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未だに眠る澪を私室に運び込むと、メイドたちはすでに湯を整えていた。
レオンハルトは布を浸して絞る。本来なら彼女たちに任せるはずだったが──「見えない壁」が他人の介入を頑なに拒んだ。
「……選別か。」
敵意ではなく、害する可能性の排除。
澪の黒髪をすくい上げ、絡まりを解く。その拍子に彼女の指先が微かに動いた。拒絶ではなく、縋るような無意識の反応。
「──外は俺が防ぐ。内はお前が掴め。俺は絶対、離さない。」
やがて廊下の静寂を破り、ルークが琥珀色の薬湯を運んできた。ルークとメイドを下がらせ、レオンハルトは銀のスプーンを澪の唇に押し当て、祈りを込めて流し込む。
冷たい銀が熱を呼び覚ました。夢の淵で意識を取り戻した澪は、目の前に迫るレオンハルトに、反射的に手を伸ばし──。
「──っ、な、何を……!!」
乾いた音が室内に響いた。レオンハルトの頬が弾き飛ばされ、床に落ちたスプーンが虚しく鳴る。
「あ……レ、レオン様……?」
掌の痺れ。そして、目の前で赤く腫れていく彼の頬。
唇に残る生々しい残熱が混乱を呼び、全身を不穏な恐怖が包み込む。
(レオン様が、寝ている私に……そんな……)
「……拒絶か。」
壊れそうな声が、彼の唇からこぼれた。
見えない壁は自分を通しても、目覚めた彼女が真っ先に選んだのは拒絶の平手打ちだった。
「……すまない。怖がらせるつもりはなかった。」
彼は落ちたスプーンを拾い上げた。その瞳には、射抜かれたような深い色が滲んでいる。しかし、彼女の首筋を蝕んでいた黒い紋様は、すでに消えかけていた。
「……ミオ、気分は?」
「……あ……体が、軽いです。」
安堵の間もなく、遠くから床を打つ容赦のない響きが迫る。
王都の使節団、そして聖女セレナ。見られれば、澪は間違いなく連れ去られる。二度と戻らなかった姉と同じ運命へと。
「……ミオ。今すぐ、その服を脱げ。」
「えっ……? でも、私……。」
「その異国の装束は目立ちすぎる。時間がない、早くしろ!」
レオンハルトは予備の訓練服を引っ張り出し、背後の澪へ乱暴に投げ渡した。そして弾かれるように彼女に背を向け、扉と彼女を隔てる「肉体の壁」となった。
「……レ、レオン様?」
「見ない。……だから、早く着替えるんだ。一刻を争う。」
背後で布が擦れる音。ボタンが外れる微かな音。
彼は握りしめた拳を震わせ、近づく足音に全神経を研ぎ澄ます。
「お前を守るためだ。……以前言っただろう。頼みたいことがあると。」
着替えを急かす背中越しに、その言葉が投げかけられた。
「これを着て、俺の近習として傍にいろ。……それが、俺の頼みだ。」
(……あの日、仰っていたのは、このことだったの……?)
羞恥に顔を火照らせ、澪は震える手でブレザーを脱ぎ捨てた。粗末な麻のシャツに腕を通す。
唇を奪った──そう信じている男が、背を向けて自分を守るその広い肩は、あまりに雄弁な独占欲の塊に見えた。
「……できました、レオン様。」
「……よし。髪を隠せ!」
レオンハルトは振り返るなり、彼女の豊かな黒髪を帽子の中に押し込み、首元まで厚手の布を巻き付けた。
そこには異国の美少女の面影を消した、泥にまみれる準備を終えた「小さな騎士」が立っていた。
「今日からお前は俺の近習『ミーオ』だ。誰が何を言おうと、俺の傍を離れるな。……俺がお前を、誰の手にも渡さない。」
扉のすぐ向こう側で、靴音が止まった。
一瞬の静寂。
「来るぞ!」
レオンハルトの低い声に、澪の小さな拳が握られる。
扉が乱暴に弾き開かれ、鎧の擦れる音と影が押し寄せた。
レオンハルトは小さな騎士を抱え込み、肩越しに鋭い眼光を向ける──二人は互いを盾に、運命の濁流を迎え撃った。




