2-9
レオンハルトと並んで、私室へと戻る廊下。
ほんの数日。それだけのはずなのに、この場所で過ごした時間は、確かに澪の胸に深く刻まれていた。
窓の外、中庭の洗濯場では、今朝洗ったばかりの自分のブレザーが春の風に吹かれて頼りなく揺れている。それは、この館での日常がまだ続いているのだと錯覚させる、残酷なほど穏やかな光景だった。
足音が、やけに静かに響く。
ふと隣を見ると、レオンハルトがこちらを見て──何かを言いかけ、喉の奥で飲み込んだ。
視線を逸らす。それが一度ではないことに、澪は気づいてしまう。
けれど、それを聞く勇気はなかった。今の彼に問いかけることは、彼が必死に守ろうとしている「均衡」を壊してしまうような気がしたから。
「……では、ここまでだな。」
私室の前で足を止め、扉が開かれる。そのまま別れるはずだった。
「……ヴァルク卿。」
思わず呼び止める。呼び方を、親しみのある名から一線を引いた公式なものへ。彼の眉がわずかに寄るのを見て、澪は胸の奥を締め付けられながらも、小さく笑った。
引き止める理由なんて、どこにもないのに。
「今まで……ありがとうございました。」
その言葉だけが、やっと出た。
レオンハルトは何も言わない。ただそっと、澪の頭に手を置いた。慈しむように、けれど痛みに耐えるように優しく撫で──すぐに離す。
まるで、それ以上触れてしまえば、二度と彼女を離せなくなると自分を律するように。
背を向けて去っていく、その広い背中。
声にならない「待って」を飲み込み、澪は静かに部屋へ入った。
持っていくものは、何もない。──そのはずだった。
控えめなノックの音が響き、入ってきたのは青い髪のメイドだった。
目は真っ赤に腫れ、今にも崩れ落ちそうな顔で、純白のローブを抱えている。
「お嬢様……っ。王都へは……行かないでください……っ」
かすれた声が、嗚咽に混じって続く。問いかける澪の声は、自分でも驚くほど弱く震えた。
「──戻れなくなります。あそこは、人を人と思わぬ魔窟です……。それに、お嬢様は兄を……ルークを助けてくださった。あの恩を、私たちは一生忘れません。だから、あんな場所へ行ってほしくないのです……」
その言葉が、澪の胸の奥底に沈む。
ルーク。かつて瀕死の重傷を負っていた彼を、必死に助かって欲しいと祈ったあの夜。自分が蒔いたささやかな善意が、今、最悪の孤独の中で自分を支えてくれている。
「“陽だまりの聖女”様も……」
そこまで言って、メイドはハッとして口をつぐんだ。言ってはいけない禁忌だと、本能で理解しているようだった。代わりに差し出されたローブは、ひどく冷たかった。
新品のはずなのに──まるで長い間、光の届かない場所に放置されていたかのように。
「ありがとう……大丈夫だから。」
自分に言い聞かせ、袖を通す。
重い。
わずかに体に合っていない。それだけじゃない。──自分の肌に、全く馴染まない。
鏡の中の自分が、ひどく遠く感じた。それはもう、レオンハルトの隣で笑っていた「澪」ではなかった。
「ガルドさん……あの、洗濯場の服。乾いたら……レオン様に、預かっていてほしいって、伝えてください。いつか、私がこれを取りに帰るまで。」
廊下で待っていたガルドに、彼女はそう言い残した。
今は着ることのできない、けれど自分が「自分」であった証。
ガルドの悲痛な視線を背に、澪は執務室へと向かう。
扉の前で立ち止まり、ノックしようと手を上げた、そのときだった。
「……王命を拒否すれば、どうなるか。ヴァルク卿ならお分かりですよね?」
氷のような冷徹な声が、内側から響いた。
「新しい『器』が必要なのです。……穢れなき、聖女が。」
空気が、一瞬で冷え切った。逃げなければと本能が警鐘を鳴らしているのに、足が石のように動かない。
「聖女様は、よほどお暇とみえる。」
レオンハルトの声が、低く、地を這うような皮肉を孕んで響く。
「よければ姉──“陽だまりの聖女”が眠る北の森に、祈りでも捧げられてはいかがか。」
彼が冷徹な仮面を被り、あえて不敬な言葉を吐いているのは、自分をこの毒から遠ざけようとしているからではないか。そう思った、瞬間。
「そうですわね。」
静かな声が、重なった。セレナだ。
「お姉さまが眠る地が、いつまでも平穏であるよう――祈りましょう。」
わずかな溜めの後の、その言葉。澪の指先がかすかに震える。澪は、自分の胸元で冷たく光る聖女の衣をぎゅっと握りしめ、覚悟を決めて扉を押し開けた。




