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ミリエルの別れ

シミアの部屋は、窒息しそうなほどの重苦しい空気に包まれていた。


数名の医師が、ベッドを取り囲んでいる。

彼らの額には脂汗が滲み、交わされる小声の議論には、焦燥と諦めが入り混じっていた。


ベッドの上のシミアは、硬く目を閉ざしている。

身体の血汚れこそ綺麗に拭い取られているものの、眉間には深い皺が刻まれ、時折、極度の苦痛に耐えるように体が小さく痙攣する。

まるで、逃げ場のない煉獄れんごくの炎に焼かれているかのように。


廊下から、慌ただしく乱れた足音が近づいてくる。


「どきなさい! 全員、そこをどいて!」


トリンドル・エグモントが部屋に飛び込んできた。

貴族としての淑やかさなどかなぐり捨て、彼女は病床を取り巻く医師たちを乱暴に押しのけた。

ベッドに横たわる、生気のない友の姿を目にした瞬間。彼女の声が震えた。


「シミア……どうなの!? どうしてまだ目が覚めないのよ!」


医師団の長である老人が眼鏡を外し、無力感に首を横に振った。


「残念ですが、お嬢様。これは通常の病気や怪我ではありません。シミア様の外傷は既に癒え、バイタルも安定しています。ですが、彼女の意識だけが……我々の手の届かない場所に閉じ込められているのです」

「手の届かない場所、ですって!? あなたたち、王国でも指折りの名医でしょう!」


怒鳴りつけようとしたトリンドルだったが、シミアの紙のように白い横顔を見た途端、怒りの炎は巨大な恐怖の水に飲まれて消えた。


死のような静寂が、部屋を支配する。


トリンドルは下唇を強く噛み締めた。口の中に鉄錆のような血の味が広がり、その鋭い痛みが、彼女になんとか理性を呼び戻させる。


「…………わかったわ」


彼女は深く息を吸い、踵を返すと、医師たちに向かって深々と頭を下げた。


「取り乱してごめんなさい。……あなたたちの判断を信じるわ。必要な薬があれば何でも言って。費用がいくらかかろうと、エグモント家が全て負担する。……これからの治療も、どうかお願いします」

「はっ! シミア様のために、我々も全力を尽くします!」


その重い託付たくふを受け取った医師たちは、邪魔にならぬよう部屋の隅で看護のシフトを組み直し、音もなく退室していった。


 * * *


扉が閉まりかけた、その瞬間。

透き通るような白い手が、扉を押さえた。

優雅で、どこか懐かしさを覚える紅茶の香りが、部屋に充満していた苦い薬草の匂いを一瞬で塗り替える。


「どうして……どうしてまた、シミアなのよ……」


トリンドルは入り口に背を向けたまま、嗚咽を堪えるように声を絞り出した。

彼女はシミアの冷たい手を両手で包み込み、自身の体温を分け与えようと必死だった。


来訪者は、その問いには答えなかった。

軽やかな足音がトリンドルの背後で止まる。そして、震える肩越しに、ベッドの上の苦痛に歪む寝顔を見つめた。


「コーナ。シミアの状態を」


ミリエル・ローレンスの声は、恐ろしいほどに凪いでいた。そこには何の感情の起伏もない。


「はい」


影のように付き従っていたコーナが、ベッドの反対側へと回る。

彼女が華奢な指先をシミアの額にかざすと、そこに小さな、水晶のように透き通った水球が凝縮された。

水球は瞬く間に無数の光の粒子へと分解され、シミアの呼吸や皮膚の隙間から、優しく体内へと染み込んでいく。


ミリエルはトリンドルの隣に立った。

彼女はトリンドルを見ようとはせず、ただ呆然とシミアを見つめ、奥歯を噛み締めていた。何か、爆発しそうな感情を必死に押し殺すかのように。


「今回の事態は、私にとっても想定外だったわ。……でも、後悔している時間はないの。トリンドル」


トリンドルが弾かれたように顔を上げ、ミリエルを睨みつけた。

だが、その目に映ったのは、いつものような「仮面の微笑」を浮かべた女王ではなかった。


そこにいたのは、死地へと赴く戦士の顔。

悲壮なまでの、決意の表情。


トリンドルの心臓が早鐘を打つ。ある恐ろしい推測が、脳裏をよぎる。


「……南方?」

「ええ。南方よ」


ミリエルは、明日の天気の話でもするかのように冷徹に肯定した。


「彼らがさいを投げた以上、座して死を待つわけにはいかない。……けれど、その前に」


ミリエルが顔を向け、その銀色の瞳でトリンドルを射抜く。


「教えてちょうだい。エグモント家の態度は?」


それは極めて危険な、政治的な問いだった。

だが今この瞬間、薬草の匂いと絶望が漂うこの部屋において、それはただの「少女同士の取引」だった。


トリンドルの表情が、微かに変わる。

悲しみを仮面の下に隠し、エグモント家の継承者としての冷たい声色で答えた。


「父上は言っていたわ。もし、あなたがそう聞いてきたら……『バセス爺に聞け』、って」

「……そう。バセス将軍か」


その名を聞いた瞬間、ミリエルの張り詰めていた神経がわずかに緩んだようだった。銀の瞳に、懐かしさと安堵の光が揺らめく。


「それなら、安心ね」


その時、コーナが診察を終えた。

目を開けた彼女の顔色は、かつてないほど深刻だった。


「ミリエル様、状況は芳しくありません。シミア様の肉体的な損傷は回復していますが、彼女の意識そのものが、何らかの強大な力によって強制的に閉ざされています。……これは通常の魔法ではありません。魂そのものを縛る、強力な『呪い』のようなものです」

「呪い、ですって!?」


トリンドルが悲鳴のような声を上げた。


「今の時代に、そんなレベルの魔法を使える人間がいるというの?」

「私も驚きましたが、そうとしか考えられません」


コーナはミリエルを見やり、声を潜めた。


「これほど強力な術を行使できる者は、大陸でも限られます。……恐らく相手は、鋼心連邦でも指折りの使い手――あの『ヴォルフ』級の刺客かと」


部屋の空気が凍りついた。

そのレベルの強者が動いたということは、もはや単なる誘拐や暗殺未遂ではない。明確な「宣戦布告」だ。


ミリエルは、精巧な硝子細工のように美しい、けれど悲痛な面持ちでコーナを見た。


「治せるの? コーナ」


コーナは僅かに沈黙した後、力強く頷いた。


「……解呪は困難を極めますが、決して不可能ではありません。私が全力を尽くして術を解いてみせます。時間さえあれば……」

「なら、任せたわ」


ミリエルは深く息を吸い込み、再びトリンドルへと向き直った。


「トリンドル。私がいない間、以前の『約束』はまだ有効かしら?」

「はぁ?」


トリンドルは苛立たしげに髪をかきむしった。その目はまだ赤く腫れている。


「こんな時に何のなぞなぞよ! 誰にわかるって言うの! あんたの正体を秘密にする件? それとも抜け駆け禁止のこと?」

「どちらでもないわ」


ミリエルは首を横に振った。

その銀色の瞳には、すべてを託すような光が宿っていた。


「私の手が届かない場所で、私の代わりに――あなたがシミアを守るということよ」


トリンドルは一瞬呆気にとられ、すぐに侮辱されたかのようにミリエルを睨み返した。


「そんなこと、あんたに言われるまでもないわよ! いちいち命令されないとシミアを守れないとでも思ってるわけ? あんたのその自意識過剰なところ、本当に鼻につくわ!」


彼女は顔を背け、再びシミアの手を強く握りしめた。声のトーンが、低く落ちる。


「……私が息をしている限り、二度と誰にも彼女を傷つけさせたりしない」


その横顔を見て、ミリエルはようやく心からの、けれど重荷を下ろしたような苦笑を浮かべた。


「なら、いいわ」


彼女は最後にもう一度だけベッドに歩み寄り、手を伸ばした。

シミアの額にかかる前髪を、壊れ物を扱うように繊細な手つきで払う。


「ごめんね、シミア。……一緒に立ち向かうって約束したのに。今回は、先に行くわ」


彼女は身を屈め、祈るように、あるいは告解するように、シミアの耳元で囁いた。


「もし……私が帰ってこられなかったら。その時は私の代わりに、この国を守って」


言い終えるや否や、彼女はひるがえった。

鮮紅のドレスの裾が、決別の弧を描く。


「ミリエル様、本当に行かれるのですか? この時期に、南への親征など……」


背中を追うコーナが、不安に満ちた小声で問う。


「ええ。これはシミアへの誓いであり、女王の責務よ」


ミリエルは振り返らなかった。

その声は廊下に響き、空虚で、どこまでも孤独だった。


「ここの全ては、貴女に任せるわ。コーナ」

「…………はい」


扉が、ゆっくりと閉ざされる。

後に残されたのは、悲しみに満ちた部屋に漂う、微かな紅茶の香りだけだった。

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