薫り3
主人公 牧野 賢治
32歳 八戸銀行 融資課行員 「信義」と「愛情」の板挟みになる男。真面目さが裏目に出て、妻に仕事の事情を話せない不器用さを持つ。
妻 牧野 志津
28歳 主婦(元名主の娘) 「生活の清さ」と「夫への信頼」を守ろうとする、芯の強い女性。夫の匂い、言葉、行動から真実を見抜く。ヤキモチは愛情の裏返し。
娼館の女 お蘭
20代後半 娼館『みどり楼』の女 「裏の人間関係」と「情の義理」を体現する。世慣れており、賢治の孤独と清さを見抜いている。物語の結末で、夫婦の救済者となる。
重要取引先 山中 社長 50代
五
翌日、賢治は銀行の頭取室に山中工業の社長、山中を呼び出した。
融資審査の最終段階。洋風の重厚な室内には、山中の葉巻の匂いが充満している。
「牧野君、融資の件、滞りはないかね? わしは急いでおるのだ」
山中は椅子にふんぞり返り、尊大に言った。賢治は静かに懐から二つの書類を取り出した。一つは山中工業の「表の帳簿」。もう一つは、みどり楼の裏の勘定書から突き止めた、隠された投機先への巨額な裏借金の証文の写しだった。
「社長。こちらの書類によれば、貴社はすでに八戸銀行の融資枠をはるかに超えた債務を抱えておられます。しかも、その担保となっているはずのない青森湾岸の埋立地の証文まで確認いたしました」
賢治の声は低く、張り詰めている。志津の「お顔をまっすぐ見られなくなりそうで」という言葉が、賢治の背中を押していた。正しいことをしなければ、夫として、人間として、志津に顔向けできない。
山中の顔から、瞬時に血の気が引いた。
「き、貴様!どこからそんなものを…!」
「裏の帳簿整理を任されましたので」賢治は言い切った。「銀行員としての信義に基づき、この融資はお断りさせていただきます」
山中は激昂し、書類を床に叩きつけた。
「この恩知らずが!誰がこの八戸の経済を回していると思っている!貴様ごとき末端の行員が、わしの金を断るだと!」
怒鳴り散らす山中の声が、頭取室の外まで響く。賢治は、ただ一点、山中の目を真っ直ぐに見返した。自分には、守るべき生活と、取り戻すべき信義がある。
その時、頭取室の扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、お蘭だった。髪をきちりと結い上げ、いつもの派手な着物ではなく、紺の落ち着いた羽織を纏っている。彼女は頭取に一礼すると、真っ直ぐ山中へ向き直った。
「旦那様。もう、潮時でしょう」
お蘭の低い声は、荒れ狂う山中の怒りを、不思議と鎮めた。
「お蘭、お前まで…」
「この人(賢治)はね、旦那様の帳簿を、本当の信義で見ておいででしたよ。誰にも言えない秘密を、わたくしは裏で散々聞かされました。あんた、もうやめときなさい」
お蘭は、賢治を一瞥もせず、山中に告げた。賢治は驚愕した。お蘭はすべてを知っていて、そして今、自分の身を挺して、賢治を助けようとしているのだ。彼女の言葉は、山中に対する情けと、賢治に対する義理、その両方を含んでいるように聞こえた。
山中は、床に座り込み、うめき声をあげた。すべてが終わったのだ。
六
八戸の街は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。冬の漁期を終えた蕪島のカモメが、時折、寂しげに鳴いている。
山中工業の件は、銀行の判断で公にはならず、融資は中止された。賢治は、銀行員としての職責を果たした。
その日、賢治が定刻に帰宅すると、志津が火鉢の横で針仕事をしていた。
「お帰りなさいませ」
志津は穏やかに言った。賢治は座るやいなや、胸の奥にあった重荷をすべて下ろすように、志津に言った。
「志津。わしは、みどり楼の女に惚れてなどいない。あの場所は、山中社長の裏勘定を整理するためで……」
志津は、賢治の言葉を遮り、彼の襟元をそっと撫でた。
「存じております」
志津はそう言って、微笑んだ。
「今日、お蘭という方が、わたくしに会いに来られました」
賢治は息を飲んだ。
「あの方は、わたくしに言われました。『旦那様は、誰よりもご立派なお方です。奥様を深く愛しておいでだ。汚れた銭金と、清い生活の境を、誰よりも知っておいでだ』と」
お蘭は、賢治の名誉と生活を守るために、自ら志津に会いに来ていたのだ。志津は、続けた。
「わたくし、あの反物を、結局買うのをやめましたでしょう? それは、あなた様の給金が、清いものであって欲しいと願う、わたくしの我儘です。あの時、お蘭さんの香りが、お父様から消えているのを見て、わたくしはすべてを許しました」
志津のヤキモチは、夫の心変わりへの不安ではなく、二人で築き上げた生活の「清さ」への執着だった。彼女は、夫が「清い」道を選び、家に戻ってきたことを、夫の匂いの変化から知っていたのだ。
賢治は、志津の手を取り、深く頭を下げた。
「ありがとう、志津」
夜が更け、二人きりの八戸の家には、静寂だけが満ちていた。外からは、汽笛の音が遠く聞こえてくる。
志津は、そっと茶を淹れ、火鉢の小さな灯りの下で、賢治に向き直った。その灯りが、夫の疲れた顔と、妻の優しく強い目を、ほんのりと照らしている。
賢治は、自分が失いかけた「生活」の重さ、そしてその中に灯る「愛情」という名の月待ちの灯りが、何よりも尊いものだと感じていた。
読んでいただきありがとうございます。
3-3となります。
短編小説として続けていければと考えております。
これからもよろしくお願いします。




