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第2話:雑巾掛け一枚で、腐れ床が極上パイン無垢材に化ける

木造の引き戸に手をかけると、手のひらにざらりとした風化の感触が伝わってきた。

蝶番(ちょうつがい)は完全に赤錆びており、千尋が両手で体重をかけて横へとスライドさせようとすると、森の静けさを切り裂くように「ギィィィ……ギギギッ」と鈍い悲鳴を上げた。

隙間から漏れ出てきたのは、何十年ものあいだ密閉され、光を拒み続けてきた場所特有の、鼻の奥をツンと刺すカビの悪臭と、埃の重苦しい匂いだった。


「……うっ。これはなかなか、パンチが効いてるわね」


千尋は思わず顔をしかめ、麻の袖で鼻と口元を押さえた。

扉を力任せに押し切ると、昼なお薄暗い山小屋の全貌が露わになる。

広さは十畳ほど。かつては北方の監視兵が寝泊まりしていたのだろう、部屋の奥には煤(すす)だらけの小さな石造りのかまどと、天板が腐りかけた作業机、それに脚が一本折れた木製の丸椅子が転がっていた。

足元を見下ろせば、隙間風によって吹き溜まった湿った落ち葉と黒ずんだ泥が、床板の隙間という隙間を埋め尽くしている。見上げれば、天井の梁(はり)のあちこちに、埃を巻き込んで灰色のカーテンのようになった巨大な蜘蛛の巣が幾重にも垂れ下がっていた。


神殿の兵士たちなら、足を踏み入れた瞬間に鳥肌を立てて逃げ帰るような惨状だ。

実際、大気中に微小な魔力粒子『アエテル』が濃密に澱むこの森において、長年放置された廃屋には、負の思念や低級な悪霊、魔力酔いを引き起こす瘴気がびっしりと染み付いていた。部屋の四隅には、目には見えない澱んだ紫色の靄が、ドロリとしたタールのようにへばりついている。


だが、千尋の目に映っていたのは、霊的な恐怖などでは毛頭なかった。


「……うん、悪くない。雨漏りの形跡は天井の隅の一箇所だけ。梁自体は太くて頑丈だし、床の傾きも水平器なしでわかる程度には許容範囲。何より――」


千尋はポンと自分の両手を叩いた。乾いた音が薄暗い室内に小さく響く。


「前の職場の、年末の大掃除に比べたら屁でもないわ!」


過労死する直前の社畜時代、千尋が配属されていた営業所は築四十年の雑居ビルだった。ホチキスの針が散乱し、何年放置されたか分からない書類の山が黄ばみ、エアコンのフィルターからは常に酸っぱいカビの風が吹き出していた。あの生き地獄に比べれば、ただ自然の埃が積もっているだけのこの空間など、磨けば光る原石以外の何物でもない。


「よし。空間づくりの基本中の基本……まずは換気から!」


千尋はスカートの裾をたくし上げて腰紐に挟み込み、足元に気をつけながら部屋の奥へと踏み込んだ。

小屋の南北に向かい合うように設置された二つの木枠窓。長年の湿気で木が膨張し、鍵の金具も錆びついてビクともしなくなっていたが、千尋は諦めない。足を踏ん張り、窓枠の合わせ目に指を引っかけ、グッと背筋に力を込めた。


「ふんっ……開いて……!」


ガタピシッ、と激しい音を立てて、木枠が枠組みから外れるように外側へと開かれた。

途端に、森の湿った、けれど青葉の匂いを含んだ冷たい外気が、室内へとドッと流れ込んでくる。


その瞬間だった。

千尋の胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入るような感覚がした。

神殿で「戦闘力ゼロの生活雑用スキル」と嘲笑された、固有能力【住空間の調律(ホーム・チューニング)】。

その存在を、千尋は理屈ではなく、身体の芯で直感的に理解していた。インテリア雑貨メーカーで六年、顧客が最もくつろげる部屋の動線、風の抜け方、光の入り方を考え抜いてきた千尋の『心地よい空間への執着』が、体内の魔力粒子とカチリと噛み合ったのだ。


「……風よ、通りなさい。淀んだものは全部、外へ」


千尋が無意識に息を吐き出しながら両手を広げると、南の窓から吹き込んできた風が、部屋の中央で目に見えるほどの白い螺旋を描き始めた。

ヒュオオオオ……と、穏やかだが力強い風の渦が巻き起こる。

それはただの突風ではない。千尋の放つ調律の波長が、室内の空気に含まれる微小な埃、カビの胞子、そして何十年も沈殿していた悪意ある瘴気のタールを、根こそぎ絡め取っていく。

部屋の隅でギチギチと嫌な音を立てていた低級の悪霊や怨念の残滓が、千尋の引き起こした清らかな風の渦に巻き込まれ、「ギャッ」「ヒィッ」と声にならない悲鳴を上げながら、北側の窓から青空の彼方へと一気に押し出されていった。


ほんの数十秒のことだった。

渦が収まった時、小屋の中の空気は劇的に変わっていた。

重苦しく肺に張り付くようだった湿気が消え去り、森を吹き抜ける新緑の香りと、春の終わりの清々しい涼気だけが、部屋の端から端まで淀みなく循環している。深呼吸をすると、冷たい空気が喉を滑り落ち、胸の奥がすっきりと洗われるようだった。


「ふう……! やっぱり、風が通るだけで全然違うわね」


千尋は満足げに息をついたが、まだ作業は始まったばかりだ。

空気が綺麗になったことで、かえって床の惨状が際立って見えていた。


「次は、水ね。水がなきゃ話にならない」


千尋は小屋の外へ出ると、敷地の脇に雑草に埋もれていた古井戸へと向かった。

石造りの井戸枠は苔むしていたが、覗き込むと十メートルほど下に、驚くほど澄んだ水面が揺れている。滑車に吊るされた木製の釣瓶(つるべ)を恐る恐る引き上げてみると、底に溜まっていたのは、濁りのない冷たい地下水だった。


バケツ代わりの釣瓶に水を満たし、千尋は小屋へと持ち帰る。

神殿から支給された荷物袋の中から、目の粗い麻布を取り出した。着替え用として入っていた予備の布だが、千尋にとっては服などよりも掃除道具の方が百倍優先度が高い。迷うことなく手斧で適当な大きさに引き裂き、即席の雑巾を作り出した。


ザブン、と冷たい井戸水に麻布を沈める。

両手で雑巾を挟み、キュッと音を立てて固く絞った。

冷水で指先がじんじんと悴(かじか)むが、その冷たさすら、社畜時代に麻痺していた神経を呼び覚ましてくれるようで心地よい。


「さあ、いくわよ。腐れ床、覚悟しなさい!」


千尋は膝をつき、四つん這いになった。

まずは邪魔な落ち葉と泥の塊を手斧の背でササッと掻き出し、玄関の外へ掃き捨てる。

そして、黒ずんで湿気を含み、今にも踏み抜きそうにぶよぶよとしていた床板へ、両手で体重を乗せて雑巾を力強く滑らせた。


キュッ、キュッ、キュッ――。


静かな山小屋に、リズミカルな雑巾掛けの音が響き渡る。

その瞬間、千尋の両手から、淡い琥珀色の温かな光がじわりと滲み出た。

【住空間の調律】が、千尋の「綺麗にしたい」「木を蘇らせたい」という強烈な意志に呼応して、雑巾を伝い、木目の奥深くへと浸透していく。


(……あ、吸い込まれていく……)


千尋自身にも、その不思議な感覚が手応えとして伝わってきた。

長年放置され、湿気とカビに蝕まれていた木材の導管に、千尋の魔力がサラサラと流れ込んでいくのがわかる。

雑巾が通過した跡から、奇跡のような光景が広がっていった。


ジュウウ……と、まるで炭酸水が弾けるような微かな発泡音が立ち上る。

木肌にこびりついていた黒ずみ、カビの黒点、染み込んでいた泥の汚れが、まるで見えない手に持ち上げられるかのように、ポロポロと雑巾の繊維へと吸着されていく。

そして汚れが剥がれ落ちた下から現れたのは――傷んで腐りかけていたはずの古木ではなく、まるで製材所で挽いたばかりのような、みずみずしい飴色の木肌だった。


「うそ……すっごい。これ、無垢のパイン材じゃない!」


千尋は思わず声を上げた。

この小屋の床に使われていたのは、北方特有の針葉樹の無垢板だったのだ。本来なら非常に油分を多く含み、耐久性に優れた高級木材。それが長年の放置で息絶えかけていたところへ、千尋の調律スキルが木材本来の生命力と油脂分を呼び覚まし、瞬時に完全なエイジング加工を施したような状態へと引き戻していた。


雑巾を一拭きするごとに、死んでいた床が息を吹き返す。

黒く淀んでいた板が、一枚、また一枚と、黄金色の柔らかな光沢を放つ極上の床板へと生まれ変わっていく。

それと同時に、部屋いっぱいに立ち上り始めたのは、古いカビの匂いなどではなく――太陽の光を浴びて温まった松林のような、甘く香ばしい天然のウッドアロマだった。


「ふふ……あははっ! 楽しい……! これ、最高に気持ちいい!」


千尋は夢中になって雑巾を滑らせた。

肩が痛いのも、腰が軋むのも忘れていた。

前の世界では、どんなに頑張ってエクセルに数字を打ち込んでも、どんなに完璧に納期を管理しても、誰からも感謝されず、ただ「やって当たり前」と次の仕事が積み上げられるだけだった。自分の努力が、目に見える形として残ることなど何一つなかったのだ。

けれど、今は違う。

自分が雑巾を一回往復させれば、その分だけ床が美しくなる。

自分が汗を流せば流した分だけ、世界が確実に、心地よい場所へと変わっていく。

この圧倒的な手応えと達成感が、擦り切れていた千尋の心を急速に満たしていった。


バケツの水が真っ黒になれば井戸へ走って替え、雑巾を洗い、再び四つん這いになって床を磨く。

三度目の水を汲み替え、最後の板の一枚を磨き上げた時、千尋の額には心地よい汗がびっしりと浮かんでいた。


「……終わったぁぁぁ……っ!」


雑巾をバケツに放り込み、千尋はその場にペタンと座り込んだ。

呼吸を整えながら、ぐるりと室内を見渡す。


そこには、ほんの二時間前まで廃屋だった面影は、どこにも残っていなかった。

天井の蜘蛛の巣は手斧の先に布を巻きつけて綺麗に払い落とされ、壁の煤も拭き取られている。

そして何より、足元に広がる床板の一面。

窓から差し込む午後の光を浴びて、パイン無垢材の床が、しっとりとした飴色に輝いていた。木目は波打つように美しく整い、表面にはワックスを丹念に塗り込んだかのような、滑らかな天然の皮膜が形成されている。


実はこの時、床材の奥深くに長年染み付いていた古代魔獣の微弱な呪いや、大地の邪気といった類のものも、千尋の「徹底的な水拭きと調律」の前に一分子たりとも耐えきれず、完全に消滅・昇天していたのだが――。


「うん! やっぱり、どんなに高級な掃除機を使うより、雑巾掛けでしっかり水拭きするのが一番ね!」


千尋は腕を組み、極めて主婦的かつ現実的な結論を下して、うんうんと一人で深く頷いていた。

古代の神聖魔術も裸足で逃げ出すような超高密度の浄化現象を、「ちょっと気合を入れた雑巾掛け」の一言で片付けてしまうあたり、千尋のメンタルはすでに異世界の常識を遥かに超越していた。


ふと、自分の足元を見る。

履いていたのは、支給された泥だらけの革靴と、汗で蒸れた粗末な靴下だった。

千尋は迷うことなく靴を脱ぎ捨て、靴下をくるくると丸めて脱ぎ去った。


そして、生まれ変わったばかりの飴色の床板へ、おずおずと素足を下ろす。


「……っ!」


足の裏が木肌に触れた瞬間、千尋の喉から小さな吐息が漏れた。

冷たくない。

むしろ、日向の陽だまりに触れているかのような、じんわりとした温もりが足裏のツボを優しく押し返してくる。

ザラつきやトゲなど微塵もない。かといって化学薬品でコーティングしたフローリングのようなペタペタとした不快感も一切ない。

サラサラとしていて、吸い付くように柔らかく、木の温もりが直接皮膚から血管へと染み渡ってくるような、極上の足触り。


千尋は立ち上がり、ゆっくりと部屋の中を歩いてみた。

ペタ、ペタ、と素足が床を叩くたび、足の指の間を心地よい木の感触がすり抜けていく。

土踏まずが喜んでいるのがわかる。何日も立ちっぱなし、座りっぱなしでパンパンに浮腫んでいた足の疲労が、床を踏みしめるごとに、大地へと吸い取られていくようだった。


「……あぁ、これ……最高……。ずっと裸足で歩いていたい……」


千尋はたまらず、部屋の真ん中で仰向けにゴロンと大の字に寝転がった。

背中全体に広がる、無垢材の硬すぎず柔らかすぎない絶妙なクッション性と、包み込むような温熱。

鼻腔を満たすのは、深呼吸するたびに脳の緊張を解きほぐしてくれる、甘く澄んだ松の香り。

天井を見上げれば、手入れされた梁の木目が美しく並び、開け放たれた窓からは初夏の爽やかな風がカーテン代わりに掛けた麻布をふわりと揺らしている。


遠くで、名前も知らない小鳥のさえずりがチュンチュンと響いていた。

誰からの電話も鳴らない。

誰からの催促も来ない。

ただ、綺麗になった自分の部屋と、心地よい木の感触があるだけ。


「……ふふ。家らしく、なってきたじゃない……」


千尋はとろけそうな笑みを浮かべ、飴色の床に頬ずりをした。

まだ家具もない。ベッドもない。食べるものも干し肉しかない。

けれど、この床一枚を磨き上げただけで、千尋の心は前世の六年間で一度も味わえなかったほどの、深い充足感で満たされていた。


「さて……床ができたら、次は寝床ね。今夜は絶対に、腰が痛くならない最高の場所で寝てやるんだから」


千尋はむくりと起き上がり、窓の外に広がる豊かな常闇の森を見つめた。

その瞳には、限界社畜が本気で「快適な暮らし」を追求する時の、ギラギラとした情熱が宿っていた。

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