霧を断て
霧の中、背中合わせに立つクオンとベルリッツ。
二人は現在、一歩も動けない状況に追い込まれていた。アウリュンの気配は感じなくなったが、それでも彼女らが動く事が出来ないのは、ベルリッツがある仮説を立てた為である。
「ねえ、イスルギさん。これはあくまで仮説だけど……」
声を押し殺してベルリッツがクオンに囁きかけると、クオンもそれに合わせて音を立てぬように耳を貸す。
「イスルギさんも見たと思うけど、今アウリュンは全身が水になってるのよね?」
クオンは黙って頷き返した。
まだ辺りが霧に包まれる前、こちらを嘲笑してきたあのヒドゥンマス幹部は、それこそ人の形をした液体と呼ぶに相応しい姿だった。
「だったら顔も……例えば目とか鼻とかも水になっちゃってるんじゃないかしら」
ベルリッツの言葉の意味を理解したクオンは、はっと口を開きかけたがその口を自分の手で塞いだ。
一寸先も見えない程濃い霧の中を、レイとジオスが駆ける。二人は肩が密着せんばかりの近距離で、ほぼ同じ速度で走っている。これは別に離れる事が不可能になったという訳ではなく、互いが再びはぐれないようにというジオスの案だ。
そして、二人が走っている理由は……
「また来たぞ、ヴェナブルズ!」
霧の中から猛スピードで飛びかかって来たのは、先程目にした水の化け物……アウリュンだった。
それをジオスは大剣の腹で受け流し、すぐさま減速したレイに追い付く。先程からこの繰り返しだ。
攻勢に出たいのは山々だが、アウリュンの姿を視認し、あの変身能力の要であろう菱形の結晶に攻撃を仕掛けようとしても巧みにその位置をずらして回避され、再び霧の中に逃げられてしまうのだ。
自分達が今どこを走っているのか、もはや彼ら自身にも分からなかった。
「いつまでこうしてればいいんだ……!」
今度は背後から殺気。体力も底を突いてきた。途端に、左脚を焼くような痛みが襲った。見ればレイの脚からは多量の鮮血が流れ落ち、傷口が氷の膜に覆われていた。
「っっっ……!」
「ヴェナブルズ!」
レイの傷を見たジオスは悔いる様に唇を噛み締めた。この傷ではもう先程までのようには走れない。彼らはいつ終わるとも知れぬ逃避行を続け、そして今追い詰められようとしていた。
クオンとベルリッツは先程とは逆で、互いに向き合った姿勢で屈み込んでいた。
「成程、音か……」
クオンが声を押し殺して呟く。
アウリュンは音で……正確には空気の振動を探知して攻撃を仕掛けている。そうベルリッツは考えた。
「そう、だからこれを使うの」
彼女が取り出したのは一つの手榴弾。自棄になって自決しようとしている訳ではないのは話の流れからも明らかだ。
聞けばベルリッツはその爆発の衝撃を利用してアウリュンを誘き寄せ、また同時に撹乱しようというのだ。
「……了解した。しかし此れは危険な賭けだ。本当にやるのだな?」
クオンの表情には、いつになく不安の色が濃い。
「ええ、でもイスルギさんなら、動きが止まったあいつの弱点を確実に斬れるでしょ? それで霧が晴れれば形勢逆転よ。」
クオンが頷いたのを確認すると、ベルリッツは手榴弾のピンに手を掛け、それを引き抜いた。
「行くわよ、3……2……」
彼女が手榴弾を振りかぶり、投げんとしたその時だった。
「そこにいるのは……姉さんか!?」
彼女らの真後ろから聞き慣れた声が聞こえたかと思えば、レイに肩を貸しながら騒々しい足音を立てて走るジオスが、ベルリッツの目前まで迫っていた。このままでは衝突は避けられない。
「ジオスと……レイ君!?」
案の定、ジオスとベルリッツは派手に激突し彼女の手からは勢いよく手榴弾が飛び出した。
「え、ちょっ……あっ!」
それは宙を舞うと遠くの床へ音を立てて落下した。
そして再び迫る殺気。アウリュンのものだ。水の化け物と化したそれは高速で滑走し、レイ達へと近付く。
そして、咄嗟に飛び退いた彼らをすり抜け、迷わず手榴弾へと飛びかかった。
網目模様になった手榴弾の隙間から、微かな光が漏れる。
「伏せて!」
ベルリッツが言うまでも無く、彼らは反射的に身を屈めた。
そして耳を劈く轟音と共に爆風が押し寄せ、手榴弾が炸裂した事を知らせた。
髪の毛が少し焦げたかもしれない。レイはそんな悠長な事を考えていた。彼が目を開けると、既に辺りを包んでいた霧は晴れており、先程の手榴弾の爆心地には結晶に亀裂が入った状態で動きを止めた水の塊―――アウリュンがいた。
成り行きではあるが、狙い通りとなった好機をベルリッツは見逃さなかった。
「今よイスルギさん!」
「承知!」
ベルリッツの指示を受けたクオンは猟犬のように飛び出し、右腕に握った刀ですれ違いざまに紫色の結晶を斬り裂いた。結晶は一瞬遅れて砕け散り、アウリュンの全身がまばゆい光を放って人の形へと戻っていく。
光が消えると、水の衣を解除され、全身に傷を負ったアウリュンがよろめきながら立っていた。
まるで不死身の化け物だ、とレイは戦慄を覚えた。至近距離で手榴弾の爆発に飲まれながら二本脚で立っていられる彼女に恐怖せずにはいられなかった。
「お前ら、大丈夫か!?」
焼け焦げたホムンクルスに止めの肘打ちを食らわせながら、フェーゴが彼らの安否を尋ねる。彼もまた霧の中で敵を退け続けていたのか、体のいたるところに傷を負っている。
レイが周りを見回したところでは、みな茫然としてはいるが、全員が無事であるようなので彼は安堵する。しかしそれも長くは続かなかった。
「アンタ達……よくもこんなッ……殺してやる、全員、皆殺しに……」
レイの中で警戒信号が発せられる。アウリュンはまだ余力を残しているのだ。それこそこちらを皆殺しに出来る程の……古代魔術にも匹敵する力が。
アウリュンが早口で唱えたその言語は、正に古代語そのものだった。彼女の詠唱が終わると同時に、床からは通路を埋め尽くす程の水が波濤となって噴き出し、押し寄せる。
「くたばれ!」
彼らにそれを防ぐ手立てはなく、波に飲まれるのを待つばかりであった。
しかし、そんなレイ達の前に一人の巨漢が踊り出た。ジオスだ。彼は腕を大きく開き、仲間を守る為に立ちはだかったのだ。
だが、ジオスのその巨体を以ってしても仲間全員を覆い隠す事は出来ない。クオンに至っては今アウリュンよりも後方にいる。
荒波が彼らを飲み込む寸前、ジオスはそれに立ち向かうが如く、声の限り雄たけびを上げた。




