セシリアの過去 1
ウィブロンは語り出す。
セシリアの、あまりにも悲惨な過去を。
「あれは確か十年ほど前……俺がお前達くらいの時だったか。俺はセシリアの母親、セリア・ネフィリム先生に弟子入りして研究の手伝いをさせて貰っていたんだ」
ヴィルヘイズに建てられた化学技術研究所の一室。その中で一人、取り分け年若い少年がいた。それが当時のウィブロンだ。
そこで研究されていたのは、魔力により人体を完全に、かつ迅速に再生する方法だ。幅広く利用される治療魔術がまさにそれだが、その原理は未だに解き明かされてはいなかった。
「先生、これは凄い発見ですよ。きっと多くの人が救われますね!」
「だといいのだけれど……」
培養管の中に浮かぶ一つの眼球を前にウィブロンが感嘆の声を漏らす。
自然界に数多く存在する魔力には人の細胞と非常に近しい部分がある。そこにネフィリム博士は着眼したのだ。
現在、培養管の中に浮かぶ眼球は彼女の研究が形になったものと言える。使用した物はごく僅かな眼球の細胞と大量の魔力。無論、ただ同じ場所に置いておくだけでは眼球は出来上がらない。魔力を限りなく人間の細胞に近づけるべく作り替えるのだが、それを成功させたのはネフィリム博士が初めてである。
セリア・ネフィリムの研究は最早、大魔術の域にまで達していた。
「あそぼう、お兄ちゃん!」
突如ウィブロンに向かって投げかけられる、まだ幼い少女の声。
振り返ると、インディゴブルーの髪をセミロングにした少女の姿があった。セリアの一人娘、セシリア・ネフィリムだ。
父親を早くに亡くし、母親は研究に忙しい事が多かった彼女は、研究室で最も若いウィブロンにとてもよく懐いていた。
「駄目よセシリア、ウィブロン君の邪魔しちゃ」
セリアの注意には全く耳を貸さずに、セシリアはその大きな瞳でウィブロンのみを見つめていた。
「ごめんなさいね、面倒見させちゃって」
「いえ、こちらもいい息抜きになりますから」
研究室では世紀の発見に携わる事が出来、また自分を慕ってくれる存在もいる。ウィブロンの日常は、とても充実したものだった。
あの日までは……
セシリアの母、セリアの名にイーノは聞き覚えがあった。
「セリア・ネフィリム博士……聞いた事があります。確か、かなり著名な人物だったはずですが、突然行方不明になったとか……」
「後でその事も説明しないとな……」
ウィブロンは再び、記憶を過去へと遡らせる。
永遠だと思っていた安息が、一瞬で崩れ去ったあの日へと……
ある日の晩、ウィブロンは自宅で一人マグカップのコーヒーを啜っていた。
テーブルの上には極めて家庭的な、しかし一切の手抜きが感じられない料理が乗っているが、そちらには手を付けていなかった。
「遅いな、セシリア……」
今日はウィブロンがセシリアを招き、夕食を振る舞う約束になっていた。彼はセシリアの喜ぶ顔が見たいと腕に撚りをかけて作ったのだが、定刻になってもセシリアは現れなかった。
折角の料理が冷めてはいけないと思い、ウィブロンが料理を鍋に戻そうとした時、彼の家の玄関から慌しく扉を叩く音が聞こえた。
「誰だ? こんな時間に」
扉を叩く強さから察するに、セシリアではない事は確かだ。ではいったい誰が、と思いつつも彼が扉を開けると、そこにはいつになく取り乱した様子のセリアが立っていた。
「セリア先生! そんなに慌ててどうしたんです?」
「ウィブロン君、セシリアはこっちに来てない?」
「セシリアならまだ来てませんけど……」
言い終わらない内にセリアはその場に崩れ落ちた。ウィブロンが助け起こそうとすると、彼女は白衣のポケットから一枚の紙切れを取り出した。
一体セシリアがどうしたというのだろう、と困惑しながらもウィブロンはその紙を受け取った。
そこに書かれている文章の半分に目を通した時、彼の手に握られたマグカップが滑り落ち、床との衝突で悲鳴を上げた。
それは脅迫状だった。
『娘は我々が預かった。返してほしければ我々の為に研究をしろ』というお決まりの内容だが、問題はその差出人にあった。
ウィブロンも目を疑った。なぜ自分達が、何故セシリアが狙われたのか、と。
差出人は、当時から現在も変わらず、この大陸で最も危険視されている犯罪組織……
―――ヒドゥンマスだった。




