第一話 出会い
黒煙が立ち上る戦場に、鋼と鋼がぶつかり合う音が絶え間なく響いていた。
劉備軍の陣は、目に見えて押されていた。数の上では決して劣っていないはずの兵たちが、次々と後退を強いられている。原因は明らかだった。敵陣中央、黒鉄の鎧を纏った一人の武将――その男の采配が、あまりに鋭すぎた。
「またあの黒鉄野郎か……!」
張飛は舌打ちしながら、目の前に立ちはだかる敵兵を一薙ぎで蹴散らした。愛用の蛇矛が唸りを上げるたびに、周囲の敵兵が悲鳴を上げて崩れ落ちていく。だが張飛の視線は、敵の本陣に立つあの男に釘付けだった。
高台の上、風にはためく黒い旗の下。兜の下から覗く眼光は、この混沌とした戦場の中で異様なほど静かだった。的確に旗を振り、太鼓を打たせ、まるで盤上の石を動かすかのように兵を操っていく。劉備軍が右へ動けば、その裏をかくように左から圧をかけてくる。左へ回れば、今度は退路を断つように兵を差し向けてくる。
――こいつ、できるな。
張飛の口の端が自然と持ち上がった。武で押し切れない相手というのは、正直久しぶりだった。
「益徳! 深追いするな、罠かもしれん!」
関羽の声が飛んでくる。だが張飛は既に馬を敵中央へと向けていた。
「わかってらぁ! だが、あの采配見てみろ! こいつぁ面白ぇ!」
答えにならない答えを返しながら、張飛は敵陣へと突っ込んでいく。
その時だった。劉備軍の一部隊が敵の側面を強引に突き崩し、突出した友軍が孤立しかけた。指揮を執っていた敵の副将が慌てて援護に向かおうとするが、包囲はすでに完成しつつある。誰の目にも、見捨てるのが最善手であることは明らかだった。
だが、高台の男は違った。
「退くな! 私が行く!」
凛とした声が戦場に響いた。副将らしき者が止める間もなく、男は自ら馬を駆り、包囲されつつある部隊のもとへと一直線に突っ込んでいく。
張飛は思わず目を見開いた。
「――馬鹿かお前は」
呟きながらも、その口元には笑みが浮かんでいた。冷静沈着な指揮官だと思っていた男が、味方のためにここまで無茶をする。悪くない、いや――むしろ好ましい。
張飛は蛇矛を握り直すと、その男の進路を塞ぐように馬を走らせた。
「おい! お前が黒鉄の将軍か!」
男が振り向く。兜の下、切れ長の目がわずかに見開かれた。
「張飛……か」
「知ってんならちょうどいい! ここで会ったが百年目ってやつだ!」
言うが早いか、張飛は蛇矛を振るった。男は咄嗟に剣で受け止めるが、その衝撃だけで馬体が大きく傾ぐ。
「くっ……!」
「ほお、防いだか。やるじゃねぇか!」
張飛は上機嫌に笑い声を上げた。二撃、三撃と繰り出される猛攻を、男は歯を食いしばりながら受け続ける。膂力では到底敵わない。それでも退かないのは、まだ包囲された味方が完全に救出しきれていないからだった。
「退けよ、な? お前が粘っても状況は良くなんねぇぞ」
「……退くわけには、いかない」
「頑固だなぁ、おい」
張飛は半ば呆れながらも、内心では感心していた。これだけ分の悪い戦いだと分かっていて、それでも味方を見捨てない。損得だけで動く男ではないらしい。
やがて男の馬が体勢を崩した。地面に片膝をついたところへ、張飛の蛇矛の柄が容赦なく叩き込まれる。手から剣が弾き飛ばされ、男はその場に崩れ落ちた。
「――終わりだ」
蛇矛の穂先が、男の喉元すれすれに突きつけられる。
男は荒い息を吐きながら、それでも顔を上げて張飛を見た。負けを悟った者の目ではなかった。まだどこか、覚悟を決めきれていない――いや、覚悟などとうに済ませているのに、悔しさだけが滲んでいる…そんな目だった。
「殺せ」
「あ?」
「私を殺せば、この場の指揮は乱れる。お前たちにとっても、その方が都合がいいはずだ」
張飛は思わず眉を上げた。命乞いをするならまだしも、殺せと言ってくる敵将などついぞ見ない。
「……お前、面白ぇやつだな」
「なに?」
「殺しゃしねぇよ。お前みてぇな奴を殺すのは、もったいねぇ」
張飛はニヤリと笑うと、蛇矛を引いた。そして無造作に男の襟首を掴み上げると、そのまま自分の馬の後ろへと放り投げるように乗せてしまう。
「な、なにを――」
「捕虜だ、大人しくしてろ。暴れると振り落とすぞ」
呆気に取られる男を尻目に、張飛は高らかに勝鬨を上げた。指揮官を失った敵軍は、みるみるうちに統率を失っていく。戦況は、この一瞬で完全に劉備軍へと傾いた。
――こうして、黒鉄の将軍・子義は劉備軍の捕虜となった。
*
陣に戻ると、子義は縄で縛られ、天幕の柱に繋がれた。手当てもされないまま、乾いた血の匂いだけが漂う中で、子義はただ静かに目を閉じていた。
生き延びたことに安堵はない。むしろ、これからどう扱われるかを思うと、心は驚くほど平静だった。死ぬなら死ぬで構わない。もとより、そういう覚悟でここまで生きてきた。
「よぉ」
声に目を開けると、鎧を脱いだ張飛が、片手に酒瓶をぶら下げて立っていた。
「なんの用だ」
「別に。ちょいと話してぇだけだ」
張飛はどっかりと子義の前に胡座をかくと、酒瓶を呷った。しばらく無言で見つめられ、子義は居心地の悪さを覚える。
「……見世物ではないぞ」
「わかってらぁ。ただ、お前みてぇな将軍がなんで死に急ぐような真似したのか気になっただけだ」
子義の肩がわずかに強張った。図星を突かれたような感覚に、思わず視線を逸らす。
「死に急いだつもりはない」
「ふぅん。まぁいいや」
張飛はあっさりと引き下がると、腰の短刀を取り出した。子義は身構えたが、張飛はそれを使って躊躇なく縄を切り落とした。
「な――」
「痛かったろ、これ。悪ぃな」
「どういうことだ? 俺は敵将だぞ」
「んなこたぁ知ってらぁ。でもよ、お前みてぇな強ぇ奴を縄で縛って転がしとくのは性に合わねぇんだよ」
張飛はカラカラと笑うと、酒瓶を子義に差し出した。子義は困惑したまま、それを受け取ることも出来ずにいた。
「気に入らねぇなら、逃げてみるか? まぁ、この陣抜けられたらの話だけどよ」
「……お前、正気か」
「大真面目だぜ」
悪びれもせずそう言い放つ張飛に、子義はしばし言葉を失った。敵として対峙した時の冷徹な采配とは裏腹に、目の前の男はどこまでも単純で、腹の内が全く読めない――いや、読む必要がないほど、まっすぐだった。
*
翌日、子義は縄目を解かれたまま劉備と関羽の前に引き出された。周囲の兵たちが訝しむ視線を向ける中、劉備は穏やかな笑みを浮かべて子義を見つめた。
「そなたが黒鉄の将軍か。見事な采配であった。して、名は何と申す?」
子義は一瞬迷ったが、隠す理由もないと膝をつき、拱手して答えた。
「……姓は桓、名は仁。字は子義と申します」
「桓仁殿か。良き名だ」
劉備が頷くと、子義は続けて言葉を継いだ。
「……お褒めに与り恐縮です。ですが、私は敵として捕らえられた身のはず」
「うむ、その通りだ。だが益徳がな、お主をいたく気に入ったようでな」
劉備の視線が張飛へと向く。張飛は腕を組んだまま、ふんと鼻を鳴らした。
「気に入ったっつーか、こいつはあっちにゃもったいねぇ人材だってだけだ」
「関羽もお主の武と知略、双方に感心しておる」
「……」
関羽は静かに頷くだけで多くを語らなかったが、その眼差しには確かな評価が宿っていた。
「表向きは客人としてこの陣に留まってもらう。無論、扱いにはお主の意向も汲もう。もし帰りたいと申すなら、機を見て考えよう」
劉備の言葉に、子義は戸惑いを隠せなかった。捕虜として殺されるか、良くて奴隷のように扱われるか――そう覚悟していただけに、この待遇は予想を大きく裏切るものだった。
「……何故、そこまで」
「理由なぞいらねぇだろ」
張飛がぽんと子義の肩を叩いた。存外に力強く、それでいて不思議と温かい手だった。
「難しく考えんな。お前ほどの奴が、あっちで飼い殺しにされてんのはもったいねぇだろ。しばらくここにいて、俺たちを見てみりゃいい。飯は旨いし、酒もある。悪い話じゃねぇはずだぜ」
あまりに単純な物言いに、子義は思わず苦笑した。策も打算もない、ただの直感で言っている。それが分かるからこそ、不思議と嫌な気はしなかった。
「……では…お言葉に甘えさせていただきます」
「よし決まりだ! 今夜は歓迎の宴だな!」
張飛は嬉しそうに笑うと、子義の背中を強く叩いた。その勢いによろめきながらも、子義は自分の中に、これまで感じたことのない奇妙な感覚が芽生えているのに気づいていた。
根無草のように渡り歩いてきた自分にとって、この場所は――この、豪快で不器用な男の存在は、少しだけ厄介なものになりそうだ。
戦場の喧騒が嘘のように静まり返った陣営に、たき火の明かりと笑い声が広がっていく。子義にとってそれは、これまでの人生で経験したことのない、奇妙に温かい夜だった。




