悪意は紙に乗って(上)
早朝。突如として見舞われた豪雨が、王都をめちゃくちゃに洗い流していた。
商業地区には、湿って冷たい空気よりも、さらに人を不安にさせる緊迫した雰囲気が漂っている。普段は清潔な壁という壁に、今や、同じ内容の貼り紙がべたべたと貼られていた。雨に濡れたインクが、まるで泣き跡のように滲んでいる。
市民たちは、三々五々、貼り紙の前に集まっては、声を潜めて激しく議論を交わしていた。商人たちは、苦虫を噛み潰したような顔で、黙々とその〝災厄〟を店の壁から引き剥がしていく。時折通りかかる貴族に至っては、まるで一目でも見れば、この突然の政治的嵐に巻き込まれてしまうとでも言うように、足早にその場を避けていた。
「……これに書かれてること、本当なのか? 女王陛下が……」
「嘘なもんかよ。これ見ろ、これからは王家には近づかねぇこった」
「あのシミア・ブルームって、あの老いぼれ衛兵の孫娘だろ」
「ざまあみろ! ブルームの爺さん、昔は女王の犬だったじゃねえか。可愛い孫娘がこんな目に遭うなんざ、まさに因果応報だな!」
「おい、声がでけぇ! 近衛軍の犬に聞かれたらどうすんだ……」
言い終わらないうちに、重い金属が地面を擦るような足音が、遠くから近づいてきた。
さっきまで熱心に議論していた市民たちが、まるで驚いた鳥の群れのように、一瞬で四方八方へと散っていく。
ドードリン隊長は、雨で半分以上が濡れてしまった貼り紙の前まで歩み寄ると、その内容に目を落とし、眉間に深く皺を刻んだ。
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英雄は血の涙を流し、王権は地に堕ちた! 全ての善良なる民に告ぐ
王国の全ての善良で、正直な市民諸君に告ぐ。
諸君は、覚えているだろうか。つい先頃、己が身一つで、辺境の戦場において劣勢を覆し、鋼心連邦の鉄蹄を我らの故郷から退けた者が誰であったかを。
そう、彼女だ! 我らが、齢十五にして、非力ながらも神の如き知恵を持つ少女英雄――シミア・ブルーム嬢、その人である!
彼女は王国の救世主であり、ローレンス王家の恩人であり、国家の安寧を守りし英雄である! だが、我らが、高みに座す女王陛下は、この英雄に、いかにして〝報いた〟か?
シミア嬢が王都に到着し、栄誉と叙勲を受けるべきその日に、我らが女王は、ほんの些細な無礼を咎め、この寄る辺なき少女を密室へと引きずり込み、残忍なる鞭打ちの刑に処したのだ! 彼女が再び姿を現した時、栄光の象徴たるべきドレスは、鮮血に染まり、まるで壊れた荷物のように、冷たい宮殿の石段の上に、虫の息で打ち捨てられていた!
それだけではない! 学院に入ってからも、女王は、その至上の権力を用い、再三に渡り、ルルト家、ケント家らの令嬢を唆し、我らが英雄と、彼女の唯一の家族たるメイド、シャル嬢に対し、終わることなきいじめと屈辱を与え続けたのだ!
このような地獄の如き環境にありながらも、我らが英雄は、王国に最終的な勝利をもたらした! だが、彼女を迎えたのは、花束でも栄誉でもなく、女王による、またもや冷酷で、独善的な、奴隷への如き屈辱であった!
問おう! 国を救った功労者に対し、感謝の念一つ抱かず、残虐なる拷問を加える女王に、我らが忠誠を捧げる価値があるだろうか!?
彼女の所業は、かつて英雄を厚遇した、偉大なるローレンス王家の名を、とうに汚し尽くしている!
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ドードリンは、貼り紙を壁からひったくるように引き剥がすと、ぐしゃりと丸め、厳しい表情のまま、王宮へと足を速めた。
……
王家図書館の中は、垂れ込めた暗雲のせいで、巨大なドームから差し込む光さえも、どこか色褪せて見えた。
窓の外で騒がしく鳴り続ける雨音が、次第に、ミリエルが夢で見た、全てを飲み込むあの黒い雨と、重なっていく。
「今朝方、同じ内容の貼り紙が、王都の隅々にまで貼られていたとのことです。これは、アルヴィン将軍が人を遣わして届けさせたもの……」
ミリエルは、コーナの、心配の色を隠せない顔を見つめ、平静を装いながら、その少し湿った紙を受け取った。
手紙に書かれた一文字一文字が、まるで毒を塗った針のように、純粋な悪意をもって、彼女の目に突き刺さる。
書かれている内容は、そのほとんどが事実だった。
だが、その事実の一つ一つが、巧妙に捻じ曲げられ、彼女にとって、最も不利な方向へと誘導されていた。
彼女の視線が、〝奴隷への如き屈辱〟という一文の上で、釘付けになった。
はっ、と息が詰まる。
それは、単なる悪意に満ちた告発ではなかった。
彼女の心の、最も深い場所にある罪悪感を、正確に抉り出す、共鳴音だった。
脳裏に、あの夜の光景が、否応なく蘇る――自分のベッドの上で、薬の効果のせいで、苦痛と陶酔の入り混じった表情を浮かべていた、シミアの姿が。
あの奇怪な夢を見て以来、この出来事は、亡霊のように、何度も、何度も、彼女の目の前で再演されていた。
これまでにないほどの危機感が、まるで蔦のように、彼女の心臓に絡みついていく。
図書館を吹き抜ける爽やかな風が、今、彼女の肌を撫でると、まるで冬の寒風のように、骨身に染みた。
「ミリエル様、近衛軍に、この件を調査させますか……?」
コーナの、心配そうな声が、彼女を、氷のように冷たい思索から引き戻した。
その気遣いが、今のミリエルには、まるで無言の尋問のように聞こえた。
(調査? もし調査すれば、何が見つかるというの? どこかの陰謀家ではなく、この私自身の寝室へ、この私自身の両手へと、真っ直ぐに繋がる手がかりが?)
「いいえ! やめなさい!」
ミリエルの声が、無意識に、甲高くなった。
コーナが、びくりと肩を震わせたのを見て、ようやく自身の失態に気づく。慌てて、言い訳を探した。
「今、我々が大々的に動けば、それこそ、相手の思う壺ではないかしら。この告発が、事実だと認めるようなものでしょう?」
「……確かに、その通りですわね」
コーナは、こくりと頷いた。
ミリエルの顔に、申し訳なさと、脆さが入り混じった笑みが浮かぶ。
「ごめんなさい、コーナ。私、最近……少し、疲れているのかもしれないわ」
「いいえ、陛下。何か、お悩み事がおありでしたら、どうか、この私にお聞かせください」
ミリエルは頷くと、立ち上がり、茶器の方へと歩いた。
自分のために、一杯の紅茶を淹れる必要があった。
それは、慰めを求めるためではない。
コントロールを取り戻すための、ほんの僅かな儀式だった。
急速に、制御不能になっていくこの世界の中で、ただ一つの、単純で、効果的な。
王家図書館の上空では、黒い雲が、ますます厚く、重なっていく。
彼女の心の中で荒れ狂う嵐もまた、同じだった。
(……学院にいるあの子は、今頃、どうしているのかしら?)