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ゼロから始める軍神少女  作者:
第二巻 嵐からの手紙
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レインの思考

バセスは、レインが差し出した紅茶を受け取った。

まず、その香りを楽しむ。

それから、ゆっくりと一口、啜った。

こわばっていた眉間の皺が、温かな紅茶が喉を滑り落ちるにつれて、ようやく、少しずつ解けていく。

その僅かな笑みを、レインは見逃さなかった。

張り詰めていた心が、すとんと落ち着くのを感じる。

「うむ、結構だ。君も座りなさい、レイン」

「はっ。バセス先生」

「そう固くなるな」

バセスは、ひらひらと手を振る。

「君はもう、私の元から卒業した身だ。好きなように呼ぶといい」

「では……」

レインの顔に、一瞬、ためらいの色が浮かぶ。

だが、結局は、より親しみを込めた呼び方を選んだ。

「バセス爺や」

バセスは満足げに頷き、再び紅茶を口へと運んだ。ゆっくりと、その味わいを確かめるように。

レインも、目の前のカップを手に取った。

だが、もう、昔のように純粋に紅茶の味を楽しむことはできない。

かつてバセスから叩き込まれた、茶の温度、色、香りに関する厳しい基準。それが、見えない網のように、レインの五感を縛り付けていた。

その複雑な表情を見て、バセスは意味ありげに微笑んだ。

「レインよ。少しは後悔しているかね?家を飛び出し、私と共に、こんな退屈な技術を学ぶことになったのを」

「滅相もございません」

レインは、きっぱりと首を横に振った。

「それでも、多少は懐かしく思うだろう?あの、何の憂いもなかった日々を」

レインの脳裏に、孤児院での日々が蘇る。

難しいことなど、何一つない。

だが、毎日は、ただ、昨日の繰り返しだった。

何の新鮮味もなく、未来も見えなかった。

バセス爺やと共に暮らすようになってから、日々は、比べ物にならないほど充実していた。

何事も、完璧を目指す。そうでなくとも、使用人たちにいいように扱われぬよう、物事を深く理解する。

その教えを、ずっと守ってきた。

気づけば、かつては遥か遠い夢物語だった多くのことが、手の届く場所にあった。

そして、ここ数ヶ月の生活は……。

そこまで考えて、レインの脳内に、シミアの姿が、勝手に浮かび上がってきた。

シャルを守るため、その身を投げ出した時のこと。

教室での討論会で、たった一人で、劣勢を覆した時のこと。

辺境の戦場で、絶対的な敗北を、奇跡へと変えてみせた時のこと。

そして、はにかんだ顔。疲れた顔。無防備な顔……。

レインの答えは、とうに決まっていた。

「バセス爺やとの修練の日々も、そして、今の日々も。どちらも、俺は好きです」

レインの瞳に、迷いのない、強い光が宿る。

「過去に戻りたいとは、思いません」

「ふむ……。今の若者は、考え方が違うらしいな」

レインの様子を見て、バセスはぽつりと呟いた。

「まあ、よい……」

窓の外へと、視線を移す。

一点の曇りもない青空が、まるでキャンバスのように、彼の過ぎ去りし日々を映し出しているかのようだった。

「……だが、私も、いつかは、この世を去る」

「エグモント家には、跡継ぎが要る。そして、この執事の地位にも、後継者が要る。レイン、君に、どちらかの道を強制するつもりはない。だが、君自身の未来について、考え始める時だ。君の選択には、もう、それだけの重みがあるということだ」

そう言い残し、バセスは立ち上がり、屋敷の奥へと、その背を向けた。

レインは、その背中を、ただ、呆然と見送ることしかできなかった。

自分の未来が、どうなるのか。

そんなこと、一度も、考えたことはなかった。

窓の外に目をやる。

手入れの行き届いた庭園。その先には、貴族の屋敷が立ち並び、さらに視線を上げれば、遥か彼方に、女王の宮殿が見える。

孤児院を出た時には、こんな景色を見ることになるなど、想像だにしなかった。

かつてのレインは、孤児院の規則に従っていた。

今のレインは、バセス爺やとの約束を守っている。

では、未来のレインは?

茶器を片付けながら、バセスの言葉が、心の中で何度も響いた。

――君の選択には、もう、それだけの重みがある。

レインは、エグモント邸の廊下を、ゆっくりと歩いていた。

窓から差し込む夕日が、塵一つなく磨き上げられた床を、きらきらと照らしている。

それは、今の彼に、為すべき仕事がないことを意味していた。

その時だった。

庭の方から、ぱたぱたと、慌ただしい足音が聞こえてきた。

黄昏の光をその身に纏い、収穫期の麦の穂にも似た金髪を揺らしながら、一人の少女が、レインの視界へと飛び込んでくる。

トリンドルだ。

レインの姿を認めると、その顔が、ぱっと喜色に染まった。

「御者!こっちに来なさい!今すぐあんたにやってもらいたいことがあるの!」

「お嬢様、お気を確かに。まずは、落ち着いてお話しください」

「ダメ!いいから、まずはあたしについてきて!」

トリンドルは、有無を言わさず、その手首を掴んだ。

声には、隠しきれない焦りが滲んでいる。

「バセス執事に、あんたに頼めって言われたの!シミアを守るのを、手伝ってほしいのよ!シミアが……あいつに、また、カシウスに狙われてるの!」

レインが、何かを答えるより早く。

トリンドルは、力ずくで、彼を引っ張っていった。

こうして、レインの、未来に関する、束の間の思索は、この小さな嵐の到来と共に、唐突に、その幕を下ろしたのだった。

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