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ゼロから始める軍神少女  作者:
第二巻 初対決
93/130

雨の中の悲劇

春の雨上がり。その湿り気を帯びた風が、ふわりとシャルの頬を撫でる。

ひんやりとして、心地いい。

だけど、空にはまだどんよりとした雲が居座っている。

そのせいだろうか。隣を歩くシミアの横顔にも、晴れない影が落ちていた。


道の両脇には、街路樹が青々と茂っている。校舎の軒下には、名前も知らない花々が咲き誇っていた。

春だ。生命の息吹に満ちている。

本来なら、心躍る光景のはず。

けれど、シャルには分かっていた。今のシミアの瞳に、この景色は映っていない。

その横顔に浮かぶ深い憂いは、見ているこちらの胸が苦しくなるほどだった。


「春も、もう半ばですね。雨の日が、これからもっと増えるかもしれません。次の『シャル厨房』は、室内で開いた方がよさそうですね」

「はい。ですけど、どこかいい場所、借りられるでしょうか、シミア様?」


何気ない日常の話題を振ることで、シミアの気を逸らそうと。シャルは、そっと声をかけた。

シミアの表情は、それでも晴れない。

(やっぱり、あの事を……)

シャルは、先日トリンドルが持ってきたカシウスからの手紙を思い出していた。

あの毒のある言葉は、鋭い棘となってシミア様の心に突き刺さった。それだけじゃない。まるで二人を引き裂くように、間に深く、打ち込まれた。

何か力になりたい。でも、なんて声をかければいいのか分からない。


「今は使われていない、軍事戦略学の教室なら、借りられるかもしれません。今度、アウグスト先生かカメル先生にお願いしてみましょう」

「わぁ……!そしたら、もっとたくさんのお客さんに来てもらえますね!もっとたくさん、稼げちゃいます!楽しみです!」

シャルは、努めて明るい声を出した。

シミアは、けれど、力なく微笑むだけだった。その笑みは、どこか乾いていた。

「……そうですね」

再び、空を見上げる。

分厚い雲が、今にも冷たい雨を降らせそうだ。

カシウスの脅威が、あの空のように、重く心にのしかかっている。

シミアは無意識に、シャルから少しだけ、距離を取った。

危険から、彼女を遠ざけるように。


すっ、と。

温かい手が、その躊躇いを許さなかった。

冷たくなった指を、力強く、それでいて優しく握りしめる。

シャルが、回り込んで、目の前に立っていた。


「シミア様」

ぎゅっと唇を結び、覚悟を決めた声が、震えていた。

「今ならまだ……引き返せますよね?」

「ここから、離れましょう!シミア様が、毎日こんなに思い悩まずに済む場所へ!私たち、自分たちでお金を稼げるって、もう証明したじゃないですか。だから、昔約束したみたいに、二人で、小さなパン屋さんを開きましょう?故郷にいた頃だって、私たち、ちゃんと生きていけたじゃないですか!」

「シャル……」

瞳に涙を溜め、必死に訴えかけてくるシャルを見て、シミアの心は大きく揺れた。

頷いてしまいたい。今すぐに、全てを投げ出して。

でも、分かっていた。それは、ただの現実逃避だ。

カシウスの、あの温和な笑みが、骨にまとわりつく病のように、全ての逃げ道を塞いでいる。

逃げれば、シャルを、自分が大切に思う全ての人々を、奈落の底へ引きずり込むことになる。


(もう、戻れない。カシウスは……きっと私を、このままにはしておかない)

その言葉は声にならず、乾いた苦笑だけが、唇に浮かんだ。

今の自分にできるのは、目の前の、かけがえのない存在を守ることだけ。

(でも、それすら、ただの自己満足で、傲慢なのかもしれない……)


「でしたら、その苦しみを、私にも半分、分けてください!

シャルは、黙り込んだシミアに、一歩踏み込んだ。

「私に大きなことはできません。でも、二人でなら、きっと何か方法が見つかります!もう、全部一人で背負い込むのは、やめてください!」

「ごめんなさい、シャル……」

(本当のことを言えば、この子を危険に晒すことになる)

沈黙が、どれほど彼女を傷つけているか、痛いほど分かっていた。

辺境での戦いは、シャルに安らぎも、幸福ももたらさなかった。もたらしたのは、怯えながら過ごす、こんな日々だけだ。

胸が、苦しい。逃げ出したい。

けれど、この世界のどこへ行けば、カシウスの目から逃れられる?

頭上の、この空だけが、束の間の逃げ場所だった。


ふと、視界の端に、何かが映る。

三階の窓辺に置かれた、大きな植木鉢。

いつもは、そこに静かに収まっているはずの、それが。

ありえないほど、不自然に。

ゆっくりと、しかし、確かな意志を持って、窓枠の縁へと、傾き、滑り出していた。

そして、シャルのいる場所は、〝偶然〟にも、その落下予測地点の、真下だった。


『――もし、この師の言う通りにしないのなら、この私が、最も痛みを伴う現実を以て、君に、直接、教鞭を執ってやることになる』


カシウスの、温和で、冷たい声が、脳内で炸裂した。

思考する時間など、なかった。


「シャルッ!」


シミアが、叫んだ。

放たれた矢のように、その身を躍らせる。

呆然と立ち尽くすシャルを、ありったけの力で、突き飛ばした!


次の瞬間。

背中に、想像を絶する激痛が走る。

まるで、背骨が砕け散ったかのようだ。

強烈な衝撃に、視界が真っ暗に染まっていく。意識が、遠のく。


ドンッ――!


陶器の植木鉢が、硬い石畳に叩きつけられ、甲高い音を立てて砕け散った。

続いて、ぐしゃり、と鈍い音。

シミアの体が、地面に崩れ落ちる音だった。


ゴロゴロ……ッ!


空に、白い閃光が走る。

轟音が、この悲劇の終幕を告げるように、鳴り響いた。


「シミア様っ!」


シャルの絶叫が、校舎に木霊した。

シミアの体が、糸の切れたマリオネットのように、ぐにゃりと崩れ落ちる。ぴくりとも、動かない。

ぽつり、と。

冷たい雨粒が、シャルの手の甲に落ちた。びくりと体が震える。

二滴、三滴……。

視線が、吸い寄せられるように、地面へと落ちた。

温かい、鮮血が。

シミアの体の下から、じわり、じわりと滲み出し、冷たい石畳の上に、禍々しい模様を描いていく。


がくり、と膝から力が抜けた。

地面に崩れ落ち、ただ、シミアの名を呼び続ける。

何の応えも、ない。


雨が、激しさを増していく。

雨水が、地面を叩き、鮮血を薄め、広げ、土と、砕けた陶器の欠片と混じり合い――

濁流となって、シャルの絶望に染まった視界を、すべて、真っ赤に塗り潰していった。

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