悪意は紙に乗って(下)
陽の光が、金色の蛇のように、カーテンの隙間からそっと滑り込む。
滑らかな木の床の上をゆっくりと這い、やがてベッドの上へと辿り着くと、眠り続けるシミアに、柔らかな温もりを届けた。
嵐の後の得難い、静かな朝だった。
シミアは、温かい布団の中で、思いきり、華奢な手足を伸ばす。朦朧とした意識が、久しぶりに、心ゆくまで寝ていられるという、気怠い幸福を味わっていた。
不意にその金色の光の蛇がドアの隙間で一つの影によって音もなく断ち切られた。
紙が床を擦る、微かな「かさり」という音と共に、一通の白い封筒が、まるで蛇が舌を出すようにドアの下からするりと滑り込んでくる。
そして、ベッドとドアの間の陽だまりの中で、ぴたりと止まった。
ドアの隙間の向こうの影が消え、光が再び繋がる。
まるで、何も起こらなかったかのように。
……
シミアが、ようやく目を開けた時、太陽は、もう空の真上にあった。
彼女は、ゆっくりと身を起こし、柔らかなシーツが滑り落ちるのをされるがままにしていた。
制服に着替え、リボンタイを整え、さあ出かけようとした、その時。
床の上に、ぽつんと置かれた、一通の封筒が、目に留まった。
彼女は、その場にしゃがみ込むと、手紙を拾い上げた。
封は、されていない。
裏返すと、そこには、見覚えのある、カシウスの整然とした筆跡。
その筆跡が、まるで氷水を浴びせられたかのように、彼女の気怠さを一瞬で消し飛ばし、全身の神経をぴんと張り詰めさせた。
震える手で、封筒を開ける。
そこに書かれた一文字一文字が、カシウス独特の穏やかでそれでいて冷たい声色となって脳内で響き始めた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
我が最も高く評価する教え子、シミアへ
その後、息災にしているだろうか。この師は君と別れて以来、連邦の未来のために日々奔走し、片時も休む暇がない。君はきっと、平穏で、安逸な学園生活を満喫していることだろう。
大陸の勢力図さえも覆しかねない君の才能が偏執狂と無能者が支配する籠の中に閉じ込められ、日々虚しく時を過ごしているかと思うと、この師は断腸の思いだよ。
君が、辺境で提出したあの答案は、完璧だった。ただ残念なことに君は最も肝心で、答えの明白な問いに間違った答えを書いてしまった。シミア、君は、優しすぎる。その優しさが君に無用な感情の絆を断ち切ることも、真の敵に非情の一撃を加えることもできなくさせている。戦略家として、優しさとは、許されざる原罪なのだ。
故に、この師が、自ら、その甘ったれた悪癖を矯正してやることにした。
今日から、君は、別れを学ばねばならない。君が大切に思う家族の情、友との情、そして君自身のその甘っちょろい弱さに別れを告げるのだ。君は、自ら、周りの人間全てから、距離を置かねばならない。そうして初めて君は真に冷徹な戦略的視点で思考し、至る所に潜む危険を警戒することを学ぶだろう。
もしこの師の言う通りにしないのなら、この私が最も痛みを伴う現実を以て君に直接教鞭を執ってやることになる。
私が、そばにいないからといって、高枕を決め込めると思うな。この小さな王都に、私は、君のための全く新しい舞台をとうに用意してある。探すがいい、見つけるがいい。やがて、君は、その全貌を目にすることになるだろう。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
シミアは、震える手で、便箋を置いた。
脅迫。
これは、単なる脅迫ではない。宣戦布告だ。
カシウスが、彼女の思考の癖を誰よりも理解している、あの男が。かつて彼女に戦争の勝ち方を教えたあの男が、彼女に次の戦争を仕掛けてきたのだ。
(全部、私のせい……。私のこの甘さが、災いを招くこの才能が、シャルを、トリンドルを、私が大切に思う全ての人を、敵の手に人質として差し出してしまったんだ……)
シャル、トリンドル、シメール、ミリエル……。
脳裏をよぎる名前の一つ一つが、カシウスの次の標的になるかもしれない。
封のされていない手紙が、鍵をかけたはずの部屋に、置かれていた。
それは、学院内に、内通者がいることを意味していた。
領主寮を自由に出入りできる、内通者が。
一体、誰? ライナス? あの教室で、私を助けてくれた、穏やかな先輩……? クラウディア? 口は悪いけど、裏表のない、真っ直ぐな先輩……?
いや、もう、考えるのはやめよう。
今や、全ての笑顔が、毒を塗った刃に見える。
シミアの顔から、さっと血の気が引いた。
その時だった。
コン、コン、コン、と、ドアをノックする音が響いた。
びくり、とシミアの体が、大きく震えた。
(ドアの向こうにいるのは、敵……?)
「シミア、いる? あたし、トリンドルよ」
聞き慣れた声に、張り詰めていた神経が、少しだけ緩む。
だが次の瞬間カシウスのあの冷たい警告が再び脳内で警鐘を鳴らした。
(……周りの人間全てから、距離を置け……)
トリンドルを巻き込んではいけない。絶対に。
「いるわ! 今、開ける!」
声の震えを無理やり抑え込む。
手紙を封筒に戻し、枕の下に隠した。念のため、外から見えないことを目で二度、確認してから、ベッドを離れる。
ドアの前で、一旦、立ち止まる。
呼吸を整え、狂ったように鳴り続ける心臓を必死に宥めた。
そして、一つ、深呼吸をする。
〝いつも通り〟の仮面を被り、自分でも、奇妙に感じるほど、穏やかな微笑みさえ浮かべて。
太陽の光が差す、未知の危険へと通じる、その扉へと、向かった。




