レインの思考
バセスは、レインが差し出した紅茶を受け取った。
まず、その香りを楽しむ。
それから、ゆっくりと一口、啜った。
こわばっていた眉間の皺が、温かな紅茶が喉を滑り落ちるにつれて、ようやく、少しずつ解けていく。
その僅かな笑みを、レインは見逃さなかった。
張り詰めていた心が、すとんと落ち着くのを感じる。
「うむ、結構だ。君も座りなさい、レイン」
「はっ。バセス先生」
「そう固くなるな」
バセスは、ひらひらと手を振る。
「君はもう、私の元から卒業した身だ。好きなように呼ぶといい」
「では……」
レインの顔に、一瞬、ためらいの色が浮かぶ。
だが、結局は、より親しみを込めた呼び方を選んだ。
「バセス爺や」
バセスは満足げに頷き、再び紅茶を口へと運んだ。ゆっくりと、その味わいを確かめるように。
レインも、目の前のカップを手に取った。
だが、もう、昔のように純粋に紅茶の味を楽しむことはできない。
かつてバセスから叩き込まれた、茶の温度、色、香りに関する厳しい基準。それが、見えない網のように、レインの五感を縛り付けていた。
その複雑な表情を見て、バセスは意味ありげに微笑んだ。
「レインよ。少しは後悔しているかね?家を飛び出し、私と共に、こんな退屈な技術を学ぶことになったのを」
「滅相もございません」
レインは、きっぱりと首を横に振った。
「それでも、多少は懐かしく思うだろう?あの、何の憂いもなかった日々を」
レインの脳裏に、孤児院での日々が蘇る。
難しいことなど、何一つない。
だが、毎日は、ただ、昨日の繰り返しだった。
何の新鮮味もなく、未来も見えなかった。
バセス爺やと共に暮らすようになってから、日々は、比べ物にならないほど充実していた。
何事も、完璧を目指す。そうでなくとも、使用人たちにいいように扱われぬよう、物事を深く理解する。
その教えを、ずっと守ってきた。
気づけば、かつては遥か遠い夢物語だった多くのことが、手の届く場所にあった。
そして、ここ数ヶ月の生活は……。
そこまで考えて、レインの脳内に、シミアの姿が、勝手に浮かび上がってきた。
シャルを守るため、その身を投げ出した時のこと。
教室での討論会で、たった一人で、劣勢を覆した時のこと。
辺境の戦場で、絶対的な敗北を、奇跡へと変えてみせた時のこと。
そして、はにかんだ顔。疲れた顔。無防備な顔……。
レインの答えは、とうに決まっていた。
「バセス爺やとの修練の日々も、そして、今の日々も。どちらも、俺は好きです」
レインの瞳に、迷いのない、強い光が宿る。
「過去に戻りたいとは、思いません」
「ふむ……。今の若者は、考え方が違うらしいな」
レインの様子を見て、バセスはぽつりと呟いた。
「まあ、よい……」
窓の外へと、視線を移す。
一点の曇りもない青空が、まるでキャンバスのように、彼の過ぎ去りし日々を映し出しているかのようだった。
「……だが、私も、いつかは、この世を去る」
「エグモント家には、跡継ぎが要る。そして、この執事の地位にも、後継者が要る。レイン、君に、どちらかの道を強制するつもりはない。だが、君自身の未来について、考え始める時だ。君の選択には、もう、それだけの重みがあるということだ」
そう言い残し、バセスは立ち上がり、屋敷の奥へと、その背を向けた。
レインは、その背中を、ただ、呆然と見送ることしかできなかった。
自分の未来が、どうなるのか。
そんなこと、一度も、考えたことはなかった。
窓の外に目をやる。
手入れの行き届いた庭園。その先には、貴族の屋敷が立ち並び、さらに視線を上げれば、遥か彼方に、女王の宮殿が見える。
孤児院を出た時には、こんな景色を見ることになるなど、想像だにしなかった。
かつてのレインは、孤児院の規則に従っていた。
今のレインは、バセス爺やとの約束を守っている。
では、未来のレインは?
茶器を片付けながら、バセスの言葉が、心の中で何度も響いた。
――君の選択には、もう、それだけの重みがある。
レインは、エグモント邸の廊下を、ゆっくりと歩いていた。
窓から差し込む夕日が、塵一つなく磨き上げられた床を、きらきらと照らしている。
それは、今の彼に、為すべき仕事がないことを意味していた。
その時だった。
庭の方から、ぱたぱたと、慌ただしい足音が聞こえてきた。
黄昏の光をその身に纏い、収穫期の麦の穂にも似た金髪を揺らしながら、一人の少女が、レインの視界へと飛び込んでくる。
トリンドルだ。
レインの姿を認めると、その顔が、ぱっと喜色に染まった。
「御者!こっちに来なさい!今すぐあんたにやってもらいたいことがあるの!」
「お嬢様、お気を確かに。まずは、落ち着いてお話しください」
「ダメ!いいから、まずはあたしについてきて!」
トリンドルは、有無を言わさず、その手首を掴んだ。
声には、隠しきれない焦りが滲んでいる。
「バセス執事に、あんたに頼めって言われたの!シミアを守るのを、手伝ってほしいのよ!シミアが……あいつに、また、カシウスに狙われてるの!」
レインが、何かを答えるより早く。
トリンドルは、力ずくで、彼を引っ張っていった。
こうして、レインの、未来に関する、束の間の思索は、この小さな嵐の到来と共に、唐突に、その幕を下ろしたのだった。