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涼子を連れて自宅マンションに帰った知明は、まず涼子によってバスルームに押し込まれた。いくらなんでも舞台用の濃いメイクを間近で、しかも明るい場所で見るのは色々努力がいったのだ。
交替で涼子がバスルームを使っている間に、知明は涼子が用意してくれていた紅茶を飲んでいた。食べるものに特にこだわらない涼子の、唯一のこだわりが紅茶で、何度も知明の家に来ているうちに、知明の家にも紅茶葉や茶器一揃いが常備されるようになっていたのだった。しかし知明が一人でいるときは、それは使われることはない。だから今日の紅茶は知明にとって久し振りのリーフティーの味であり、それはつまり、この部屋で涼子の存在を感じることと、同義であった。
バスルームから出てきた涼子が、知明のいるソファの隣に座った。自分用に紅茶を入れ、一口飲んでほっと息をつく。
涼子は、知明のTシャツと短パンを借りて着ていた。まだ少し湿った髪の毛は、まっすぐに彼女の肩に落ちて、毛先を遊ばせていた。
「…あれ?髪の毛、もしかして変えた?」
「ああ、うん、また髪の毛ごっちゃになってたから。ストパーかけた」
分かる?と涼子が首を傾げて笑いかける。
「…俺は、前のがよかったんだけどな」
言いつつ、知明が涼子の髪に手を伸ばす。指先に髪の毛を絡めて、軽く巻いてみる。
「…トモさんは、そう言うよねえ。でも、面倒なんだよ?あれ」
絡むし、ひっかかるし、まとまりにくいし。呟く涼子に、知明が軽く声を上げて笑う。
笑いながら、指に絡めた髪の毛を掴み、涼子に顔を寄せる。引き寄せられながら涼子がそっと目を閉じる。その瞼に知明が唇で触れる。
頬のラインをなぞるように唇をゆっくり当て、辿り着いた唇に、優しく唇を重ね合わせる。涼子の腕が知明の背中に廻され、軽くしがみつく。涼子の体を抱きしめる知明の腕に、力がこもる。次第に情熱的になる知明のキスに、涼子も応えていく。
首筋から鎖骨に、何度も口吻け、時折紅い痕を残す。鎖骨の窪みに強く吸い付きながら軽く歯を当てると、涼子が息を詰め、頭を仰け反らせる。
涼子のTシャツの中に手を差し込み、しなる背中に直に触れると、びくりと肌が震える。柔らかい肉の下の骨の感触を探すように指を這わせ、掌で擦ると、涼子がくすぐったそうに身を捩る。その反応が、知明の身体の熱を上げる。
知明が涼子を、ソファの上に倒れこむように押し倒す。大き目のTシャツをたくし上げると、何も着けていない涼子の胸が顕わになる。涼子が頬を紅潮させるのを見て、知明がにっ、と笑みを浮かべる。涼子がそんな知明の表情に軽く眉を上げ、声は出さないまま、口をぱくぱく動かす。おそらく、「ばか」か「すけべ」か、そんなところだろう、と知明は思うが、構わず行為を続ける。
臍の辺りに口吻け、ゆっくりと上に上っていく。両の掌も唇の動きに合わせて、脇腹からゆっくり這い上がる。柔らかい胸のふくらみに辿り付くと、そっとその頂を、舌で舐める。
「きゃっ……」
くすぐったさを耐えるように時折小さく息を詰めるだけだった涼子の口から、小さく悲鳴が漏れる。吊られるように笑みを漏らした知明が、反対側の胸に唇を寄せ、同じように頂を舐めると、そのまま乳房を口に含む。
「うっ………」
涼子の口から、くぐもった声が漏れる。涼子は曲げた肘に口許を押し当てるようにして顔を逸らしていた。反対側の手は、胸を揉んでいる知明の腕を探り、その袖を掴む。
少しひんやりしていた涼子の大き目の胸を、自分の熱で暖めようとするように、知明は何度もそれに触れる。柔らかくて、弾力のあるその感触は、知明が彼女の身体の中で、最も好きな部分でもある。
優しく唇で触れて、強く吸う。掌と指で撫でて、優しく掴む。滑らかな肌の表面の感触と、その奥の、反発するような弾力。そんな執拗な愛撫への従順な反応、それを抑えようとする涼子の仕草。その全てが、知明にとっては何よりも官能的で、刺激になる。
「涼子サン」
顔を隠す涼子に近付き、唇を触れさせる。ゆっくりと腕から顔を上げた涼子が、まぶしそうな目で知明を見上げる。紅潮した顔と、潤んだ瞳に見つめられ、知明は惹き寄せられるように口吻けをし、舌で口内を一頻り、舐める。
「きもちいい?」
唇を離した知明が意地の悪い笑みで問いかける。涼子はそんな知明に眉を顰めるが、無言のままぐい、と彼の頭を抱えて自分に引き寄せると、自分から彼に口吻けをする。不慣れな舌が彼の上唇の裏を舐め、前歯に触れる。
知明の両腕が、少し浮かせた涼子の背中の下に差し込まれ、強く抱きしめた。合わせた唇の間で知明が口を開け、涼子の舌に自分の舌を絡ませて引き込む。涼子が少し苦しそうに眉間に皺を寄せる。知明の身体の重みと、激しいキスを受け止めて、涼子は全身にじわじわと熱が広がるのを感じていく。火照ったように熱くなった指先が抱え込んでいた知明の頭を撫で、その髪の間に指を滑らす。敏感な指の肌が、常よりも更に敏感になって、触れる髪の感触のくすぐったさすら、官能の刺激へと変換して涼子の頭を熱くする。
息を切らして唇を離した知明が、至近距離で涼子を見つめる。
「涼子サン」
掠れたような声で、涼子を呼ぶ。涼子が閉じていた瞼をゆっくり開けて、その隙間から潤んだ瞳で知明を見上げる。
「…ここじゃイヤ」
呟くように言うと、知明の肩に頭を寄せ、抱きついた。知明は彼女を抱きつかせたまま身体を起こすと、そのまま彼女の身体を抱き上げ、寝室へと入っていった。
***
その朝は、リビングルームで鳴った携帯メールの着信音で始まった。
まだ早朝と言える時間にけたたましく鳴る携帯電話を、起き出してきた知明が、不機嫌そうに取り上げる。彼と一緒にベッドにいた涼子も、幾分ぼんやりしたままTシャツ姿でリビングに出てきた。
「どしたの?」
「…マネージャー……」
「…加々見さん?どしたの?」
知明が乱暴に携帯電話を閉じると、大きくため息をつきながらソファに勢いよく身を沈める。
マネージャーの加々見恭介から早朝送られてきたメールは、昨夜ミーティングをすっぽかした分、今日は朝から事務所でミーティングをすることを告げるものだった。車もそのときに持ってくるように、と続けられた上に、寝坊しちゃ駄目ですよ、と付け加えられていた。
こんな早朝に、諸々の事情から携帯電話の着信音は切らないことにしている知明のことを知っているはずのマネージャーのこの文面は、昨夜の意趣返しとしか、知明には思えなかった。
知明の簡単な事情説明に、涼子は思わず吹き出した。そして以前会ったことのある加々見の苦労性ぶりを思い出した。そこで更に昨夜の知明の行動を振り返ると、余計に笑いがこみ上げてくるのだった。
憮然としたままの知明をリビングに残したままバスルームで着替えを済ませた涼子は、キッチンに向かった。手早くコーヒーメーカーをセットすると、冷蔵庫の中から適当に食材を選んで朝食の準備を始める。
「加々見さん、いい人じゃないですか。ちゃんとモーニングコールもしてくれて」
「あれはいい人とは言わない。腹黒って言うんだ」
絶対に、確信犯だ、こいつは、などとぶつぶつ呟く知明に、涼子が呆れたように笑う。笑いながらも知明に着替えてくるように言うと、意外と素直に知明はバスルームに消えた。何だかんだ言って真面目な知明は、多分、可愛いと、涼子は思う。
トーストとサラダとスクランブルエッグ、それにコーヒーで簡単に朝食を摂ると、知明は外出の仕度を始める。涼子はキッチンを片付けてしまうと、リビングでテレビを眺めてぼんやりしていた。
涼子は外出、というか帰宅の準備といっても、荷物はバッグ一つだけの上、宿泊の準備など何もしていなかったため、昨夜洗濯しておいた衣服に着替える以外、メイクも何もできない。町に人が増える前にうちに帰らなきゃなあ、などとぼんやり考えていた。
「涼子サン」
声をかけられて顔を上げると、仕度を終えたらしい知明が目の前に立っていた。
「もう出るの?」
腰を上げかける涼子に、知明は頭を振ってそれを制した。
「俺が出かけるのはまだだけど、涼子サンは好きな時間までここにいていいよ」
そう言って知明は、両手で取り上げた涼子の右掌に何かを握った拳を乗せ、涼子の手に何かを握らせると、そっと両手を離した。
涼子が自分の目の前に掌を戻してゆっくり開くと、そこには小さな白い紙の包みがあった。開いた包みの中には、小さなカードキーと銀色の小さな鍵が入っていた。涼子が目を丸くして知明を見上げる。涼子の隣に腰を下ろしていた知明が、その視線を正面から受け止める。
「それ、ここの鍵。涼子サンにあげる」
「あげる、て…」
「それから、事務所にも話したよ」
「は?」
「別に、公表するとかそんなことじゃないけど。俺に涼子サンがいるってことだけ、伝えとこうと思って。なんか喜んでたよ、マネージャーも社長も」
知明のあっさりした告白に、涼子は眼を白黒するしかない。一体何の話が展開しているのか、すんなり涼子が理解するには時間がかかった。
「ええと、つまり…」
「いつでも好きなとき、ここに来ていいよ、ていうか、できればいつもいてくれると俺としては最高だけど」
少しの間を置いて、涼子がいきなり頬を真っ赤に染めた。
硬直している涼子の身体を知明は抱きしめると、耳まで真っ赤になっている涼子の頭を自分の胸に押し付けた。
いきなり望むものの全てを手に入れるのは無理だと、知明にだって分かっている。しかし、この羽根涼子という人物に関しては、多少強引でもしっかり捕まえておかないといけないことを、約1年ほどの付き合いの内に、知明は理解していた。
自立した上で自分の趣味を追求しようとする『新しい』タイプの女性であるわりには、涼子の人間関係における感覚は、どちらかと言えば古風である。上下関係とか体面とか、そういったことを非常に気にしてしまう。
自分の意志で自分の生き方を決め、そのための努力を惜しまない涼子の姿勢は、知明にとってはこの上ない憧れであった。どんな逆風や強風にも折れず、凛と立つその姿は、『高嶺の花』を思わせた。
だからこそ、知明は彼女に惹かれ、側に置いておきたいと手を伸ばした。
そしてきっと、これからも彼女に側にいてほしいと願うなら、自分には今以上の努力が求められるのだろうと、知明は感じていた。しかしそれでも、報われた時に得るものを思うなら、そんなことはなんでもないことだと思えるのだった。
「涼子サン」
胸元の涼子の耳元に唇を寄せて囁く。ぴく、と身を震わせながら涼子が知明の方に顔を向ける。知明の唇が耳に、頬に、順に触れ、最後に唇に唇を重ねた。
唇の隙間から舌を差し込むと、反射的に涼子が身体を引く。離れた唇を、もう一度重ね、角度を変えて深く吸い付き、舌を絡ませる。
家を出るまでのしばらくの時間を、知明は腕の中にいる涼子の存在を確かめることに費やした。
END