春麗か ①
暖かい日差しに冷たい風が吹き、まさに春うららといった様子である。植物も小鳥も、そして人間もどこか夢心地である。
月占神社の宮司もその例に漏れず、むしろ申し子とも言えるだろう。目が覚めてもどこかぼーっとした様子で、社務所を開いた後も上の空であった。いつもの事なのでその妻も何も言わないのだが、特にこの季節はまだ早いたんぽぽの綿毛のごとき緩さであるため、ほとほと呆れていると溢す。
「凪、少しはちゃんとして頂戴。またお義母さんに叱られるわよ」
「もう慣れっこだし、そんなに頻繁に来るわけじゃないんだから大丈夫だよ。さすがのお母さんももう年を取ってしまったから、もうあのキレも無くなったしね」
そう言って、凪は欠伸をしながらデスクチェアの背もたれに思い切り寄りかかる。今日は人が来ない日のようだから、こうして安心して気を抜く事ができる。
「今日は何の予約も無いんでしょ?」
「そうね。祭事も何もないわ」
「だったら今日はここで寝てしまっても構わなさそうだね。実は遅くまで本読んでて…」
「またあの柳原三珠先生?孔程本の虫というわけでもないのに珍しいわね」
「あの人の世界観が本当に好きなんだ。何というか…真正って感じ?父さんが良く本を読んでいた人でね、なかなかああいう本を書く人っていないみたい」
「ふうん…私にはよく分からないけど…って、目を離した傍から!」
波美が気づいた時には、凪は栞を挟んだ本を取り出していた。なんだか美しい風景の表紙で、隅にはあまり主張しない字体で『独りぼっちの神様は 柳原三珠』とあった。小説と言えば、本は読まない自分が想像するものは小難しそうな題名で、中を開けばてんとう虫のごとく小さな文字でこれまた小難しい物語が綴られている。凪は時折そのような本も読むようだが、柳原の本は違うタイプの本だとかれは主張する。
「この人の本は、難しい漢字もルビ無しで出てくるし、文体も内容も含めて全体的に見ても古臭いんだけれど、とっても読みやすいんだよ。題名も惹かれるしね。だから、波美にも読んで欲しかったんだけど…波美はちょっと苦手なのかも」
うーん、残念、とぼやく彼の顔を見て、ちょっぴり幸せな気分になる。彼はいつも、妻や子供たちのために色々な事を考えて、幸せにしようと必死になる。甘やかす。時折それが心配になる時もあるが、波美はそんな彼を見ているのが好きだった。だから、必然的に彼にも甘くなってしまう。
「分かった分かった。この間私に勧めてくれた本あったわよね」
「ああ、『夏こまち』の事?」
「そうそれそれ。今日、社務所閉めたら貸してよ。凪がそういうなら、きっと面白いのよね」
「え!本当?やった、あれは本当に波美に読んで欲しかったんだ!あのね、主人公の女の子がお転婆な子でね、好きな男の子には粘着しちゃうシーンもあって、これが本当に波美にそっくりで…」
やっぱり甘やかすのはやめようと決意した。
「…にしても、今年は暖かくなるのが早いねえ。つい先月末までは雪が次々降ってたのに」
「もう三月だもの、春の支度もするわよ」
「そうかなあ。でも、僕はこのくらいの季節が好きだな。お日様があったかくて、風がまだ冷たくて。なんだか懐かしい感じがする」
「夏は?私は夏も好きだな。神社の杜の木陰で終わらない夏休みの宿題したり、西瓜食べてみたり…お腹いっぱいになったらお社の縁でお昼寝もしたわ」
「きっと神様も一緒になってお昼寝してたんじゃない?」
「よく分かんない。神様がまともに見えるようになったのも、凪と結婚して孔にこっぴどくしごかれた頃だったから。…でも、もう一回ああいう事してみたいかも」
「…僕は夏は嫌いかなあ。すごく痛いから」
「そうよね。あなたはとても痛い思いをしたものね。…ごめんなさい、嫌な話をしたわ」
「いいよ。僕は波美のそういう話は好き。僕の大嫌いな僕の昔話を忘れられるからね」
波美は、選択した話題が失敗だった事で、一瞬押し黙った。凪は人生で最も辛かったと言える経験を夏にした。それから凪は夏がトラウマだった。夏の時期に過ごす分に何も問題は無く、季節だけで言えば彼は夏も好きだ。しかし、一度幼い夏の出来事を思い出してしまえば、何も手につかなくなってしまう。
孔にどうにかできないか聞いたことがあった。
「そんなもん魔女がどうしろって言うんだよ」
しかし彼にあっさりと跳ね退けられてしまった。一見冷たいとも取れる態度だが、凪は彼のその言葉に納得させられた。魔女の魔法でも、神様の神力でも何ができるわけでもない。孔の薬で記憶を無くしたって、薬の効力には必ず期限がある。それを際限無く続けてしまったところで、さらに苦しくなるだけである。凪のトラウマに対応できるのは凪だけ。分かっていても、どうすれば良いのか分からない。そんな悩みを悶々と続けて十数年。そうして今はやっと、夏を過ごす事だけはできるようになった。
「本当に気にしないでよ。少しは厳しくならなきゃね」
「…でも、無理だけはしないでよ」
「うん」
母家の方から、子供たちが走り回って遊んでいる声が聞こえる。その声を聞いて、本当に春が近づいているのかと実感した。




