鼻歌交じりに次の麻シャツを手に取った、その時だった。


サクッ……サクッ……。


庭の小道を歩いてくる、規則正しい足音が聞こえた。

顔を上げると、裏庭での作業を終えたアルヴィスが、縁側の方へと歩み寄ってくるところだった。

黒いリネンシャツの胸元は緩められ、まくり上げられた前腕には、薪割りと家庭菜園の畝作りで使った逞しい筋肉がほどよく引き締まっている。首筋には薄く汗が光り、白銀の長髪が秋風にさらりと揺れていた。

泥落とし用のスノコの上でブーツを脱ぎ、靴下を脱いで素足になったアルヴィスは、静かに縁側の端へと腰を下ろした。


「……千尋。作業はすべて終わったぞ」

「お疲れ様です、アルヴィスさん。いつもありがとう。井戸の冷たい麦茶、台所に用意してありますよ?」

「いや……今は、少しだけこのままでいい」


アルヴィスは低く掠れた声で答えると、縁側の板張りに長い脚を投げ出し、ふう、と深く息を吐き出した。

その表情には、普段の凛々しい「氷の騎士」の鋭さはなく、どこか張り詰めた糸が切れたような、微かな疲労の色が滲んでいた。公爵領の政務から抜け出し、千尋の小屋で肉体を動かして過ごす時間は彼にとって無上の休息なのだろうが、長年蓄積された魂の疲労は、そう簡単にすべて消え去るわけではない。


アルヴィスは膝の上に置いた自分の大きな掌をじっと見つめた後、迷うように視線を泳がせた。

そして――。


スッ……と、長身の身体が、千尋の座る方へと傾いた。


「……え?」


千尋が驚いて手を止めた瞬間、アルヴィスは無言のまま、自分の頭を千尋の細い肩口へと、そっと預けてきたのだ。


トン……。


肩に触れる、ずっしりとした頭部の重み。

鼻先をかすめたのは、アルヴィスの銀髪から漂う、千尋が作ったラベンダー石鹸の香りと、爽やかな日差しの匂い。

耳元で、アルヴィスの静かで深い呼吸が小さく響く。

彼なりの、言葉にできない不器用極まりない「甘え」だった。過酷な戦場と権謀術数の宮廷で心をすり減らし、誰にも弱みを見せられなかった男が、千尋の放つ【住空間の調律】の温もりに引き寄せられ、まるで安全な巣に戻った大型犬のように、無防備に身体を寄せてきたのだ。


(……っ……!? ちょ、ちょっと待って……!?)


千尋の心臓が、跳ね上がった。

ドクン、ドクンと激しい鼓動が肋骨の裏側を叩き、全身の血が一気に首筋から耳の先へと駆け上がっていく。

シャツ越しに伝わってくる、アルヴィスの生々しい体温と、男らしい骨格の硬さ。

顔が近い。近すぎる。

普段は人を寄せ付けない氷の美貌が、今は無防備に目を閉じ、千尋の肩口に顔を埋めるようにして吐息を漏らしているのだ。


(な、ななな何なのこの状況!? 私、ただ洗濯物を畳んでただけなんですけど!? 二十八歳元社畜、こういう少女漫画みたいなシチュエーションには完全に耐性がないんですけどぉぉぉっ!!)


千尋がパニックに陥り、畳みかけのパジャマを握りしめたまま完全に石化していた、まさにその時だった。


縁側の隅、日だまりの中でまどろんでいたはずの「白銀の毛玉」が、電光石火の勢いで跳ね起きた。


「……グルルルルッ!!」


ルゥだった。

白銀の神獣は、ピンと尖った三角耳を限界まで逆立て、金色の瞳を爛々と見開いて、千尋の肩に寄りかかるアルヴィスをギロリと睨みつけていた。

その瞳に燃え盛っていたのは、縄張りを脅かされた猛獣の怒り――いや、それ以上に強烈な、「ぼくの千尋を取られた」という猛烈な独占欲と危機感だった。


――な、何をしれっと我が主(あるじ)の肩に寄りかかっているのだ、あの不届きな居候は……!!

――千尋の隣は、千尋の温もりは、千尋の膝の上は……我が指定席だぞ!!


ルゥの小さな胸の中で、何かが音を立てて沸騰した。

アルヴィスが千尋の肩に頬を擦り寄せるように微動だにした瞬間、ルゥの我慢の限界は完全に決壊した。


「わふぅぅぅぅぅぅっっっっ!!」


激しい咆哮が、秋の静寂を切り裂いた。

次の瞬間、ルゥの小さな身体から、視界を焼き尽くすほどのまばゆい白銀の光が爆発した。


「きゃっ!? な、何……!?」


千尋が思わず両手で顔を覆う。

暴風のような清浄な魔力の渦が縁側を吹き荒れ、畳んであったリネンシーツの端がバサバサと激しく舞い上がった。

アルヴィスも瞬時に覚醒し、青い瞳を鋭く光らせて身を起こす。


光の粒子が、人の輪郭を模索するように宙で渦を巻き、やがてスッと収束していった。

舞い散る光の粉が晴れた、縁側の板の上。


そこに立っていたのは――子犬ではなかった。


「…………え?」


千尋の口から、間抜けな声が零れ落ちた。


そこにいたのは、一人の少年だった。

年齢は、十二、三歳ほどだろうか。

月光をそのまま紡ぎ出したかのような、さらさらと流れる透き通るような白銀のショートヘア。陶器のように白い肌に、勝ち気そうに吊り上がった大きな碧眼。頭の上には、感情に合わせてピコピコと動く白銀の獣耳がちょこんと生え、お尻の後ろからは、ふさふさとした極上の銀の尻尾が激しく揺れている。

纏っているのは、自らの魔力で編み上げたらしい、ゆるりとした純白のチュニック。

息を呑むほどに華奢で、息を呑むほどに生意気そうで、そして息を呑むほどに愛らしい――奇跡のような美少年だった。


「千尋ぉぉぉぉっ!!」


少年は千尋の姿を認めるなり、涙目になって叫んだ。

鈴を転がすような、けれど少しハスキーで甘えた響きを持つ、高い少年の声。


「そいつばっかり構うな! ぼくのブラッシングが先だって約束しただろ!!」


少年――人型化したルゥは、千尋が硬直している隙を見逃さず、タタタッと縁側の床を素足で駆け寄ると、ダイブするように千尋の正面へと飛び込んできた。

そして、千尋が広げていた両膝の間へと器用に滑り込み、千尋の太ももの上に、自分の頭をゴロンと強引に乗っけたのだ。


サクッ……。

千尋の膝の上に、少年の柔らかな後頭部が収まる。

ルゥは千尋の腰に両腕を回してぎゅっと抱きつくと、太ももの上で上目遣いになり、濡れた碧眼で千尋をじっと見つめてきた。


「千尋、なでて。あいつの頭より、ぼくの髪の方がずっと柔らかいもん。ほら、耳の後ろも梳いてよ……」


くすくすと甘えるように頭を擦り付け、銀の尻尾をパタパタと千尋の足に打ち付ける美少年。

その破壊力たるや、まさに天変地異のレベルだった。


「る、る……ルゥなの……!?」

千尋は両手を宙に浮かせたまま、引きつった声で叫んだ。

「ていうか、喋れるの!? えっ、人型になれるの!? どういうこと!? えええええっ!?」


頭が完全にショートする千尋。

前世で幾多のトラブルを処理してきた元社畜OLの経験値をもってしても、「飼い犬が突然銀髪の美少年に変身して膝枕を要求してきた」という事態に対応できるマニュアルなど存在しなかった。


しかし――混乱に陥る千尋とは対照的に、その場にいたもう一人の男の反応は、極めて迅速かつ冷徹だった。


ギシッ……。


縁側の床板がきしむ音がした。

アルヴィスが、ゆっくりと立ち上がっていた。

その青い瞳からは、先ほどまでの穏やかな温もりは完全に消失していた。代わりに宿っていたのは、吹雪吹き荒れる北方戦線の最前線で、敵の軍団を一瞬で凍りつかせてきた時と同じ――絶対零度の殺気だった。


スゥッ……。

アルヴィスの右手首が、腰の佩剣――ではなく、先ほど縁側の柱に立てかけておいた、自前の長剣の柄へと音もなく伸びる。


「…………フェンリル」


低く、地這うような声。

室内の温度が、物理的に数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの冷気が、アルヴィスの全身から立ち上る。


「……その姿で、彼女の膝に乗る行為が何を意味するか、理解しているのか。……不敬罪に値するぞ。直ちにそこをどけ」


帝国最強の騎士の凄まじい威圧感。

常人ならばその場に失禁して平伏するようなプレッシャーを前にして、しかし、膝の上の美少年は臆するどころか、鼻でフンッとあざ笑ってみせた。


「ふん! 何が不敬罪だ、ただの居候のくせに威張るなよ!」


ルゥは千尋の太ももにさらに深く頭をグリグリと押し付け、アルヴィスに向かってペロッとピンク色の舌を出して挑発した。


「ぼくの方が先にここにいたんだからね! 千尋に泥を落としてもらったのも、ホットミルクの膜をもらったのも、湯たんぽで一緒に寝たのも、全部ぼくが先だ! 後から転がり込んできた図々しい人間の騎士なんかに、千尋の膝を譲ってたまるか!」

「……貴様、神獣の誇りはどこへ捨てた。ただの駄犬に成り下がるつもりか」

「うるさい! 千尋の膝の上こそが、ぼくの至高の玉座なんだい! 文句があるなら力づくでどかしてみろよ、人間!」


バチバチバチッ!!


二人の視線が空中で交錯した瞬間、目に見えるような火花が散った。

二十六歳の美形公爵と、見た目十代前半の神獣美少年。

片や、氷の魔力を滾らせて剣の柄を握り締める帝国最強の戦士。

片や、神聖な白銀の魔力粒子をパチパチと弾けさせ、耳をピンと立てて威嚇する古代の支配者。


二人のあいだで渦巻くプレッシャーは、もしここが戦場であれば、城壁のひとつやふたつは跡形もなく消し飛んでいたであろう規模に達していた。

だが、二人が争っている理由は――。


――千尋の膝枕を、どちらが独占するか。


ただ、それだけだった。

あまりにも大人気なく、あまりにも低レベルで、あまりにも必死な男たちの縄張り争い。


「……どけ。彼女が困っているだろう」

「嫌だね! 困らせてるのは、さっき勝手に肩に寄りかかってきたお前の方だろ!」

「私は……疲労で身体が傾いただけだ」

「嘘つけ! 絶対わざとだ! 千尋の匂いを嗅ぎたかっただけだろ、スケベ騎士!」

「なっ……ぶ、無礼な……! 滅多なことを口走るな!!」


アルヴィスの尖った耳の先端が、怒りと羞恥でカッと赤く染まる。

二人の睨み合いはさらにヒートアップし、アルヴィスが一歩踏み出し、ルゥが千尋の腰にしがみつきながら牙をチラリと覗かせた、まさにその時――。


「………………」


静寂が、落ちた。

異様なまでの「静けさ」が、縁側の空間を支配した。


ピタリと、二人の動きが止まる。

アルヴィスも、ルゥも、本能的な危機感を察知して、恐る恐る視線を中央へと戻した。


そこにいたのは。

膝の上にルゥを乗せ、目の前にアルヴィスを立たせたまま、深く、深ーくうつむいている千尋だった。

肩が、小刻みに震えている。

その手には、先ほどまで丁寧に畳んでいたはずの、天日干しの麻のパジャマ。

二人の魔力の余波とじゃれ合いによって、せっかくピシッとシワを伸ばして重ねてあったシーツやシャツの山が、乱れ、崩れ、縁側の端へと散らばりかけていた。


「……千尋?」

アルヴィスが、恐る恐る声をかける。

「ち、千尋……?」

ルゥが、耳をペタリと伏せて見上げる。


千尋は、ゆっくりと顔を上げた。

その口元には、完璧な、けれど瞳の奥が一切笑っていない、前世の修羅場を幾度となく潜り抜けてきた「営業事務の限界スマイル」が貼り付いていた。


「……ねえ、二人とも」


静かな、鈴を転がすような声。

だが、その声の底には、地獄の底から這い上がってきたようなドス黒い怨念が、マグマのように煮えたぎっていた。


「私がね。朝から井戸水を何杯も汲んで、腕がパンパンになりながら手洗いして、お日様に当てて、やっとの思いでシワを伸ばして畳んでいたこの洗濯物が……どうして今、風に吹かれて乱れそうになっているのかしら?」


「「…………っ!!」」


二人の背筋を、本物の氷水が駆け抜けた。

アルヴィスの放つ氷魔法でも、ルゥの放つ神獣の威圧でもない。

日々の生活を何よりも愛し、家事の尊厳を汚された元社畜OLの放つ、生物のヒエラルキーの頂点からの威圧感。


「神獣だか公爵だか知らないけれど……人の家で! 人の畳んだ洗濯物の前で! くだらない小競り合いをしてるんじゃないわよぉぉぉぉっっっっ!!!!」


千尋の怒声が、常闇の森の梢を揺らした。


「どっちもそこをどきなさい!! 洗濯物が畳めないでしょぉぉぉぉっ!!」


バサァッ! バサァッ!!


電光石火の早業だった。

千尋は手にした畳みかけのパジャマを二枚、猛烈なスナップを利かせて振り下ろした。

一枚は、立ち尽くしていたアルヴィスの顔面へ。

もう一枚は、膝の上で甘えていた美少年ルゥの顔面へ。


「ぐふっ!?」

「ふぎゃっ!?」


二人の視界が、太陽の匂いとハーブの香りが染み付いた、洗いざらしの麻布によって完全に塞がれた。

千尋はすかさずルゥの脇の下に手を入れ、膝の上から持ち上げると、縁側の板の上へとポイッと下ろした。


「はい、お説教! 二人とも正座!」


パジャマを頭から被せられたまま、帝国最強の騎士と伝説の神獣は、一切の反論を許されないまま、白木の縁側の上に並んでペタンと正座させられた。


「アルヴィスさん! 大人のくせに子供相手に本気で殺気を出さないの! 剣の柄に手を伸ばす暇があったら、そこのシーツの端を持って引っ張りなさい!」

「……す、すまない……」

頭に千尋の麻パジャマを乗っけたまま、居候の大型犬のように肩を縮めて項垂れる公爵。


「それからルゥ! 人型になれるなら最初から言いなさい! 変身したからって手加減しないわよ! ブラッシングしてほしいなら、自分の抜け毛が散らばらないように掃除を手伝ってからにしなさい!」

「……うぅ……千尋のケチ……」

パジャマの裾から銀の獣耳をしょんぼりと垂らし、正座した足の指をモジモジと動かす美少年。


縁側の上に並ぶ、頭に洗濯物を被った美形騎士と美少年。

あまりにもシュールで、あまりにも情けないその光景を見下ろしながら、千尋は深いため息をつき、乱れかけた洗濯物の山を抱え直した。


「……もう。男所帯って、どうしてこう手がかかるのかしら……」


呆れ混じりにぼやきながらも、千尋の口元には、隠しきれない小さな笑みが浮かんでいた。

騒がしくて、手がかかって、ちっとも静かじゃない。

けれど――前の世界で、深夜のオフィスで一人きり、誰とも言葉を交わさずにキーボードを叩き続けていたあの凍えるような日々に比べたら。

この賑やかで、温かで、呆れるほど愛おしい日常は、千尋にとって何物にも代えがたい宝物だった。


「チリン……」


秋風に揺られた風鈴が、縁側に落ちた三人の影を祝福するように、どこまでも優しく鳴り響いていた。

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