第1話:午前二時の終電から、森の吹きだまりへ
ジー、ジー、と鼓膜の奥を引っ掻くような、古びた蛍光灯の微小なノイズ。
深夜二時を回ったフロアには、すでに千尋以外の気配はなかった。
カチカチとマウスをクリックする乾いた音と、キーボードを叩く指先の震えだけが、だだっ広いオフィスに虚しく反響している。
(……目が、痛い……コンタクトが貼り付いて、剥がれそう……)
小早川千尋、二十八歳。中堅のインテリア雑貨メーカーで営業事務と商品管理を兼任して六年目になる。
肩書きこそ普通の会社員だが、実態は「便利使いの社畜」そのものだった。退職した先輩の穴埋めはすべて千尋に回され、営業担当が客先で適当に請け負ってきた無理難題の納期調整、果てしないエクセルのデータ入力、連日の深夜残業。
今週に入ってからというもの、まともな睡眠を取った記憶がない。ベッドに入ったのは何日前だったか。ここ三日は会社の仮眠室のへたったソファでコートにくるまり、二時間ほど気絶するように意識を手放しては、スマートフォンの無機質なアラーム音に心臓を抉られて飛び起きる生活を繰り返していた。
「……よし、送信……完了。これで、やっと帰れる……」
最後の発注書データをサーバーにアップロードし、エンターキーを押した瞬間、千尋の喉から掠れた呼気が漏れた。
時計の針は午前二時十五分を指している。奇跡的に、金曜の深夜だけ運行している臨時の最終各駅停車に間に合う時間だった。
千尋は痺れた足をもつれさせながら立ち上がり、重たいビジネスバッグを肩にかけた。鏡に映った自分の顔は、とても二十代後半の女性とは思えない。目の下にはくっきりと紫色の隈がこびりつき、肌はエアコンの風でカサカサに粉を吹き、唇の色は抜けていた。
駅のホームへ滑り込んできた終電は、深夜だというのに異様な熱気と、酒と汗と湿った埃の入り混じった不快な匂いで満ちていた。
押し込まれるように乗り込んだ車両の中、千尋はなんとか掴んだ革の吊り革に全体重を預ける。
ガタゴトと規則正しく揺れる車輪の振動。周囲のサラリーマンたちの重たい溜息。
ふと、吊り革を握っていた右手の指先から、すうっと血の気が引いていくような感覚を覚えた。
(……あれ? 手の感覚が、ない……?)
ドクン、と心臓が嫌な跳ね方をした。
肋骨の裏側を冷たい手で直接握り潰されたような、鋭い圧迫感。
呼吸がうまく吸えない。視界の端から、テレビの砂嵐のような白いノイズが急速に広がっていく。
周囲の話し声が遠のき、やがて水底に沈んだように何も聞こえなくなった。
(あ、ダメだこれ。私……ここで、死ぬんだ……)
恐怖よりも先に千尋の脳裏に浮かんだのは、信じられないほど呆気ない「安堵」だった。
これで明日の朝礼に出なくていい。理不尽な怒号を聞かなくていい。
何よりも――もう二度と、起き上がらなくていいのだ。
千尋の意識は、すっぽりと深い暗闇の中へと滑り落ちていった。
◇
「……おい、目を覚ましたぞ」
「魔力測定の結晶板を用意しろ。急げ!」
耳元で飛び交う、切迫した野太い男たちの声。
冷たい床の感触に背中を刺激され、千尋はゆっくりと重たい瞼を押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた電車の網棚でも、救急車の天井でもなかった。
見上げるほど高い石造りのドーム天井。そこに刻まれた複雑な幾何学模様と、仄かな青白い光を放つ魔石のシャンデリア。そして自分の周囲を取り囲んでいるのは、金糸の刺繍が施された豪奢な白い法衣を纏った男たちだった。
(……え? なにここ。新手のコンセプトカフェ? それとも過労が見せた臨死体験……?)
呆然と上半身を起こす千尋の前に、一人の初老の神官が進み出た。手には透明な水晶の板が握られている。
「召喚に応じて現界せし異界の魂よ。汝の魔力波長を提示せよ」
わけも分からぬまま、胸元に突きつけられた水晶板。千尋の指先が触れた瞬間、水晶は淡い、弱々しい緑色の光を頼りなく点滅させた。
カチリ、と硬質な音が響き、神官たちの表情が一瞬にして凍りついた。
「……測定結果はどうだ、導師殿!」
「……戦闘適性、皆無。攻撃魔法、防御魔法、身体強化、いずれの系統も数値ゼロ」
「なっ……! そんな馬鹿な! ならば特異スキルは何だ!?」
「固有能力……【住空間の調律】。室内換気、湿度調整、繊維の質感補正、微弱香気の生成……ただの、家事雑用スキルです」
堂内に、冷たい静寂が落ちた。
初老の神官は、まるで汚物を目にしたかのように眉をひそめ、水晶板を乱暴に手元へ引き戻した。
「……チッ、ハズレか。何が古の儀式だ。莫大な魔導石を消費して呼び出したのが、戦えもせぬ雑用係の女とはな」
「どう処分しますか? 王城の兵舎で掃除婦として使いますか?」
「いや、王宮に異界の無能力者を置いておくなど、神殿の恥だ。適当な名目を付けて、人の寄り付かぬ僻地へ追い払え。……そうだ、北方の『常闇の森』の境界に、放置された古い監視哨の廃屋があったはずだな。そこを『領地』として下賜してやれ」
「なるほど。あそこの瘴気と魔獣なら、放っておいても一月と持たずに野垂れ死ぬでしょう」
神官たちが投げつけてくる嘲笑と侮蔑の視線。
普通ならば、理不尽な仕打ちに涙を流し、絶望に打ちひしがれる場面だった。
しかし――その時の千尋の胸中を満たしていた感情は、彼らの想像とは完全に真逆のものだった。
(……え? ちょっと待って……?)
千尋は、自分の胸元に手を当て、頭の中で状況を猛スピードで整理した。
まず、ここは日本ではない別の世界であるらしいこと。
自分は元の世界で心不全を起こし、こちらの世界に召喚されたこと。
そして何より――。
(……ということは、明日の午前九時の進捗会議に出なくていいの……!?)
猛烈な歓喜が、千尋の腹の底からジュワリと湧き上がってきた。
終わりのないエクセル入力も、怒鳴り散らす営業部長も、すし詰めの満員電車も、もうどこにも存在しない。
しかも今、あの偉そうな神官は何と言った?
『僻地の廃屋を領地として下賜する』?
(家賃ゼロ……!? 誰も来ない僻地ってことは、ご近所付き合いもクレーム対応もなし……!?)
神官たちには、千尋が恐怖のあまり言葉を失って震えているように見えただろう。
だが実際は、口元から溢れ出そうになる満面の笑みを、必死に噛み殺していただけだった。
「……謹んで、王国の決定に従います」
千尋は、前世の営業先で鍛え上げた完璧なビジネススマイルを浮かべ、深々と頭を下げた。
◇
それから三日後。
ガタゴトと激しく揺れる粗末な荷馬車の荷台で、千尋は揺られていた。
支給されたのは、目の粗い麻のワンピース二着と、錆びかけた手斧、火打ち石、そして数日分の固い干し肉と塩だけ。厄介払いを急ぐ神殿の意図が透けて見えるような、最低限以下の配給だった。
御者台に座る二人の護衛兵は、森が近づくにつれて明らかに青ざめ、落ち着きを失っていた。
「おい、本当にこの先に行くのかよ……あそこは『常闇の森』だぞ」
「かつて強大な魔獣が巣食い、今でも大気の穢れが澱んでいる呪われた土地だ。近づくだけで魔力酔いを起こして気が狂うって噂だぞ」
「おいあんた、降りろ! ここから先は馬車を入れられねえ!」
森の入り口で乱暴に馬車を止められ、荷物袋とともに地面へと降ろされた。
兵士たちは千尋の返事すら待たず、まるで幽霊から逃げ出すかのように、凄まじい勢いで馬の手綱を引いて街道を跳ね返していった。
あたりには、静寂だけが残された。
風が木々の葉を擦り合わせる、サワサワという穏やかな音。
千尋は荷物袋を抱え直し、兵士が指差した草生す小道を奥へと進んだ。
十分ほど歩いた先、木々の切れ間に、それはぽつんと佇んでいた。
「……あそこね」
千尋は足を止め、じっとその光景を見据えた。
『古い監視哨の廃屋』と聞かされていた物件は、想像以上に年季が入っていた。
木造平屋建ての小さな山小屋。外壁には枯れたツタが幾重にも絡みつき、屋根の片隅は重みに耐えかねたのかわずかに傾いている。煙突には鳥の巣のような枯れ草が詰まり、木製の扉は蝶番が歪んで半開きになっていた。
地面には雑草が生い茂り、周囲を取り囲む森の木々が日光を遮って、全体的に薄暗くジメジメとした気配を漂わせている。
普通なら、泣き言の一つもこぼしたくなるようなボロ小屋だ。
兵士たちが「野垂れ死ぬ」と断言したのも頷ける。
だが、千尋は腰に両手を当て、胸いっぱいに森の空気を吸い込んだ。
「……日当たりは、あの南側の枝を少し払えば問題ないわね。風通しも、小屋の前後にある窓を開ければ一直線に抜ける構造。敷地は……だいたい十坪ちょっと。一人暮らしには広すぎるくらいじゃない」
千尋の瞳に、ギラリとした野心が灯った。
インテリア雑貨メーカーで六年間、数多のカタログを眺め、機能的な収納と理想の生活空間を夢見ながらも、現実は終電で帰って寝るだけの四畳半アパートで力尽きていた。
だが、ここには邪魔者が誰もいない。
真夜中に突然かかってくる社用携帯の着信音もない。
壁の薄いアパートで隣人の目覚まし時計にイライラさせられることもない。
完全なるプライベート空間。自分の、自分だけのためのお城だ。
「よし……! まずは内見と、大掃除からね!」
千尋はスカートの裾をたくし上げて帯に挟み、腕まくりをした。
過労で擦り切れかけていた元社畜の心臓が、久しぶりに生き生きとしたリズムで脈打っていた。




