意志の価格と、生存の論理
歴史学講義室の教壇で、アウグスト・バイロンは眼鏡の位置を直し、陶酔したように過去の戦例を解剖していた。
「――歴史を俯瞰すれば、数多の王たちの敗北は、兵力の不足に起因するものではありません。往々にしてそれは、『意志の欠乏』に帰結するのです」
周囲では、紙を羽ペンで擦る乾いた音がさざめいている。
その単調な周波数は最強の睡眠導入剤となって、シミアの脆弱な神経を撫で回していた。
瞼の裏に、昨晩の光景が焼き付いて離れない。
コーナのデスクに積み上げられた貴族たちの陳情書の山。揺れる蝋燭の灯りの下、一通一通封を開け、分析し、批復を書き続ける。空が白むまで続いた、終わりのない事務作業。
身体は悲鳴を上げているが、シミアは必死に瞼をこじ開けていた。
最近の歴史学は、王国の政治力学や地政学的駆け引きに触れることが増えている。それは今のシミアにとって最も手薄で、かつ急務で補強すべき知識だった。
肘で強引に上半身を支え、鈍る脳味噌を叩き起こして講義に食らいつく。
「勝てるはずの強敵に対し、持ちこたえる意志を欠いて降伏した例。勝てるはずのない絶境において、ただ意地だけで乾坤一擲の逆転劇を演じた例。これこそが、歴史が我々に示す啓示なのです……」
アウグストの情熱的な結びと共に、ようやく救いの鐘が鳴り響いた。
「ふぅ……」
張り詰めていた糸が切れ、疲労の濁流が一気に押し寄せる。シミアは机に突っ伏し、口から魂が抜け出ていくのを感じた。
「シミアさん」
耳元で、磁力を帯びたような低い男の声がした。
丁寧だが、教養に基づいた壁を感じさせる、どこか他所行きの響き。
シミアは重たい頭を持ち上げる。
視界に入ってきたのは、仕立ての良いスーツを着こなし、松の木のように真っ直ぐに立つアレクシスだった。彼はノートを抱え、堂々とシミアの机の前に立ちはだかっていた。
その瞬間。
雨の中で見た彼の真の姿、あの奇妙な貴公子の記憶が強心剤となり、シミアの脳から眠気を吹き飛ばした。
「あれ? アレクシス君?」
「少し、お時間を頂戴できないだろうか」
アレクシスは言葉を選んでいた。まるで巨額の商談を持ちかける時のように慎重に。
「もし可能なら、君の知識を買いたい。価格は君が決めてくれ」
「え?」シミアは目をパチクリさせた。「知識を……買う?」
「先ほどの講義で、いくつか論理的に納得できない点があった。君ならその答えを知っていると思ってね」
アレクシスの眼差しは真剣で、どこか執拗だった。
「銀潮連邦において、有益な情報は対価を払って交換されるべきものだ。言い値で構わない」
そのあまりに大真面目な顔を見て、シミアの緊張の糸がプツリと切れた。
「ふふっ」
思わず笑いが漏れる。その笑みは、瞳の奥の淀みをきれいに拭い去った。
「いいよ。でもローレンス王国では、同級生同士のおしゃべりにお金は取らないの」
その無垢な笑顔に毒気を抜かれたのか、アレクシスは少し気まずそうに視線を逸らし、素早くノートを開いてシミアの前に滑らせた。
そこには力強い筆跡で、引用ページ数に至るまで几帳面にメモが取られていた。
「記憶が正しければ、君は以前の戦略論でこう強調していたはずだ。『兵站こそが戦争の血液である』と」
アレクシスは先ほどの講義内容を指差し、鋭い視線を向けた。
「物質的基盤が全てを決定するというなら、なぜバイロン先生の言うような『形而上の意志』ごときが、王朝の興亡を決める基準になり得るんだ? これは唯心論的な詭弁ではないのか?」
シミアはノートを一瞥した。
詳細だ。自分よりも克明に記録されている。
この男は、たとえ相容れない意見であっても、嫌悪する立場であっても、この国の思考論理を必死に理解しようとしている。
シミアはその貪欲さを敏感に感じ取った。
深く息を吸い込む。ひんやりとした空気が肺を満たすと、思考を整理するまでもなく、答えが脳裏に浮かび上がった。
「アレクシス君。私の以前の理論には、一つだけ大前提があるの」
シミアは人差し指を立てた。
「前提?」
「そう。『双方が同等の意志を持っている』と仮定した場合に限り、兵站理論は成立するの」
困惑するアレクシスを見て、シミアは彼の羽ペンを借り、計算用紙に二本の線を引いた。
「簡単な思考実験をしましょう」
シミアの声は大きくはないが、不思議な浸透力を持っていた。
「あなたが、徴兵された農民だと仮定して。任務は、自分の故郷で侵略者と戦うこと。戦況は絶望的で、敗北は目前。……さて、あなたの最も合理的な行動は?」
アレクシスは少し考え、即答した。
「勝てないのなら、生命を保全するのが合理的だ。家に逃げ帰るか、地の利を活かして山へ隠れる」
シミアはアレクシスの回答をそのまま書き留めた。
「正解。なぜなら『家』がすぐ後ろにあって、逃げ道(退路)があるから」
シミアは頷き、そして指先の向きを変えた。
「じゃあ、もしあなたが今、異国の地にいる侵略軍の兵士だったら?」
アレクシスの瞳孔が収縮する。
「それは……」
「異国の地で、言葉も通じず、地理も不案内。軍隊からはぐれれば、あなたはただの獲物よ」
シミアは淡々と解剖していく。
「だから侵略側の兵士は、逆説的に逃げることができない。固まって死ぬまで戦うしかない。……でもね、これはあくまで『兵士レベル』の話」
彼女は紙に『王』という文字を書いた。
「国家意志のレベルになると、論理は逆転するわ」
シミアは顔を上げ、アレクシスの目を真っ直ぐに見据えた。
「これが防衛戦の場合。負ければ国は滅び、土地は奪われ、家族は奴隷になる。ローレンスの王にとって、これは『負けられない戦い』なの。退路がないから、最後の一兵になっても意志は崩壊しない」
アレクシスの表情が険しくなる。
彼は気づいたようだ。シミアが何を――かつて銀潮連邦が仕掛けた王都への奇襲を――暗喩しているのかに。
「対して、銀潮連邦は?」
シミアは続ける。口調は穏やかだが、言葉の一つ一つが真珠のように硬質だ。
「侵攻側にとって、戦争はただの『試み(トライアル)』であり、一種の『投資』に過ぎない。勝てば儲けもの、負けても軍を一つ失うだけ。撤退して、ほとぼりが冷めた頃にまた来ればいい」
「つまり……」アレクシスが呟く。
「つまり、最初からテーブルに乗っているチップ(賭け金)が不釣り合いなのよ」
シミアはノートを閉じ、アレクシスの方へ押し戻した。
「これが、『意志』が『兵站』を凌駕する理由。片方が『生存』のために戦い、もう片方が単なる『利益』のために戦っている時――生存を懸けた側は、最後の一滴まで血を流せる。対して利益で動く側は、赤字が想定を超えた時点で損切り(ロスカット)して撤退する」
アレクシスは沈黙した。
目の前の少女を通して、彼はかつて盤上で自分を完膚なきまでに叩きのめした「あの敵」の影を見ていた。
パチ、パチ、パチ。
不意に、疎らな拍手が鳴り、やがてそれはさざ波のように広がった。
シミアが驚いて顔を上げると、いつの間にか座席の周りは、銀潮連邦の制服を着た留学生たちで埋め尽くされていた。
彼らは当初、アレクシスの動向を野次馬していただけだったが、思いがけず展開された極上のゲーム理論に聞き入っていたのだ。
「……素晴らしいよ、シミアさん」
アレクシスは深く息を吐き、心からの感嘆を漏らした。
「やはり君は……ただの学生ではないな」
「え?」シミアは小首を傾げた。その称賛の裏にある意味に気づいていないようだ。
「この講義には高い価値があった。代金は取らないと言われたが、これでは借り(デット)ができてしまったな」
アレクシスはノートを抱え直し、瞳に熱っぽい光を宿した。
「今後も疑問があれば、また教えを乞いに来てもいいだろうか?」
衆人環視の中、シミアは呆然と頷いた。
「う、うん。もちろん」




